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04.家庭の歪みがおもてに出始めた頃

兄が小学校高学年から中学に入ってまもない頃までの間。
剣道の習い事と塾をサボるようになってきました。

行ったはずなのに行かなかったことがばれたのは、習い事の先生から連絡がきたからなのか記憶にないので分からないのですが

一緒にいったはずの友人の親御さんから連絡が来てバレたんじゃないかという記憶がうっすらとあります。

理由はなんにせよ、バレたことで母親は発狂して大声であちこちに電話をしているようすが思い出されます。

○○がいない! いなくなった!

その姿を遠目に見ながら、私は他人事のように本を読むか聞こえないふりをするか、母親に巻き込まれないように自分の世界に入り込んでいきました。

幸か不幸か母親は私に目もくれず、あちこちに電話をかけています。
時には電話で呼び出された父親が帰ってきて探しにいくこともありました。

私の存在はなく、母親は一人でパニック状態になっていました。
兄の居所が見つかったとて喜ぶわけじゃなくて、兄を怒鳴って責めての繰り返し。

私は自分の気配を消していたのもあって、帰ってきた兄がどうリアクションをしたのかが記憶にないのですが

兄はその行為をやめることはなく、いなくなって母親が発狂するということは何度も繰り返されました。

当時の兄の気持ちを想像することはできますが、本心はどうだったのかはもう分かりません。でも母親の押しつけに耐えかねた行動だったことは推測ができます。

兄も兄で辛かったでしょうが、兄がいなくなっている間に家庭でひとり騒いでいる母親を目の当たりにしていた私の負担も大きなものでした。

私のことはお構いなし。
親として、上の子のことは気にかかるけどそのことで下の子である私に心配をかけないようにしようという配慮は全く感じられませんでした。

親が目の前で半狂乱になっている姿など不安になるだけです。
もし私が兄と同じようなことをしたらお母さんは狂ってしまう……と考えたら

私は親の意に沿ういい子でいる道しか選択肢はなくなります。
お父さんに、お母さんに心配をかけないようにしなければと。

幼児期は父親という安全地帯の中で万能感にあふれていた私でしたが、幼稚園に入ってから、特に小学校にあがる頃からは、少しずつ自分を押さえ始めると同時におとなしく静かになっていきました。

それは傍から見たら何を考えているか分からない暗い子どもという見方も出来たと思います。
低学年の通信簿では、協調性がない、落ち着きがない、という言葉を書かれていました。

兄は外に向けて荒れた行動が増え
私は内に籠って自分の世界に入る行動が増え
どちらも真逆の様でしたが、それぞれの自分の守り方を築いていったに過ぎなかったのです。

母親は、私たち兄妹の表面的な態度だけを見て、兄を「いうことをきかない我の強い子」、私を「うるさく言えばやることはやるけど社交性のない子」というレッテルを貼っていきました。

私が読書感想文で賞を取ったことを隣の部屋にいる兄に聞こえるようにわざと大きな声で褒めたことは、お願いだからやめてくれといたたまれなかったです。

私を利用して兄にメッセージを送らないで欲しい
兄の怒りが私に向くことを増長させないで欲しい
心にもない誉め言葉を言わないで欲しい

勉強机に座っている私の横に立って大声で嘘っぱちな誉め言葉を言っている母親の声は、今でも脳内にでてきます。

「やめて」ということも出来ず、私はただ俯いて座って母親の監視の元、勉強を続けていました。

私は自分の気持ちよりも母親の気持ち、周りの気持ちを察することを優先する子どもになっていきました。

母親から私に暴力があったわけでもなく、矛先は兄に向いていたので私には被害は及んでないように一見みえますが

傍観者の立場でいることが感覚を鈍らせていくということが大人になり分かることで、私の立ち位置はラクなものじゃなかったと当時の辛さが今になりじわじわと出てきています。

その辛さを父親という安全地帯で逃すしかなかった自分
父親に甘えているとしか表面上見えない私に対しての兄の嫉妬
子どもが自分の意に添うように育てられない母親の戸惑いと怒り
それらを他人事のように見ていて、私をペットのようにかわいがることで兄妹間の分断をしていることにお構いなしの父親

これらのことをPCに打ち込んでいて、何とも言えない嫌な気持ちになります。私はこのような家庭で育ってきたのかと。

もちろん良いこともありました。それはそれとして別の記事で書いていきますが、良いことがあったからと嫌だったことを帳消しにできるわけもなく、表現できなかった辛い気持ちは心の奥に蓄積され、それぞれの心をむしばんでいきました。


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