見出し画像

03.家庭が闇にむしばみはじめた頃

以前、何となく家庭は機能していたことを書きました。

のちに少しずつ壊れていったのは、母親の病気が大きな要因ではあったけど
そのことが無くても少しずつ壊れていく経緯はたどるだろうし、その片鱗はいたるところにありました。

母親と兄の口喧嘩が多くなり始めたのは、兄が小学校中~高学年の頃からでした。それまでは母親が一方的に怒鳴りった後に、兄は私に八つ当たりしたり、出かけてしまうという流れだったのが
兄が母親に応戦し言い返すように変化しました。

親子の言い合いの原因として思い出すのは、兄が習い事をサボっていたことと勉強をしないこと。
それ以外にもあったはずですが記憶に残っているのはこのふたつです。

母親が兄をなじる、問い詰める。
一方的に言われた後に

うるせぇくそばばあ!

と言い、更に言い合いに発展し、最終的には兄が物に当たりながらその場を去る、という流れでした。

この時期は、妹である兄から見たら弱者的立場である私に対しての八つ当たりはありませんでした。むしろ私を無視というか、視界に入れていない感じです。

不完全燃焼の母親は、帰ってきた父親に兄がいかに悪者かというふうに話していました。それが耳に入ってくるのが苦痛だったし、そもそもケンカの様子を見ているのもたまらなく嫌でした。

同じ部屋に居ながら隅で絵本を読んでその世界に入り込み、親子喧嘩の声は聞こえども別世界にいるような感覚ですごしていました。

本当は怖かったはずなのに。泣いてもうやめてって言いたかったはずなのに。
それを言うことができないのなら、関わりたくなく別世界に飛ぶということを選ぶしかありませんでした。

子ども達が自分の思い通りにならなくて力ずくでそうしようにもどうにもならず、日々苛立つ母親

母親からの圧から逃れようと、自我を出せば出すほど余計に追い詰められ行き場をなくす兄

家族がどうあろうと他人事であり、晩酌をしながら末っ子の私をかわいがることで自分を埋める父親

家族の状態と自分の辛さを唯一甘えられる父親に告げることも出来ず、自分の世界に入り込み父親の甘やかしに乗っかり優越感に浸る自分

それぞれの家族の状態はこのようにバラバラで、誰かが誰かを気にかけるということはなかったように思います。

今は私以外の全員が他界しているため、想像でしかありませんが。

あの頃、外部の人たちと関わっていたことが救いだったように思います。
元々家族団らんで会話を楽しむということはありませんでした。いや、あったのかもしれませんが記憶にはありません。

誰かが言葉を発するけど、その先に会話のキャッチボールは無かったと思います。
外部と関わることで多少なりとも会話のキャッチボールをしていたのでしょうから、それがなく孤立した家庭だったとしたら…今以上に人とのコミュニケーションが取れず、取り方が分からず、生きづらさは大きかっただろうと思うと恐ろしいです。

同居して一緒に生活をしてはいましたが、お互いの心が通い合っていたとは思えない家族でした。

その証拠に、私は幼稚園で周りの友達と馴染めずにひとり浮いて過ごしていました。
みんなが園庭にわ~~っと喜んで遊びに行く中、私はどうしていいか分からず、どうやって人と関わっていいか分からず園舎の中でもじもじしていました。
自分から走り出していくことを選択しなかったとは言え、自分の意思を出して行動することに戸惑いを感じ動けなかった。。。あれは今思うとパニック的な行動でした。

こんな幼少期から私は自分を封じていたんだなと、どれだけ母親に抑制されていたんだろうと自分を憐れんでしまう気持ちが湧き出てきます。

その母親は、家の中では元気なのに外では引っ込み思案な私を

内弁慶

と揶揄し、〇〇ちゃんは挨拶をしっかりしてくる、○○ちゃんは友達が多い
とよく口にしていました。

直接的に私をダメ出しする言葉は使わないけれど、よその子と私を比較し私自身が自分を卑下する気持ちになる言葉をずっと言い続けてきました。
母親が最後の入院をするまで続いていました。
母親は、私が気持ちを出すことを封じておきながら、それを出来ないことをなじるということを無意識でしていました。

私自身もそれをされている自覚はありませんでした。
母親よりも甘やかしてくれる父親の方がずっとずっと好きでした。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?