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アダルトチルドレンの疑心

人を疑う気持ち、ありませんか。
私は大いにありました。疑心の中で生活していました。

人は信用ならないもの。いつか裏切るに決まっている。

そう、決まっていると自分で決めていました。

長い人生、確かに裏切る人もいるかもしれません。
でも裏切らない人もいるかもしれません。

裏切る、裏切らないというのは、こちらの思いとは別に
相手が主体となって決めることなので、こちら側ではどうすることも出来ないものですね。

ということは、どっちになるかはわからない。のに、私は「裏切るに決まっている」がデフォルトでした。


ここで寄り添うならば

裏切ると思ってしまうくらい、裏切り続けられた人生だったんだよね
となるでしょう。

その通りなんです。私の子ども時代は裏切り続けられた日常でした。
ことごとく期待を外され、スカされ、何事もなかったかのようにされてしまうということを味わってきました。

自分がけなげに頑張ってきたことが実にならず、その都度おおきな落胆が自分を痛めつけ、それに耐えうる力もなくて、私は「人は裏切るもの」という思考を持つことであきらめる方向にいきました。

ですから今の「裏切るに決まっている」という思考は、成育歴の中で自分を守るために生まれたものであることは間違いありません。


このように自分に植え付けられた思考は、大人になっても人間関係のベースとなり、当人にとっては自然な流れで発動します。

  

しかし、この疑心が 人間関係を築く上でじゃまになることがあります。

相手が裏切らない人の可能性もあるわけで、仮に裏切ったとしても致し方ない事情があることも考えられます。
それなのに私たちは自分の成育歴を理由に相手を疑って「裏切る人」という位置付けにするのは、どうなんでしょうか。

立場を逆にして考えると、親身になって協力しようと思っている相手に「裏切るに決まっている」と思われたら…悲しいですね、やるせなくなりますね。

でも!でも!と思う気持ちは分かります。

だって裏切られ続けてきたんですから。もうそんな思いはしたくない。裏切られた時の途方もない脱力感は、もう味わいたくないんです。

誰にも言えず、ひとりで抱え込んできた苦悩。
裏切り続けられてきたことよりむしろ、それを誰にもわかってもらえなかったことの方が辛くもあります。
   

苦しい選択ですが、今までの疑心を続けるか
自分が味わった落胆の思いを相手にも味あわせてしまうのか
自分の思いで行動は決められます。

この記事を読んでいて心が痛んだ方は、自分が変わるタイミングに来ているのかもしれません。

何を言ってるんだと頭に来たとしても、それも当然のこと。
そんなに簡単に変われるものじゃないですもんね。

心の世界は、どれが良くてどれが悪いというのは無いと私は思っています。
その人が、いちばん最善だと思うことをその時に選択しているだけ。

疑心があるのも当たり前。
でももし、そこから抜け出したい人は今一度、この記事を読んで自分に当てはめてもらえたらと願います。


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