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教養。

知識と教養ってよく並列で登場しますよね。

知識は脳みそというハードディスクにひとつひとつ蓄積されていくもの。勉強して増やせるものですね。子どものころ「ものしり博士」的な言い回しがあって、ものしりになりたいなあなんて思っていたことがありました。

知識ということで最初に戦慄したのは、大学に入学したばかりの時、浪人していた同級生が文学史に出てくる作品を読破していたこと。僕はタイトルしか知らないのに、あれはこうだったよなとか語り合っているのを見て、こりゃちゃんと勉強しないと相手にしてもらえないと本気で焦ったのを覚えています。そうは言いながら、学生時代は経験値を上げる方に忙しかったですけど。何かに行き当たるたび、頭でっかちで何にも知らない自分というのをいちいち思い知らされていた気がします。

次に意識したのは、バブルのあとくらいかなあ、楽器屋さんに行くと「知識対決お断り」みたいな貼り紙があって、思わず笑っていた時期がありました。いわゆるデータがあれこれ取り沙汰されるようになったころで、本で読んだりする機会が増えた。で。学校でもそうですけど、知識が増えると試してみたくなるから(笑)。「それマホ?」とか「ハカランダが云々」とか…往々にして楽器全体でなく細かいスペックにこだわる展開に辟易した楽器屋さんの回答が「知識対決お断り」の貼り紙だったのでしょう。これはその後インターネット時代の到来とともにさらにエスカレートしていきます。マニアの集まるところは大変でした。炎上とか日常茶飯事でしたね。うちはかなりなマニアサイトだと自分でも思っていますが、来てくださるみなさんがいい人ばかりで、炎上したことなかったですね。炎上はしてないけど少しヒートしたのは「Smokyのイントロの入り方は表か裏か問題」くらいかな(爆笑)。極めてめずらしかったと思います。改めてお礼申し上げます。

それに対して。教養って、辞書上は「広い知識から得た心の豊かさ」みたいなことが書かれています。知識は要るんですね。知識があったうえでそれにプラスされるもの。そう考えると、知識、経験、そういったものを積み重ねていって、自分がそれをどう受け止めた(ている)かが教養としてにじみ出てくることになるのかなと思います。

つまりは、それってすぐには表に出てこない。人生のどこかの時期で出てくるもの。ただ、知識なしではそこにたどり着けない。あくまでも知識があったうえで、自分が対峙する人や出来事、課題に対して働きかけていく際に使う(える)もの。孔子先生が「天命を知る」と言われた50代のわれわれができないといけないんでしょうね。もうすぐ「耳順」の年齢ですけど絶対できんなあ(泣)。

別に本を読んでいないといけないってこともないんでしょうけど、その人の幅を表すバロメーター的な部分は否めないとも思います。結局、教養の中には「他者と共有できるものの有無」ってあると思うんですよ。年齢、世代、性別、国境を越えて共有できるもの。で、共有できたときに「やっぱりあのときこれを覚えといてよかった」的なことになる気がします。それを経験だけで補うっていうとかなり激動の人生が要るような^^;やっぱり相互サポートがいいんじゃないですかね。どっちかに偏らず、が。

前置きがすごく長くなりましたけど、「奇跡の教室」ってご存じですか?神戸に灘っていうめちゃくちゃ進学校がありますけど、そこで教えていた国語の橋本武先生の話。今から10年ちょっと前にメディアでもけっこう取り上げられて有名になった方です。

「銀の匙」っていう小説を3年くらいかけて読んでいくという授業をされていく方で。銀の匙は青空文庫でも読めますので興味ある方はどうぞ。ひとつの作品をゆっくり読んでいく「スロウリーディング」。「わからないところがないようにする」。ふつうなら読み飛ばしてしまうようなところまで丁寧に読む。いま、われわれが「スピードと内容把握」と声高に言っているのと真逆に思える読み方です。僕、地頭はいいのに考えない人って苦手。本を読むって、あるいは文を読むって相手のペースに合わせるってことだと思うんです。それが「要するに何?」的な話になるのは、この段階で相手の意図より自分が喋ることを考えているからですね。合わせる気がない。だからすぐ答えを知りたがる。生徒はね、若手だから当然そういうやつがいるのは想定内ですけど。大人はなあ。音楽で例えると自分のフレーズだけ弾きたいばっかりで相手の演奏とか聴いていないひと。「いやいや聴いてよ」って。

こいつは何言ってんだろうというのを自分の中の知識に照らし合わせながら、最終的には腕組みして自分で考える力って大事だと思うんですよね。そうしないとそのあと「腹をくくる」ことができない気がする。今の「ファストリーディング」的なスタンスと、文科省が言っている「思考判断表現」とか言うのはなかなかビギナーには難しい気がします。やればやるほど考えさせない感じになっていく。「間」(ま)が必要だと思うんです。「間」ってうまい人しか取れないんですよね。へただと不安になって埋めようとする。上のセッションの話にも通じますね。教養ってこの間をコントロールできる力かなと思います。割り切って知識だけを提供する場にするのか、それとも腕組みして考える機会をすこしでも多く与えるのか。環境(学校)がどこを見据え(させ)るのか、それって大人の責任ですよね。この人の話を読んでそんなことを思いました。なお、ふつうの学校でこれができるか。残念ながら無理だと思います。1人の先生が教えていること、少人数であること、最低でもそういう条件が必要。その題材をもとにどこまで話を広げられるかという力は教える側にも必要。広げる方向も重要。よく授業の内容より余談の方を覚えてるなんて話を聞きますけど、そここそが先生の教養を垣間見れるからなのかも知れません。こわ〜(笑)。

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