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大牟田のはなし

2020年7月6日、夕刻。なんとも胸さわぎがしたニュース。トレンドにはみなれた「大牟田」の文字。トップにみえた冠水をつたえる画像は、実家から徒歩5分の交差点でした。前日、熊本人吉の水害をみて、熊本との県境にある出身地のようすがずっと気がかりだったのですが、はからずともいやな予感が的中してしまいました。実家や親族、友人やお世話になっているかたがたの安否を確認しつつ、さて、どうしたものかとかんがえる。

気持ちとしてはすぐにでも帰省し、なにか手伝いたいところなのだけど、この疫病下、東京新宿ではたらく僕が現地にむかうことは、いろいろかんがえるものがありますし、それにより元来必要な食料や物資などをうばうことにもなるので、もどかしいながらも、いまは情報収集にとどまっています。

すこし以前、勤めさきの専門学校の有志生徒たちとともに、大牟田で三年ほどかけデザインプロジェクトをおこないました。いま被災地として報じられる場所、その本来の紹介にでもなればいいかなと。つらつらとnoteをまとめます。


どげんかせんといかん

2011年3月の末。予備校からの友人 國盛麻衣佳さんからメールをいただく。そこには、震災のこと、それから前年、僕が有志生徒とともにおこなった島根県でのデザインプロジェクトについての感想と、その後ひかえていらした、大牟田と熊本荒尾におけるアートプロジェクトへのお誘いが丁寧にしたためられていました。その段階では具体的になにかというのも決定もしておらず、ともにかんがえながら計画をしてゆこうという趣旨のもの。

そのころ、市内にのこる旧三井三池炭鉱関連施設が、ユネスコ世界文化遺産がリスト入りし、大牟田自体も変化をもとめられるタイミングでした。しかし、まちに暮らすひとびとの感情としては、過去の暗い歴史を象徴するものとして、あまり積極的ではありません。このプロジェクトの目的は、まちのアイデンティティをとりもどすこと、それはこの段階で明確になっていました。國盛さん、そして僕の気分としては、その当時の宮崎県知事よろしく「どげんかせんといかん」

島根プロジェクトのメンバーは、まさに脂が乗りはじめ、さて、つぎもなにかおおきなことをやろう、という雰囲気でしたし、僕自身もまたそこでの経験や学習効果をみて、なにか継続できればなとかんがえていたので、まさに渡りに船。どうじに「ついに…きたか……」とのおもいもありました。というのも、島根のことをすすめるなか、漠然と脳裏にあったのは、郷里である大牟田のことでした。

三井三池炭鉱。大牟田は石炭産業でさかえたまちです。三井のドル箱ともいわれ、まさに日本の近代をささえた根源のひとつでした。そのころの市内在住者は、役所をのぞけば三井関係者と、それを相手に商売をするひとだけで構成されていた、といわれるほどです。しかしエネルギー需要の転換あり、徐々に斜陽化。1997年に閉山をむかえました。当時、中学1年生だった僕にも、その暗く重々しい雰囲気は痛切にかんじとれました。そのせいか、その頃の記憶をおもいだすと、いつも曇り空か雨の情景がうかびます。僕自身、父親が福岡市のほうまで勤めていたり、友人との関係もあり、休日は大牟田よりも福岡市内で過ごすことがおおく、それがゆえ、いっそう「立ち去るところ」のようにもおもえたのです。はやいはなし、いつのころからかデザインをこころざすようになり、そうしたものに触れるには、そこから福岡市ないしは東京にでないといけない。漠とながら、そうしたおもいが頭にありました。

いっぽう、島根のプロジェクトをすすめるなかで「もしかすると、デザインがない、とおもわれるところほど、デザインが必要なのではないか」とおもうようになり、しぜんと、大牟田のことがうかんだのです。そんなわけで、國盛さんにすぐさま参加意思、そして僕だけではなく有志生徒でのプロジェクト形式でトライさせてほしい旨を返信したのです。

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三井化学J工場(1938)
おさないころからずっと目にしていた建物。グロピウスによるバウハウス校舎が1926年。その時代の近さにおどろいたのは、このフィールドワークから。自分のすぐそばにモダニズムのデザインがあった。

最初はフィールドワークと、國盛さんをはじめとした関係者とのディスカッションをくりかえすところからはじめました。大牟田・荒尾における炭鉱関連施設はもちろん、市内をひたすらあるいたり、友人知人をたずねヒアリングしたり、ほかの地区の炭鉱関連施設跡や、世界遺産登録された場をみてみたり、大牟田市の図書館で郷土資料をさかのぼったり……こうして書きだせば、学術研究的な調査のようにも感じますが、参加メンバーの気質もあいまって、どこか旅感覚、いつも最終的には「きょう、なに食べる?」というような空気感。当然、しんどいこともありましたが、それもふくめたのしい経験がつづきました。

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大牟田の名物 高専ダゴ
鉄板一面をつかった超大型のお好み焼き。

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大牟田のいろ

國盛さん、それから関連NPO法人とともに最初におこなったのは『大牟田のいろ』との名前のついたクレヨンです。まちのひとたちにヒアリングをするなか気づいたのは、そもそも、まちのこと、そこにあるものを知らないということ。ですから、バスツアー形式で在住者を対象としたフィールドワークを実施することとなりました。スケッチブックとクレヨンを配布し、それぞれの場所でスケッチをしてもらい、そこでみつけた色に名前をつけてもらうというもの。

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最終的にあつめられた数々の色彩と、その色名をもとに、関係者で6色を選出。それぞれにあわせ、アイコンを作成。色と形をつうじて記憶をひもづけられるようにしました。また黒色には実際に石炭を配合。國盛さん、NPO法人のこだわりと、製造を担当された日本理化学工業によるとんでもない技術研究のたまものです。さて、パッケージデザインをおこなうなか、課題となったのは、当初、僕たちが提案した案が「かっこよすぎる」「おしゃれすぎる」という反応をされたこと。自分自身、高校のデザイン科、美術予備校、そして美術大学、タイポグラフィスクールという経緯があるせいか、どうしてもミニマムかつ精緻な造形感覚を基本としてもっており、なんなら洗練させてなんぼ……という意志がありました。

ここでの関係者との検討のなかで、デザインは最適化であり、自分自身の経験値ばかりでは立ち行かないのだな……と痛感することになったのです。この機会がじぶんにあたえたものは想像以上におおきく、それ以前は生徒にたいし「あと0.1ミリ左側」というような、徹底した赤入れをおこなうような指導方法だったのですが、だんだんとはなしを聞きだし、それを膨らませるという協働者的なスタンスとなっていきました。もちろん、自分自身のバックグラウンドは大切にしているし、それを精進することは欠かさない。だけれども、まずは対象を正確に把握すること、そこにあるものをひきだすことが、必要なのだとここで自覚することになりました。

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まちのひとたちがあつめた色彩をパッケージに展開。名前が与えられ、アイコン化された各色彩。

そうして紆余曲折ありながら完成した『大牟田のいろ』は、限定した生産数ながらも、着実にさまざまなひとの手にわたることとなります。


大牟田2047

プロジェクトがはじまり一年がすぎ、『大牟田のいろ』が完成したころ、毎年11月3日に開催される近代化遺産一斉公開デーの枠をいただくこととなりました。2012年の会場は旧三川電鉄変電所、2013年は旧宮原坑。そこでおこなったのは『大牟田2047』と題した企画。閉山から50年後、2047年の大牟田の青写真を展示することにしました。まずは『大牟田のいろ』のプレゼンテーション、そしてそれをもちいた、まちのこどもたちにむけた絵画ワークショップ。くわえて訛り・方言を可視化する『大牟田フォント』の提案、各施設をライトアップし、ランドマーク化する『大牟田夜景2047』、地域のかたがたをむかえてのトークイヴェンととその動画配信をおこないました。なお、この展示に関する予算は、学校の活動費にくわえ、地域の企業・自治体からの協賛金もおおきなものでした。会場での来場者との会話、そこでありがたくも感謝されたこと。それがとてもうれしく、生徒たちもこの経験のなか、とてもいい顔になっていったこと、いまも印象にのこっています。

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このプロジェクトをつうじて気づいたのは、デザインはインフラストラクチャであるということ。その生活基盤をいかに豊かに、そして最適化してゆくのか。ずっとデザインというもののまわりをめぐっていた自分自身へのアンサーが、このなかで気づくこととなりました。

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國盛麻衣佳『炭鉱と美術』

2013年の近代化遺産一斉公開デーを節目として、この大牟田のデザインプロジェクトはひと段落しました。その後、協働者であった國盛さんはこうした研究・活動をもとに博士論文をしあげられ、それは2020年1月に國盛麻衣佳『炭鉱と美術』(九州大学出版会)として書籍化されました。装幀はありがたくも僕が担当することに。このブックデザインにかんする、くわしい経緯は以前こちらのnoteでご紹介したとおり。國盛さんが研究書としてまとめ、それを手がけることができたのは、とてもありがたいこと。

こうしてまとめてみれば、過去のデザインについてまなぶことは、高校から大学のあいだでおこなっていて、これからのデザインについては大牟田の経験のなか、まなんだようにもおもえます。ふりかえれば、なんとも若気のいたりだなぁ……というのが、節々あるのですが、それがゆえ、この時期にしかできないことができたこと、感謝ばかりです。

さて、大牟田をはじめとする各所での雨被害。今後、刻々と状況が変化し、あきらかになることもあるでしょう。いずれの場においても、ご無事を、そして被害が拡大しないことをねがうばかりです。そして、こちらのnoteを読んでいただいたかた、もしよろしければ、なにかしらのかたちで大牟田とその周辺を支援してくださいましたらさいわいです。これを書いている時点で、まだ募金などの情報は未確認ですが、ふるさと納税はもちろん、さまざまなものがあります。すこし紹介しながら本文をおえることとします。


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だしいなり海木(東京日本橋)
なんでいきなり日本橋だよ?とおもわれるかたもおおいかもしれません。最近は各メディアでも紹介され、コレド室町テラスで大評判のだしいなり海木。もともとは大牟田で創業された日本料理店です。「おいしい稲荷寿司の基準をはるかに超える」と、僕はひとに説明するのですが、その要となるお揚げは南関揚げとよばれるもの。大牟田市のすぐとなり、熊本県南関町の名産品で、いまも海木はこちらのものをつかっていらっしゃいます。

じつは家族ぐるみでつきあいのある幼馴染のお店。三井三池炭鉱のまちで創業し、それから30余年を経て、こうして三井村に出店されたのも、なんだか縁深いものをおぼえます。

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小代焼ふもと釜
これも大牟田に隣接する熊本を産地とするやきもの。最近は井上尚之さんの仕事でしられています。福岡市の工芸店 工藝風向をはじめ各所であつかわれています。

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小代瑞穂窯
こちらは福田るいさんによる仕事でしられています。デザイナーの運営する大牟田市内の雑貨店 in the past であつかわれています。

ほかにもさまざまありますが、ひとまずはこのあたりで。現地の無事をねがうばかりです。


8 July 2020
中村将大






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