見出し画像

映画日記「怒り」

「怒り」という映画を観た。

怒りと聞くとマイナスイメージが先行するが、怒りは時に自己表現であり、アイデンティティを守るものでもある。

中学生の頃、下校時はいつも友達と5人で帰っていた。ある日の下校時間、その中の2人が、私を含めた3人を待たせたまま少し離れた場所で何か話していた。
話の内容も分からないまま、あまりにその時間が長かったので「待ってるんだけど?」と怒った。すると、次の日からそのグループ全員と、他のクラスメイト数名が私を避け出したのだ。

私はその時、自分の主張を怒りとして出すのは良くないことなのだと思った。こんな感情を出したところで、何も良いことはないと。

---

昔、サッカーワールドカップでジダンという選手が相手チームの選手に頭突きをしたことが話題になった。相手選手が挑発のために、母親を侮辱するような暴言を吐いたのだ。
その結果、「いかなる時も暴力は許されない」とジダンを批判する人が多数いて、私は子供ながらにどこか違和感を感じていた。

最近では、アカデミー賞のステージ上で、ウィル・スミスが司会者を思い切り平手打ちする出来事があった。ウィル・スミスの場合も、妻の病気をからかわれたことに対しての行動だった。
この時も「いかなる時も暴力は許されない」論争が巻き起こった。

暴力がアリかナシかで言えば、それはナシである。私も小学生の頃の部活で指導と称しよくビンタされ、その無意味さに辟易としていたので、「時に暴力も必要」なんて前提はない。
だけど、彼らの家族に対する侮辱の内容は、言った側の神経を疑うものだった。想像力が欠如している。そのような人物に対して、話し合いで解決なんて不可能では?と思う。

SNSでは「このような暴力の延長線上に戦争がある」という意見をいくつか見たが、暴力といっても、一方は殺戮だ。頭突きや平手打ちとはわけが違う。それを言うなら、その違いが分からない人がいるから、戦争はなくならないのではないだろうか。

何かを守るためには怒りを表に出さないといけないこともある。

ただ、中には怒りを乱用する人もいる。
人をコントロールしようと威圧的な言葉を浴びせてくる人がいるが、それは怒りではなく単なる脅しだ。

怒りとは、痛みを伴うとき、突破口になり得るのだと思う。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?