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盲信脳 その1

ある人の動画を見てたら、動画のどこにもそんな話題は出てこないのに「○○なのは良くない」といった内容のコメントがありました。そんな話はどこにも出てこないのに、この人はどうしてこんなコメントしたのか不思議でした。

別の日、私が新人たちの研修を担当した時起こりました。手順書をもとに作業をしてもらう場面で、これだけはやってはいけない事、という内容が解説ページの最初に、他より大きな字で書いてあります。その部分は時間を長めにとって説明するようにしていますが、その「やってはいけない事」をする人がたまにですが数人出ます。研修資料に書いてある事がどうして守れないのか不思議です。

書いてない(言ってない)事を読んじゃう(聞いちゃう)人と、書いてある(説明してある)のに読めない(聞けない)人の例を挙げました。こういう人を何人か見たり聞いたりした経験があります。私が特殊でそういう人との遭遇体験が多いだけで、もしかしたら無視できる、つまり計測誤差の範囲といえる数しか存在しないのかもしれません。だとしたら、「これって研修あるあるだよね」となった時に、他の人が「うんうん、そうだよね」とはならないはずです。

実は書いてある事が読めない人や書いてない事を読んじゃう人の話題は盛り上がります。

という事は私以外にもそうした人との遭遇体験が複数の人にあるという事です。恐らくですが、ある場面では「読んじゃう人」であっても別の局面ではそうではない、こういう人が大半なのではないかと思うのです。つまり、潜在数はかなりいるのだが、可視化されない局面も多いのでは?という思いがあります。

別の言い方をすると該当者は常にそうなのではなく、場面によって変わるので、観測されるのは一部だけで、潜在的にはある程度の数いるのでは?という事です。もし「ある程度」などという少数ではなく、「国民の大半」がそうであれば多くの人が日常的に読めない人や読んじゃう人を見かける事になります。

この人たちの特徴は読み間違いや聞き違いを指摘すると、「私が読んだ時(聞いた時)にはそうだった」(なので自分の認識は間違っていない)と言う事が多い傾向にあります。企業で使うマニュアルなどは研修担当部署がバージョン管理をしていますので、間違いを咎めるのは容易いです。しかし、世の中にはそんなにバージョン管理されたものばかりではなく、いや、むしろバージョン管理とは無縁のものもたくさんあります。それ故に彼等は強弁するのでしょう。「聞いて無い」と。

この傾向がある人たちは凡そキチンと読んで無い事が多いです。クイズの引っ掛け問題に弱いタイプとも言えます。最後まで読まないうちに「こうだろう」で判断してしまい、そこから先で躓くタイプとも言えます。そういう人ですから確認作業が満足に出来ない事が多いです。何故か一度やった事をもう一度見るのが出来ない人がいます。「もう、それやったから」と本人は思っていますが、出来ていないので結果的には「やれてない」事が多いです。「やれてない」事を本人が気付く事はあまり多くはありません。確認作業が不得手だからです。

その人が1人きりで生きているなら何の文句も無いのですが、そういう人でも社会の一員であり、その人の行動で別の誰かの仕事が生まれたりと、意識する、しないに関わらず社会は多様な連携で動いています。自分を信じるのは良い事かもしれませんが、盲信性の高い自己認識はどうして起こるのか。確認行動が取れないにも関わらず、無根拠の自信はどうして生まれるのか。盲信脳はどうやって生まれて来るのか。私はそれが知りたいです。

では、その2でお会いしましょう。

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