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2024.7.29<新版統合版>第一部:新しい解析法とその基盤の概要       


(注)新版の統合版です。
(注)健康上から急いで投稿をしましたので、文の小さな訂正をしますので、ご理解をお願いします。大きな変更は、改訂表示をします。

 四韓の王統と連枝した倭国皇統の日本書記・古事記の系譜体系を新しく開発した『DNA種族解析法』を用いた科学的論理解析ノートです。物理学で涵養した論法がどこまで記紀の論理体系を考究できるかを試みたのが始まりです。そして、史料歴史学と両輪をなす理論としての論理歴史学を試みました。人間にとって論理は、本質を究明する重要な手段であり、最も重要な理念や直観力を支えるものです。

はじめに

    普段は闇の中にありますが、劇的な出来事や時代の激動期に時を超えて発現する歴史力、いわゆる先祖帰りがあります。個人にも民族にも過去を引きずった特有な潜在意識や行動様式があります。アイデンティティには、思想と行動様式の側面があります。思想は論理的世界ですが、行動様式は必ずしも論理的でない情念を基盤とした世界です。古代のことであっても建国事情は国家や民族のアイデンティティに大きな影響力を及ぼします。日本の歴史的アイデンティティ、日本的特質、日本人の基本的な感情・思考・行動の原型パターンを究明する時、日本の古代史、とりわけ古代皇統譜は避けて通れません。日本は、一つの国名、国の体裁を千年以上保った、あるいは千ないし四万年レベルかもしれない稀有な国です。
我が国の建国についての最も古い文献である古事記(712年編纂、最古写本1371年)と日本書記(720年撰上、最古写本9世紀)(以下、「記紀」と略す)の論理一貫性のない解釈の現状に対して、史料をもとに論理的なアプローチを体系的におこなっている稀有な政治歴史家の小林恵子(ヤスコ、1936年生まれ~ )がいます。小林恵子は、<記紀学派>に疑問を持ち、国内だけでなく外国の史料を基にした日本古代の政治歴史学をどの既存学派にも属さず在野で志しています。小林恵子は、記紀が識緯(シンイ)的な表現と道教の用語を暗示に使っていることに注目し、百済滅亡(660年)、高句麗滅亡(通説:668年)当時の第40代天武天皇までの約2/3の倭国『大王(オオキミ、後の天皇)』が朝鮮半島の三韓の王と同一人であることをつき止めました。また、倭国『大王』のルーツを中央アジアの西突厥、サーサーン朝ペルシア帝国まで遡って示唆しました。
 本論は、物理学で涵養した論法がどこまで記紀の論理体系を考究できるかを試みたのが始まりです。そして、史料歴史学と両輪をなす理論としての論理歴史学を試みました。人間にとって論理は、本質を究明する重要な手段であり、最も重要な理念や直観力を支えるものです。個々人の行動は、必ずしも論理的でなく、非合理的な行為をする時も少なからずありますが、時代レベルから見ると、論理的な方向性があります。それは、分子のランダム運動のマクロ現象に類似しています。

本論は、はじめに、1.新しい解析法とその基盤の概要、2.記紀の隠された論理的事実、3.論理的事実に基づく倭国の論理的体系の考察と結論、4.記紀の論理的歴史の概要、5.記紀に関係する今後の課題、おわりに、から構成し、主要な論理的事実と考察結論を導出するのに十分な概要としました。

なお、本論は、記紀を虚構な政治的書物として廃棄を主張するものではなく、その逆です。それは、たとえ事実を隠蔽・改竄していても事実を起点としているからです。神社も同様に貴重です。重要なことは、隠蔽・改竄された事実を掘り出す論理的思考の妥協のない行為です。

本結果から、私は記紀に基づく日本および日本人の通説の根源アイデンティティについて明確に異議を唱えます。そして、現在までの日本の支配的な知識人は、為政者に寄り添った官僚知識人、利潤追及を第一とするビジネス知識人、刹那への逃避化の推進を第一とするエンターテーナー知識人であることを指摘します。記紀が、日本人の論理に対する信頼感を喪失させたからです。

1.新しい解析法とその基盤の概要

1-1.皇統系譜の解析における二つの基本条件

①人類遺伝学・分子生物学の世界趨勢である倭国為政者は現在まで続いている「DNA縄文人」

 人類遺伝学、分子生物学の世界の常識は、「世界中いつの時代も権力者が子孫を多く残すのに圧倒的優位を保つ」ということです。現在まで続いている日本為政者の「DNA縄文人」のY-DNAは、他種族・他部族に支配されたことがないものでした。更に世界を驚かせているのは、この縄文社会と現在まで続いている日本為政者の世界最長の持続性です。
人類遺伝学・分子生物学から得られた世界趨勢である日本の為政者の「DNA種族」は、日本人に占める約40%から50%の最大多数に属し、現在まで続いている「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2a1系」です。
 最初に、オクスフォード大学の遺伝学研究チーム(現ウェルカム・ トラスト・サンガー研究所、The Welcome Trust Sanger Institute at London)のクリス・テイラースミス (Chris Tyler-Smith)は、「日本の最多数のDNA種族はDNA縄文人であり、その氏族は縄文時代から現在の日本国天皇までの万世一系である。」とし、この支配者DNAは、他種族・他部族に支配されたことがないものであることを示しました。ただし、この世界趨勢の推論結論は、本論から得られた解析から修正が必要です。記紀に記された倭国『大王=天皇』は朝鮮半島に常住している高句麗王や百済王のことで、倭国の政事統括者で、現在まで続いている「DNA縄文人」の為政者ではありません。
 最近では、縄文社会の時代に既に定住、米の農耕が行われてる古墳が見出されています。
 
この世界趨勢の日本の為政者の「DNA種族」の結論は、本「DNA種族解析法」による結果も裏付けました。

②「小林恵子による史料の解析から約62%=26/42の高句麗王と百済王は倭国『大王』と同一人である」ことを起点

 小林恵子は、我が国の史料に、中国や朝鮮半島などの他国の史料を突き合わせ、史書が政治的な意味においてもっとも差しさわりの多い部分を天変地異や動植物の異常の記述で呪術的に暗示する識緯(シンイ)的な表現と道教の用語を暗示に使っていることに注目し、解析し直しました。日本だけでなく外国の資料も含めて、百済滅亡(660年)、高句麗滅亡(筆者の事実上説:642年、通説:668年)当時の第40代天武天皇までの26/42=約62%の倭国『大王(オオキミ、後の天皇)』が朝鮮半島の三韓の王と同一人であることをつき止めました。また、ルーツを中央アジア、サーサーン朝ペルシア帝国まで遡って示唆しました。
 しかし、国内の史料から一歩も出ない国内の社会的に大きな力を持っている歴史専門学者達は、小林古代史には見向きもせず、荒唐無稽の一言で片づけているのが現状です。それは、外国の膨大な史料を理解する必要があるのと、小林恵子が徒党に属さない孤高の人であるからです。

先ず、小林古代史を事実として受け入れてよいか検証したいと思いました。しかし、歴史研究の素養は全くないので、基盤となる自然科学のDNA科学と物理的論理法を用いてみました。これが、本研究の始まりです。史料歴史学による『二つの顔の大王(オオキミ、後の天皇)』という小林古代史を自然科学のDNAに基盤をもつ別な体系と比較照合しました。
 その結果は両体系の論理整合性が認められ、小林古代史は真であると結論付けられました。

1-2.新たに開発した「DNA種族解析法」

 本論は、人類遺伝学と分子生物学の分野のDNA科学を解析基盤としました。
 新たに開発した「DNA種族解析法」とは、1%以上のレベルの日本人男性にみられた核遺伝子のハプログループ(遺伝子分類群)・Y-DNAを抽出し、そして、皇統の同一な継承系統を示すレベルのグループに試行錯誤して再分類し、これを歴史的に特徴ある種族を便宜的に称する「DNA種族」に対応させた皇統の系統解析法です。これにより、皇統および王統の継承系統の推移が明らかになります。
 史料は個別の天皇・王の種族・部族をある程度示していますが、すべてが記されていず、また、親子関係は必ずしも生物学的事実とは限りません。それで、空白部を「DNA種族解析法」等を用いて試行錯誤して比定し、また、若干の修正もしました。
 父系制と母系制が並存する倭国の皇統系譜を解析する上で重要なことは、「父系DNA種族」・Y-DNAと「母系DNA種族」・Y-DNA相当の二つの側面から解析することであることがわかりました。

なお、本書では小林恵子が扱わなかった一般に偽書扱いされている先代旧事本記と新羅の花郎(ファラン)世紀も、体系と論理的に整合する事項は史実として扱いました。いかなる史料も無欠なものはなく、また創作書といえども事実を全く基盤としない創作は不可能であるからです。

1-3.日本人男性の主なハプログループ(Y-DNA)の種類と割合

 日本人は、三つの「C系」、「D系」、「O系」の大ハプログループを三つもつ世界でも稀有なDNA多民族国家で、約1000年前からは大きな他民族の流入がなくて混血化が進み、あたかも単一民族のようになりました。

 表1.日本人男性の主なハプログループ(Y-DNA)の種類と割合

 古代有名人の父系のY-DNAは、多くが末裔からの推定であり、男系が血族の連続と限らず、母系男子からの養嗣子が末裔となる場合もあります。
[例1:高向漢人玄理] 
飛鳥時代の渡来系学者・高向漢人玄理は、淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)=第40代天武の父です。高句麗第26代嬰陽王(エイヨウ、在位:590~618年)=百済第30代武王(在位:600~641年)=第34代舒明(ジョメイ)は、高向漢人玄理の実父であり、実祖父は達頭=聖徳太子です。
 高向漢人玄理は、Y-DNA「O1b1a2a(F993)」であると推定されています(https://famousdna.wiki.fc2.com/[有名人のハブログループ]:The Takamuko clan of Japan claims agnatic descent from Cao Pi, who was the first Emperor of the state of "Cao Wei" and the eldest son of "Cao Cao". This suggests that the Takamuko clan also belongs to Y-DNA haplogroup "Haplogroup O-P31 (Y-DNA)". The Takamuko clan is most famous for Takamuko no Kuromaro.)。
 小林恵子によれば、当時の慣習で、高向玄理の父の高句麗第26代嬰陽王(在位:590~618年)=百済第30代武王(在位:600~641年)=第34代舒明(ジョメイ)は、達頭(聖徳太子)が590年末に東突厥に入る前に高句麗嬰陽王と同盟した時、高向玄理を身ごもった後宮の女を達頭に贈りました。
 これは、高向玄理の子の淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)が実権を握っても高句麗王になれなかったことや倭国に来て大きな影響力を持ち、筑紫君(=九州・倭国王)薩夜麻(サチヤマ)/薩野馬を名乗り、第40代天武(テンム)に即位したことが血統的に無理なく理解できます。従って、高向玄理、第40代天武(テンム)は、父が高句麗第26代嬰陽王であっても達頭(聖徳太子)であっても「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1a系)」となり、Y-DNA[O1b1a2a(F993)」は男系断絶した末裔の母系側の男系遺伝子と判断しました。
 
[例2:藤原不比等]
 藤原不比等(659年生~720年没)は、母の伯父である中臣鎌足の子とされますが、中臣鎌足の養嗣子です。阿武山古墳の被葬者中臣鎌足本人の遺伝子はY-DNA「O1b2a1a1(CTS10145、 CTS11723)」とされています。しかし、藤原不比等の実父は第38代天智です。したがって、Y-DNA「O1b2a1a1(O-CTS10145、 CTS11723)」は母系側の男系遺伝子です。藤原不比等は「DNA源流鮮卑族和邇氏」のY-DNA「O2a2系」です。

[例3:中臣鎌足]  
藤原氏始祖・中臣(藤原)鎌足(614年生~669年歿)は、百済第30代武王(=第34代舒明)の大佐平・沙宅(サテク)積徳(チョクトク)と同一人であり、阿武山古墳の被葬者です。1934(昭和9)年に発見された阿武山古墳の被葬者は、Netの非公式情報では「DNA縄文人混血呉系倭人]・Y-DNA「O1b2a1a1 (CTS10145 CTS11723)」とされています。阿武山古墳の被葬者は即埋め戻されたとされていますが、非常に状態の良いミイラで、全身のⅩ線写真、頭髪、髭、皮膚、臓器などの一部が京都大学考古学教室の教授樋口隆康(1919年生~2015年歿)が引き取ったことがわかっています。調査報告書が公にされていますが、これらの詳細、特に遺伝子は未だに公表されていません。阿武山古墳の管理者は、京都大学から大阪学院大学に移っています。

1-4.多くの種族・部族の寄り集まりがもたらす日本特有の漢字の重層性

(1)日本特有の漢字の重層性

 日本は、最も基本となる名前や地名という固有名詞の漢字の音韻が一義的に決まっていない、稀有な国です。また、現在の日本は、漢字、ひらがな、ローマ字という日本特有な複数の字が流通している世界的に稀有な国です。
「DNA鮮卑族」和邇氏の渡来人から漢字がもたらされましたが、字義を離れた類似の音韻を表す手段、つまり、形成漢字として用いられました。多くの種族・部族が共存・共生した倭国では、同じ実体でも異なる呼音である場合、別な形成漢字が使われることがあり、また、同じ呼音でも同じ字音の別な形成漢字が使われることがありました。つまり、一つの実体に対して、複数の漢字と複数の字音が存在することになり、現中国のような一音一漢字ではなく、倭国・日本では複数の字音と複数の形成漢字が混在して流通するという漢字の重層性が生じる状況となりました。

古代日本では最終的に古代の高句麗語音と新羅系漢語音(呉音、注:「呉」とは春秋時代呉であった地方を指して蔑を含んだもので、春秋時代呉の語音を意味するものではない)の二つが主流の日本語として共存し、その後漢語音が付け加わりました。

 以下のような例があります。
 高句麗語族の「天(アモ、amo)」と同じ実体は、新羅漢語族では「鴨(カモ、kamo)」です。「蛇」を実体とする「クマ」という音韻の形成漢字は、同じ音韻である「熊、雲、米、芋」などの形成漢字が部族毎に使われました。「牛」を実体とする「ノ」という音韻の形成漢字は、同じ音韻である「野」の形成漢字が使われました。濊の倭名である「ヤ」族の形成漢字は、「ヤ:矢/八/夜」があります。祖郷である「通化(現中国遼寧省通化市)」は、古代高句麗語族では「通化(とうか)」、古代百済鮮卑族では漢字が変化して「稲荷(とうか)」、さらに、音韻転訛して「稲荷(いなり)」というように重層して広まっていきます。
 鮮卑族は、支配の手段として漢字を用いました。垂仁朝時代に渡来系の源流鮮卑族系(前族、和邇氏)が同じ渡来系の源流匈奴(野族、坂族、金氏)系やヤ(八/矢/夜)族等と戦って勝者になった時、原住の「DNA縄文人」と渡来系の「母系DNA呉越系倭人」の倭国統括共同為政者の了解の下に土地名などに対して新しい漢字と呼音を敗者に与えました。五世紀末までに日本列島はくまなく、勝者の「DNA源流鮮卑族」和邇氏が新たな地名を名付けました。これに対して、敗者の旧勢力(主は匈奴系)は新たに与えられた漢字名に古くからの呼音を仲間内では使用しました。そのため、現在でも奇妙な新漢字と旧呼音が合わさった現住人以外読めない漢字名、いわゆる言霊(コトダマ)の原初ですが、まだ残っています。
・大阪市難波・「坐摩(イカスリ)」神社
  旧呼音:(イカスリ)神社、新漢字と新呼音:坐摩(ザマ)神社。   
・松江市・「東出雲(アダカイ)」:
  旧呼音:(アダカイ)、新漢字と新呼音:東出雲(ヒガシイズモ)。
・兵庫県篠山市「大芋(オオクマ)」:
  旧漢字と旧呼音:大芋(オオクマ)、新漢字と新呼音:大熊/大神)(オオクマ/カミ)。
・奈良県桜井市「粟殿(オオドノ)」:
  旧漢字と旧呼音:大殿(オオドノ)、新漢字と新呼音:粟殿(アワドノ)。
・神戸市垂水区「海(ワダツミ)」神社:
  旧漢字と旧呼音:綿津見(ワダツミ)、新漢字と新呼音:海(カイ)。
・鳥取市「青谷(アオヤ)町」、兵庫県美方郡新温泉町「芦屋(アシヤ)」、兵庫県「芦屋(アシヤ)」市:
  旧漢字と旧呼音:粟生/青(アオ)、青谷(アオヤ)、新漢字と新呼音:芦屋(アシヤ)。
・鹿児島県姶良市(あいらし)「蒲生(カモウ)」町:
  旧漢字と旧呼音:鴨生/賀茂生(カモウ)、新漢字と新呼音:蒲生(ガモウ)。
・兵庫県三田市「木器(コウズキ)」:
  旧呼音:(コウズキ)、新漢字と新呼音:木器(モッキ)。
・大阪市鶴見区「放出(ハナテン)」と大阪市城東区「放出(ハナテン)」:
  旧呼音:(ハナテン:匈奴系)、新漢字と新呼音:放出(ホウシュツ:鮮卑族系)
 
また、地名の改名は、和銅六年(713年)に出された「畿内七道諸国の郡郷名に好字を著(つ)けよ」とした勅令に始まり、延喜式の「諸国部内ノ郡里等ノ名、並(みな)二字ヲ用ヒ、必ズ嘉名ヲ取レ」という勅令で全国に広まります。その前は、武蔵は「牟邪志」というように万葉仮名による一字一音が適用されていました。

因みに、地名表記の伽耶語音が「kaci・pari=カシハラ」である金青(kaci・pari、注:金首露王の本名)は、金官→金海と変わっていき、「橿原(カシハラ)」宮、「難波(訓読:カシハラ→音読:ナニワ)」、「金刺(カシハラの異記)」宮の語源となります。

また、漢設置の四郡に楽浪郡と帯方郡がありました。楼蘭は、音韻を基にして「柔然」や「楽浪」に漢字変化されました。シルクロード交易で栄えた「楼蘭(ローラン)」は、現在の中国新疆ウイグル自治区に存在し、少なくとも紀元前176年以前に形成され、月氏の勢力圏にありました。そして紀元前176年頃匈奴の支配下に入ったことが推定されます。楼蘭に生きていた楼蘭人は、東へ東へと避難移動して、前漢第7代皇帝武帝(在位:紀元前141年~紀元前87年)が支配する「楽浪郡」以前に朝鮮半島の中に楼蘭人が居住していたとみられます。4世紀の初頭までピョンヤン(現代の平壤)に都を置いていた「楽浪」という呼称は、「楼蘭(ローラン)」の漢語音「le lang(ルーラン)」からきています。「柔然(漢音:ジュウゼン、402~555年、モンゴル高原を支配した遊牧国家)」をピンイン(拼音 )で読むと、「rou ran 」です。「楼蘭」の別称は、善善「ジェンジェン」です。柔然のトーテムは、狼です。日本の地名としては、「柔然(ジュウゼン)」は「尉殿(ジュウゼン)」、そして「上田(ジュウゼン→うえだ)」に、「楽浪(さざなみ)」は「膳所(ジェンジェン⇒ぜぜ)」、「笹」、「細(ささ)」 です。

「トルファン」は、現代中国語では「吐魯番(turfan)」ですが、朝鮮半島では「帯方(turfan)」となり、日本に渡って来た時は「tur(取)fan(方)で取方」に、そして「帯方」と区別して「言偏」を付けて「諏訪」という形声(借音)漢字に置き換わり、呼び方も「諏訪(スファ)」へ転訛しました。山口県の「周防(sufo)もまた「諏訪」の転訛語です。

このような背景のもとに、多くの種族・部族が集合した倭国においては、漢字は実体から離れ、漢字の字からみても発音からみても一つに体系化することは原理的に不可能になりました。これが漢字の重層性であり、この漢字の重層性は、倭国が多くの種族・部族の寄り集まりで「共生と融合」したことを示す象徴であり、我が国の多元性原理の原初の一例です。

中国では、『専権と覇権』の単元性原理を目指した秦の始皇帝が、各地の多様な漢字の字形と発音を統一しました。秦の始皇帝は短期で終わりましたが、中国の為政者は単元性原理を引き継いでいきます。

従って、日本の古代史の研究においては、漢字ではなく古代呼音による解釈が重要で、ご都合主義による字面解釈は排されなければいけません。「言霊(コトダマ)」などという安易な理解は、断固排除すべきものです。
 

(注)(2)~(11)は、十分に検討していない参考情報です。

(2)南方系先住者と北方系支配者の言語系の共存

 古い言葉は身体語に残りやすいです。たとえば、「ホホ」や「ミミ」のように単音を重ねた言葉があります。数詞では、「ヒ、フ、ミ、・・・・・」です。
 北方系言語は支配語に多いです。たとえば、「マツリ」「ムラ」「コオリ」などがあります。数詞では、「イチ、ニイ、サン、・・・・・」です。
北方系と南方系の言語が同時に用いられた二種構造や、南方系のうえに北方系が重なった言葉の場合もあります。

(3)春秋時代の呉、越、楚のモン族、ヤオ族、トウチャ族に由緒をもつ日本の地名

 春秋時代は、古代中国における周王朝の後半期に位置する時代で、周が東西に分裂した紀元前770年から、現在の山西省一帯を占めていた大国「晋
」が三国に分裂した紀元前5世紀までの、およそ320年に渡る期間を指します。この春秋時代の呼称は、周代に成立した儒家経典の一つである歴史書「春秋」から取られています。
 春秋時代呉、越、楚は、モン族(Y-DNA「O1系」)、ヤオ族(Y-DNA「O1系」)、トウチャ族(Y-DNA「O2系」)の三族がそれぞれの国にいましたが、支配族はそれぞれ異なっていました。江南のモン族とヤオ族のY-DNAは同一ですが、文化は異なっていました。モン族の第一位は政事男王であり、ヤオ族の第一位は祭祀女王でした。
・BC473年頃、春秋時代呉(国都:現江蘇省蘇州市)が、春秋時代越により滅亡しました。
 呉は、少数支配族:周王族姫氏、一般族:モン族、ヤオ族、トウチャ族。
・BC334年頃、春秋時代越(国都:現浙江省紹興市と山東半島)が、春秋時代楚により滅亡しました。
 越は、支配族:ヤオ族、一般族:モン族、トウチャ族。
・BC223年、春秋時代楚(現河南省淅川県等)が、秦により滅亡しました。
 楚は、支配族:トウチャ族「O2系」、一般族:モン族、ヤオ族。
・秦始皇帝、前漢第7代武帝は、呉越人のモン族とヤオ族を満州に強制移住しました。

(4)呉人系のモン/ミャオ/ミャオズ/苗(びょう)族(Y-DNA「O1系」)の日本での地名と特徴

 最も古い自称語として、越人系のミエンに対応した蛇信仰族の『ナガ』があります。蛇族のナガ族の王が、長髄彦[=ナガ族(長)+ス(村)+ネ(主)+彦]です。ただし、ヤマトの「長髄彦」は「DNA縄文人」で、「DNA呉系倭人」ナガ族の妻が名付けた名です。文化形態としては、伴侶系の「DNA呉系倭人」のトーテムの蛇や墓形式であったようです。
 自称の部族語は、「モン」です。
 タイ族はミャオ族のことを「メオゥ」、または「カメオゥ」と呼んでいます(「雲南」)。東甌の甌(オウ)はこれに由来するのかもしれません。
 漢族はミャオ族を「ミャオズ」と呼びます。
 呉人系のモン/ミャオ/ミャオズ/苗(びょう)族の特徴です。
・男が神を祀る。
・女、男という順に記され、女を先に言う。
・珠玉を宝としていた。タマ(真珠)のような娘、タマのような子という表現。
・接頭語は「ク」:狗呉
・苗系語は、「被修飾語+修飾語(例:平成天皇)」の順。漢語は、「修飾語+被修飾語(例:天皇平成)」と逆。
・トーテムは、「蛇」(注:南方系海人族、例えば、安曇族)。
 
 現在世界で知られている『ナガ』族は、モンゴロイド系の民族で、現在、インド東北部、ミャンマーとインドの国境近くに位置するナガランド州にいます。終戦後、1947年のインド独立後は、ナガランドはインド側とミャンマー側に分断されました。ナガランドは「ナガの土地」という意味ですが、総人口200万人いるナガ族は一部族ではなく、主要なものだけでも16の部族が存在し、それぞれの部族で文化や習俗が異なり、時には言語も異なります。言語は、英語、ヒンディー語、クキ・チン・ナガ諸語、クレオール語などです。「ナガ」とは、この部族がつける耳飾りのことで、発音は似ていますが、「蛇」を意味する「ナーガ」とは無関係です。
 文化形態としては、複合巨石文化にあたります。DNA縄文人は、元々は山、森、岩などを崇拝対象にしていました。 ナガランド州南東部にあるペク県を中心に居住する「チャケサン・ナガ」はナガ族の中でも特に歌が得意な民族で、彼らが歌う民謡「リ」は南アジアの音楽文化では極めてまれなポリフォニー(多声的合唱)で歌われます。
 インドネシアにもナガ族がいます。<ナガ族の闘いの物語 (アジアの現代文学 (14 インドネシア)、レンドラ, 村井吉敬他>
 
① 「ナガnaga」が音韻変化、形成漢字変化した地名等の例です。
  ナガnaga:那賀=那加羅/那珂=那地/那の津/長津⇒ナカnaka/中:中島、中州、中川、中村
②最初の国であるので、国の意である「ナ(奴)」と表記。ナガ族から取ったことも考えられます。
 ナ(奴na=国):奴国
  ⇒那na:那賀=那加羅/那珂=那地/那の津/長津
   ⇒中naka:中島、中州、中川、中村
③種族の自称語「モン(門)」:門司
  ⇒カド(門):門松
④種族の漢語表記の「ミャオズ(苗)」:名字、大明司、妙寺
⑤種族のタイ族語表記の「カメオゥ」:賀茂、東甌、カンボジアのクメール

(5)越人系のミエン/ヤオ/マン/瑶(よう)族(Y-DNA「O1系」)の日本での地名と特徴

 自称は「ミエン」で略称は「免」、人を表わす「ミエン人」のヤオ語は「ト・ミエン」で、漢字表記は「徒免」です。
 「ヤオ」というのは他民族からの呼び名で、「マン」とも呼ばれることもあります。「マン」は蛮の呉音のようです。
 越人系のミエン/ヤオ/マン/瑶(よう)族の特徴です。
・女が第一位で、神を祀る。
・女、男という順に記され、女を先に言う。
・珠玉を宝としていた。タマ(真珠)のような娘、タマのような子という表現。
・接頭語は「オ」(上品な意で現在用いられている)
・トーテムは、「狗=犬(注:古代羌(キョウ)族-犬戎(ケンジュウ)、高句麗)」と「鳥(注:殷王朝、秦、秦氏)」。
・越語は、「被修飾語+修飾語(例:平成天皇)」の順。漢語は、「修飾語+被修飾語(例:天皇平成)」と逆。
 
①自称族語「ミエンmian」の転訛語
 ミエン、mian(面:倭面土国、免:免徒/徒免)。
  ⇒マ、ma(面)。
   ⇒マツ、matu(末、松):末羅、松羅/松浦/松江。
②越人系倭国「イソ、iso(伊孑)」の転訛語
 イソ、iso(伊孑、石):伊孑志神社、伊蘇、磯:大磯、石上(イソノカミ)神社。
  ⇒イト、ito(伊都、伊刀、糸):伊都国、伊刀志神社、糸島郡、イトモ   
    (伊豆毛=伊都の地⇒伊豆、出雲)。
   ⇒イザ、iza(伊邪/伊弉):伊邪那美(イザナミ、伊邪の尊な女の意)、伊邪那岐(イザナギ、伊邪の尊な男の意)。
    ⇒イヅ、izu(伊都):伊都志(イヅシ、伊都の地の意)⇒出石(イヅシ)。
     ⇒イワ、iwa(伊和、磐、岩):伊和神社、磐座。
③越の呉音(注:方言の意で、呉は蔑称として使われた)である「オエツoetu(於越)」の転訛語
   ・オエツ、oetu(於越)⇒オエoe。
   ・オエツ、oetu(於越)⇒ヲツ⇒ヲチ:越智。
④越族国の特産物粟(アワ)による通称
・阿波:徳島県阿波国
・粟:粟賀神社
⑤「越」の漢語転訛語
   コシ、kosi(古志、越)
      ⇒カシイ、kasii(香椎):香椎宮。
      ⇒カシ、kasi(香椎):香椎宮。

(6)楚人系のビツカ(畢茲卡)/トゥチャ(土家)/ミンチャ(民家)族(Y-DNA「O2系」)の日本での地名と特徴 

 楚は江南全域を領有する広大な国で、楚の荘蹻の末と考えられるミンチャ族(ぺー族)の漢語に近い北方トゥチャ語と、祝融(楚の始祖)の後裔と推定されるタイ族などの南方トゥチャ語に分かれます。日本に渡来した楚人の言語も、漢語方言とタイ語に近い苗系言語の二種を想定できます。
 トゥチャ(土家)族は、後に巴郡、南郡蛮と表された楚人の中核で、史記で、楚の姓とされた羋(ビ)は、ビツカ(畢茲卡)という自称を写したものと考えられています。
 羋(ビ)は姓ではなく、民族名の呉音表現です。荘蹻の滇建国により、分岐した雲南省では漢音表現のミンチャ族(民家族)です。「び、ミ」という「漢音、呉音」にきっちり対応しています。
 ビツカは「微土家」で、「ビの土地の住民」、あるいは「小柄な土地の住民」という意味らしく、氐(てい、タイ)につながってきます。「ビッカ(ミッケ)」から「ミカ」、「ミケ」へと転訛するようです。
 20世紀初頭に書かれた「雲南」では「ミンチャ」としていますが、現在は「ぺー族」と呼ばれています。
 楚人系のビツカ(畢茲卡)/トゥチャ(土家)/ミンチャ(民家)族の特徴です。
・男が神を祀る。
・接頭語は「ア:阿」。接尾語は「ケイ:兮(注:意味はなく語尾につく言葉)」
  接尾語の「ケイ」は、大阪府八尾市に残っている。
・古楚語は「被修飾語+修飾語(例:平成天皇)」の順。漢語は、「修飾語+被修飾語(例:天皇平成)」と逆。
・トーテムは、「熊(倭人系)」と「牛(夏、周系、匈奴系)」と「亀(匈奴系)」と「鳥(三本足の八咫烏)」。
①種族名の土家(土+家=塚):塚本、塚口、宝塚、大塚
②種族名のビッカ⇒ミッケ⇒ミカ⇒ミケ:三毛猫
③コムkomu(神):百済熊津(クマナリ)、加羅熊川/熊成(クマナリ)
   ⇒コマkoma(固麻):高句麗、百済固麻城
    ⇒クマkuma(熊、前、芋、米)(注:トーテム「蛇」と同音韻が「クマ」)
     (熊:クマ)隈本・熊本、熊野
     (前:サキ/クマ)
        前(クマ/サキ)神社(出雲一之宮熊野大社境内摂社)。
        相模国四宮前鳥(サキトリ)神社(神奈川県平塚市四之宮4-14-26)。
        紀国一之宮日前(ヒノクマ)神宮(和歌山市秋月365)。
     (芋:クマ)
        篠山市芋生クマフ神社。
        三木市芋生クマフ神社。
        橋本市隅田町芋生。
        川西市芋生(イモオ)神社。
        熊本県山鹿市鹿北町芋生、芋生神社。
        丹波の国大芋オクモの大宮・大芋オクモ社/大雲オクモ社(現櫛石窓クシイワマド神社、兵庫県篠山市篠山町福井1170)。
  *古来、鉱石を産出する地域の地名に「生」を使われることが多い。
      (球磨:クマ) 熊本県球磨郡、球磨川。
      (米:クマ) 米野(クマノ)。

(7)新羅の音韻を形成漢字化した地名例

(8)伽耶の地の高霊郡の「火自振(fizzi-bul)」を形成漢字化した地名例

 伽耶の中心に位置する火自振(ヒジフル)は、西暦561年、新羅の第24代真興王(在位:540~576年)
[=第28代宣化(センゲ)=高句麗第23代安原王/安岡上好王(在位:531~545年)]によって滅びました。その際に動乱の朝鮮半島を逃れて多くの伽耶人が日本へ移住しました。日本に渡った彼らは原郷の名前を刻むように「ヒジフル」と新たな定住地に名付けました。300年の栄華を誇った藤原一族もその一族です。
 火自振(ヒジフル・日出原)の古地名は、三世紀に見られる「不斯(フシ)」です。『ヒ』とは『日』のこと、「ブル」は九州各地の「原(注:小さなレベルの国の意)」の読み方が「バル」ということで同音同義です。
 「ヒジフル」は「ふじわら」であり「火自振」は「藤原」です。

(9)済州島の古地名・耽羅の発音のTanlaを形成漢字化した地名例

 耽羅とは、王族が治める分国で、古代の済州島のことです。その耽羅(たんら)のことを「タナッ」と呼んでいた時代があります。
 「田中」とは「耽羅(Tanla)」のことであり、「タ・ラ・ナ通音の法則」による変化で、「タナッ」の末尾音Kに母音が付いて「タナカ」となりました。
 榛名とは「ハルラ」であり、「春名」でもあります。
 「タンラ」地名の形成漢字には、「田村、淡路、田中、丹那、棚、田名、田奈」があります。

(10)漢字の導入・普及のために字音は先住族の同意呼語を使用

 先住族への漢字の導入・普及のために、字音は先住族の同意呼音を用いました。二股語(辞書語)の原初です。
参考文献: 『沖縄古語大辞典』(沖縄古語大辞典、角川書店、1995年)
・東(あがるへ):東方。太陽の出る方角。
 古くはアガルヘ/アガルイ(東方)だったのが、方処を表すヘ/イ(辺)がおちて、アガル、アガリだけで「東」を表すようになった。
・西(いるへ/イル):西。日の入る方、の意。
   農耕社会の発達につれて、太陽の上がり、入りが方角を表す東(あがり)、西(いり)に変わっていったものであろう。
   例:現沖縄県・西(イリ)表(オモテ)島。
・北(にし):「北」は、普通「ニシ」という。語源については「いにし」(去にし)説がある。
・南(はへ):語源は未詳。

(11)地名の略称の解読試行

・倭(し)文(とり)=倭・鳥(とり):タタール(楽浪郡、略称:鳥)系の倭人(略称:倭)。
・鹿(しか)野(の)=倭(し)・賀/加(が/か)・奴(の):伽耶系(略称:加賀)の倭人(倭)。
・滋(し)賀(が)=倭(し)・賀(が):大賀羅国(賀)系の倭人(倭)。
・粟(あわ)鹿(が)=粟(あわ)・鹿/賀(が):大賀羅国(賀)系の越人(略称:粟)。
・加(か)賀(が)=金官迦羅国(略称:迦⇒加)+大賀羅国(略称:賀⇒加)。

1-5.倭国皇統の氏族名や個人名のいろいろな付け方の例

①合体した両方の氏族を表わす名
・「大(父系氏族名)」「歳(母方父系氏族名)」:大歳。
・「春日(母系氏族名)」「和珥(父系氏族名)」:春日和珥童女君、春日和珥深目。
②合体した二つの部族の名を併記
・媛蹈鞴五十鈴媛命:媛蹈鞴(匈奴系部族名:漢語文法)五十鈴媛命(倭人系部族名:春秋時代呉越文法)」。
・大歳:大/太/多族と濊族の合体
③母系氏族名
・天氏:春秋時代呉系倭人の氏族名。原初語は、「扶余(あまる)」。古代新羅漢語は、「鴨(かも)」。
・春日氏:春日和珥童女君。
・石上氏:石上氏宮古郎女=春日娘子、(二代目)堅塩(キタシ)媛、(四代目)宝皇女。
・弓削氏:物部弓削倭古、物部弓削守屋。
・朴氏:和珥日爪(ワニノヒツメ)=朴英失[=第21代雄略]
  第21代雄略は、母方朴氏と古称の牟(ム)氏を併用使用。
  和珥日爪(ワニノヒツメ)は、父系では「DNA源流鮮卑族」和邇氏ですが、新羅 
  宮廷内では「母系DNA縄文人混血春秋時代呉系モン族倭人」の母方氏族 
  名の朴氏を使用して朴英失(ヨンシル)を名乗り、その後、百済第22代牟氏文
  周王(在位:475~477年)は古称の牟氏を称します。
④父系と母系の氏族名の併記
・「物部氏(父系氏族名)」「弓削氏(母系氏族名)」;物部弓削倭古(=第29代欽明)、物部弓削守屋。
・「春日氏(母系氏族名)」「和邇氏(父系氏族名)」:春日和珥童女君、春日和珥深目。
・「物部氏(父系氏族名)」「石上氏(母系氏族名)」:物部石上贄古(ニエコ)。
⑤母方の倭国領国名を用いた別名
・葛城襲津彦[=新羅・角干(官位1等官)金末仇(バツキュウ)]。
・尾張弟彦[=新羅・金氏宝海(第26代継体の祖父)]。
・尾張岐閉(キヘ)[=彦主人(ヒコウシ)王=新羅・葛文王金氏習宝(第26代継体の父)]。
・尾張草香[=新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)(第26代継体の子)]。
⑥伴侶の氏族名を用いた別名
・物部弓削倭古[=蘇我稲目=第29代欽明天皇]。
・物部大市御狩[=蘇我稲目=第29代欽明天皇]。
・黒姫命(=春日建国勝戸賣)の別名:節名草(フシナクサ)姫/草名草(クサナクサ)姫/草名節(クサナフシ)姫。
・宇迦御魂命=沙本之大闇見戸賣の別名:尾張大海媛/尾張大倭媛、高志沼河姫 、意富阿麻比売、
葛木高名姫命。
・新羅・角干(官位1等官)金末仇(バツキュウ)の別名:葛城襲津彦。
・高句麗王妃=新羅・只召(チソ)太后=新羅・息道夫人=金官伽倻・金桂花の別名:尾張目子媛。
・額田部皇女の別名:物部太媛。
・宝皇女の別名:(二代目)物部鎌足姫大刀自。
倭国領国の通称
・吉備国女王の通称の吉備姫王:宝皇女、額田部皇女、額田王。
⑧倭国『大后等』に見出された新羅名
⑨「DNA春秋時代呉系倭人混血縄文人」の物部氏、尾張氏の氏族名や新羅名の別名が見出された男王の例

・第16代仁徳の庶子、第26代継体の祖父の新羅金氏9世代新羅・宝海=尾張弟彦=卜好。
・第16代仁徳の庶孫、第26代継体の父の新羅金氏10世代新羅・葛文王習宝=尾張岐閉(キヘ)=彦主人(ヒコウシ)王。
・新羅金氏12世代、第29代欽明(キンメイ)=『大連』物部大市御狩=物部弓削倭古=蘇我稲目(506年生~576年歿)。
⑩漢語系文法と倭文法の名の表示例
・(漢語系文法)彦国葺(ヒコクニフク)命⇔(倭文法)国葺彦命/葺彦命/葺彦国命。
・(漢語系文法)葛文王習宝(新羅文法)⇔(倭文法)習宝葛文王。
・(漢語系文法)天皇仁徳⇔(倭文法)仁徳天皇。
・(漢語系文法)皇帝武(漢文法)⇔(倭文法)武帝。
⑪女系氏族名と男系氏族名の併記の配置順序
・春秋時代呉と春秋時代越は、女系氏族名が先、次に男系氏族名の配置順
 :春日(女性氏族名)和珥(男性氏族名)童女君。
・匈奴、鮮卑族は、男系氏族名が先、次に女系氏族名の配置順
 :物部(男性氏族名)弓削(女系氏族名)倭古。
⑫氏族名と称号の借用
<母方父系の氏族名を借用>
・新羅第9代(借用)昔氏(&金氏)伐休(バッキュウ)・尼師今
新羅の「DNA匈奴金氏」である新羅第9代(借用)昔氏(&金氏)伐休(バッキュウ)・尼師今(在位:184~196年)[=金官加羅初代金首露王(初代伽耶諸国盟主)=初代大国主・スサノオ]が母方父系の昔氏を借用。
<借用した氏族名>
・「トベ」系統が「戸売(トメ)」系統の「春日氏」を借用
春日氏は、本来加羅女王国の「DNA縄文人混血春秋時代越系ヤオ族倭人」・Y-DNA「O1b2系」の母系氏族名ですが、垂仁天皇時代以降の「母系DNA縄文人混血春秋時代呉系モン族倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」)」が借用して春日氏を称しました。
<王称号を借用>
・「DNA源流鮮卑族」和邇氏が箕(キ)氏辰国の「辰王」称号を借用。
⑬韓国の民間伝承
 韓国の歴史ドラマの中で、韓国の民間伝承による倭国『大后』の新羅名、百済名があります。
・ソンファ(韓国字:선화공주、漢字名:善花)=百済・善花王妃=新羅・善花公主[=額田部皇女(554年生~628年歿)]:薯童(ソドン)説話、韓国ドラマ「ソドンヨ(薯童謡)」、韓国ドラマ「階伯(ケベク:계백)」。
・百済王妃・沙宅(サテク)ヨン[=百済・宝王妃=新羅・宝公主/宝姫(ボヒ)=宝皇女]:韓国ドラマ「階伯(ケベク:계백)」。養父は沙宅積德(サテクジョクドク)、実父は達頭=聖徳太子、実母は額田部皇女。
・百済王女・スベクヒャン(漢字名:守百香):韓国ドラマ「帝王の娘スベクヒャン」。父は百済第25代武寧王。

1-6.倭国同盟の弥生人の部族の暗号呼音・暗号字とトーテム

 表2.弥生人の部族の暗号呼音・暗号字とトーテム

<以上>
<次は、第二部:記紀の隠された論理的事実>