『脱近代宣言』を読んで。

書籍名:『脱近代宣言』
著者名:落合陽一、清水 高志、上妻 世海
出版社:水声社
出版年:2018年9月18日

2023年7月1日 読了

■読んだ目的

過去に落合陽一氏の他の著作を読んでいて非常に興味深く、他の本も読んでみたかったため。
事前の興味ポイントは以下。

  • 鼎談とのことだが、他の2人はどのような人か、

  • 落合陽一氏はアート、サイエンス、哲学などの高度な専門知識や情報を、具体的な説明や事前情報などなしに、情報を圧縮して記述するので難解になりがち。先日、有働由美子氏、成田悠輔氏と対談する、なんらかのイベントの動画を見たが、落合氏は口頭や会話であってもコミュニケーションが飛躍しまくるので、果たして対談が成立するのか。

  • なぜ脱近代なのか。

■どんな内容を話しているのか、そもそも対談が成り立つのか

対談をする相手は哲学者である清水高志氏と、
キュレーターである上妻世海氏だそう。どちらもまだ知らなかった。

「キュレーター」というのは芸術作品や情報などを集めて展示、企画、解説などをする人らしい。このワードも今回初めて知った。
つまりキュレーションする人、ってことか。

落合氏がアーティスト、教授、経営者といった複数の顔を持っているように、彼を構成する要素も、アート、コンピュータサイエンス、テクノロジー、哲学、教育、仏教と幅広い。

そしてそれら各要素が完全に入り交じり、既に「落合陽一とは○○の人である」とは言えないほどに融合、醸成されている。
それがゆえに、彼のアウトプットは、受け取る側の理解の範囲を大きく超えてくる。

ある1点の分野において基礎知識があっても、まったく異なる別分野の知識も同時に備えていないと置いてけぼりになる。
各分野の深い教養や理解なしに、その真意を理解するのが難しい。

読んで分かったが清水氏、上妻氏も同様に深い教養と多岐にわたる知見を備えていて、置いてけぼりどころか、むしろ先導し、解説し、質問していく、とてもレベルの高い御仁達だった。

3人で哲学、アート、テクノロジーを縦横無尽に八艘飛びする抽象度の高い会話を繰り広げている。

今回、3人は3回対談していて、本書ではそれらを3章に分けて収録している。
切り口や話題は各回の内でも変わるが、通底するのは「近代を引きづっている現代を超克する」という視点。

デジタルネイチャーになった現在、というのを前提において、それと近代がどう違うのか、
なぜ違うのか、どうすると脱近代できるのか、といった話を異なる視点から話し合い、3人それぞれの視点ですり合わせ理解を深めていく。

デジタルネイチャーに関しては落合氏の以前の本、『デジタルネイチャー: 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』や『魔法の世紀』を読んで理解していたが、正直なところ、「そういう見方もある」「いずれそのような未来が来る」程度の理解で止まってしまっていた。
非常に浅い理解であったことを痛感した。

■デジタルネイチャーを理解し受け入れることと脱近代は重なる

・デジタルネイチャーを理解するための視点を再確認する

デジタルネイチャーを理解する上で、まず量子物理学の視点が必要になる。

量子物理学の視点から、万物は波動であって、確率を含めれば、物質も知能も現象も、あらゆるものがなんらかの数値、パラメータで表せることが分かる。またコンピュータサイエンスの視点から、パラメータが分かれば、それをシミュレートすることもできることがわかる。

波動であるということは、定点においては定数で、それに時間tをかけることによって波型の線が出来るということ。
ということは、アナログが故にグラデーションである様々な現象も、配列で表せてしまえる。
あらゆる物質は、色、形、位置、重さ、硬さ、模様などを、数値で表しうる。
材質も、分子、原子、その配合や密度を計算すれば導き出せてしまうだろう。

よって、「今目の前にあって、触れるこの物」自体もデータで計算出来て、それはつまるところ、人工的に再現可能ということになる。

次に、脳科学の視点が入ってくる。

人間の脳自体も、周りにある物質や、光や音といった波動を受け取って、0と1の二進数に変換し、脳で処理している。

人は、今見ている視界や、音や、肌に感じる風や、お腹が空いた感覚や、恋心など、あらゆる感覚を脳で処理している。

あたかもすべての、実体ある物やないものを含め、重みや質感のようなものを、ダイレクトに脳で受け取っているかのように錯覚するが、実際には目に見えるものは光、つまり光の波動であり、聞こえる音は音波という波動である。

触れる、感じる質感のようなものも、デジタルセンサーと同じように2進数で受け取り、それを脳で再処理しているのだ。

複数の知覚や、過去の経験や、身体と脳のフィードバックを繰り返して、何かリアルな質感というものが脳内で生み出されている。
(ちなみにこの辺の解説は茂木健一郎氏の著作で詳しく展開されている。「クオリア」がキーワードになる。)

上記の脳における処理はAIと同様だ。
というか、脳の処理を模して作ったからニューラルネットワークというのであるが、人間は限りなく機械に近く、
また機械であるAIももはや限りなく人間に近い。

人は、自分自身の中では、この目の前の、触れられる物質や現象にリアリティを感じていて、これは人工ではないと思いたがっている。

しかし、夢をリアルに見たり、デジャビュを感じたり、酩酊して世界が回ったり、寝言で人と話したりと、我々は普段から現実が曖昧に感じる経験をしているものだ。

デジャビュを感じたからと言ってタイムリープしたわけではないし、酩酊して目の前が回っているからといって世界自体が回っているわけでも自分自身が回っているわけでも、また自分の目玉が回っているわけでもない。

自分の感じたものがすべて現実で正しいとは言えないのだ。
ということは、リアリティは、人為的に変化せしめられる。

虚と実、デジタルとアナログ、主観と客観といった境目がなくなる世界

普段からコンピュータサイエンスやテクノロジーを駆使して、新しい発見を繰り返し、仮説と実装で人類の英知の輪を広げている落合氏たちは、実感として、気づいてしまっているようだ。

もはや自然と人工、人間と機械、物質と非物質といった二項対立は存在せず、その二項に見えるものは一体であり、包摂し合い、混ざり合っていて、対立でも対比でもないことに。

お年寄りはインターネットサービスやパソコン、スマートフォンなどをなかなか受け入れがたいものだ。
また同様に、自分も学生など若い子の遊びや考え方をいまいち理解しにくかったりする。30半ばになるおっさんにはTiktokの良さがわからぬ。

これは、生まれたときに当たり前にある環境はその人にとって「自然」になり、その自然に反するものには抵抗感を覚えることから来ているのだろう。「不自然」「常識外れ」に感じてしまう。

これまでは哲学や華厳経や量子物理学など、一般人が普段の生活で接することのなかった領域で見え隠れしていた理(ことわり)が、
テクノロジーによって実装されつつある中で、どんどん一般化してきている。

物理学における二重スリット実験から得られる結果、即ち光は波動であり、同時に粒子でもある、という答えは、人間の直感に反する。
しかし、再現可能で、実際にそのような結果が出てくる以上、受け入れないわけにはいかない。

マトリックスの世界のように、人間がデジタルの世界に生きていてもそれに気づけないほどのリアリティというものも既に実現可能になってきてしまっているが、その現実も認めにくい。

インターネットやSNS、VRなどを経験して育ってこなかった人からすれば、世界というのはオフラインの、この世界だけだ。
もしくは、本や映画といったフィクションに没頭した時の、自分の中に生み出される一時的な世界観も、世界の一つと言える人もいるかもしれない。

しかし、僕を含む、幼少期からインターネットが存在し、SNSも日常的に使い、ITで働く人間には、オンラインもオフラインも同じ地続きの世界で、その狭間はもはや感じなくなりつつある。

オンラインでずっと一緒に仕事をしたり会話をしている人と、数年越しにオフラインで会って「初めまして」と言ったとしても、その関係性は実際にはもう初めましてではない。

この感覚が、デジタルネイチャーの入り口のように思う。

オンラインとオフラインを今例に挙げたが、同様に、人と機械、自分と自分以外(世界)、主観と客観、そういった二項対立自体の狭間が消え、相互に飲み込み合い、意識や情報や立ち位置が行ったり来たりし、お互いが影響を与え合って、受け取った刺激をまた打ち返して、リアルタイムに事象が次々と変化していく。
そういった世界が、到来している。

・脱近代とは

落合氏はとにかくこの近代を終わらせ、デジタルネイチャーを真に到来させようと動いている。

1つ前の項で述べたような、二項対立が存在しない世界が実際にあると主張しても、それを受け入れない限り、社会実装は進まないし、そもそも人の行動も意識も変わっていかない。

いや、きっと厳密にいえば、少しずつ変わっていくはずだ。
新しい技術が生まれて、それが有用であれば、やがては活用される。
人間が言語や道具の使い方、文字や、車輪や、羅針盤や、火薬を発見し、それが瞬時に近隣の人々に吸収されて伝播していったように。

それでも人々は居心地のいい現状、コンフォートゾーンに居ようとし、直観に反することには反対し、改革や変化を嫌がる。
これまで築き上げてきた経験や、地位や、環境を、サンクコストとして認識し、捨てられない。

それが故に、人は、世界をより良い方向に変革しうる技術や概念、ここでいえば例えばデジタルネイチャーのことだが、これを受け入れるのに抵抗を感じてしまう。

我々は意識的に選ばなければいけない。

自分は近代以前の人として、既存の思想や枠組みの中で生きることを選ぶのか。
またはOSをアップデートして、脱近代した世界に飛び込むのか。
割とその境目にいる。

■読んだ後のアクション

本書の第3章は、具体的な、脱近代のための考え方やアクションについて語っている。

個人的には、特に「プロトタイプ思考」や、「やれ!」の考え方には打たれた。

批評するのも、周りを意識するのも、全て「作る人と評価する人」、「自分と他者」という二項が前提にある。

自分と、自分以外がすべてお互いを飲み込み合い、フィードバックループの中で進化をし合っていく世の中では、いちいち周囲を気にしているのが無駄になってくる。

ただ自分がやりたいこと、やるべきことを、動いて、作って、切り開く。
その反応を受け取って、また打ち返す。

Gitにおいて、自分が書いたコードがOSS(オープンソース)で他の人に修正され、それを第3者がさらに手を加えて改善し、そうやってソフトウェアの細胞となっていく構図もまた相互包摂、事事無礙法界の世界観である。

事事無礙法界というのは、華厳経における概念だそう。これはやや複雑だ。
以下にまとめて書き出した。

【事事無礙法界】
 1番目:
  素朴に、いろいろな物事や事物で満ちた世界
 2番目:
  事がすべて相互の関係、縁によって成り立っているという世界
 3番目:理事無礙法界
  理も事もお互いがあるから成立している、相関主義的のような相互生成パラダイム
 4番目:事事無礙法界
  事と事の相互包摂、相互生成。既に理を含んで相互包摂されているため理が回路から外されている。

上記の4番目である「事事無礙法界」が、デジタルネイチャーの世界を表すのに近しいという。

この相互包摂、事事無礙法界の感覚に心根を置くと、肩の荷が下りるというか、安心感すら感じた。
普段、人は、自分は、何をしたら喜んでもらえるのか、褒めてもらえるのか、認めてもらえるのか、ということに囚われている。

仕事の評価、友人との年収の比較、家族への気遣い、親の煩わしさ、
お金、健康、キャリア、趣味、セックス、やりたいこと、食べたいもの、云々かんぬん。

こういった、自分以外の存在が、自分以外などではなく、それ自体もすべて含めて自分であるということを受け入れたら、そりゃ楽になる。

自分は比較的、デジタルネイチャーを受け入れやすい側にいると思う。
生まれつきデジタルネイティブではないにせよ、後天的にネイティブになっているし、ITを生業とし、デジタルな世界、仮想と現実の狭間にある生き方への理解を持てている。

一方で、自分はオフラインの、主観と客観を区別し、人間クサい、あるいは近代クサい、そんなライフスタイルの価値も捨てていない。捨てられていないとも言える。
ある意味で、その両側に今足を置いていて、その時々で意識が往還している段階だ。

本書を読んで概ね納得し、デジタルネイチャーに積極的に飛び込んでいくという、自分の方向性も定まったものの、まだ気になる点というか、納得できない、懸念点は残っている。

それは、自分の肉体とその健康という視点だ。

■人間の肉体を忘れられない

主観と客観が一体化することを受け入れ、
デジタルとアナログの世界を一つして受け入れ、
仮想と現実の境を取り払い、
自分と自分以外の区別も気にしない。

それであっても、自分の肉体がどうしても現実として残ってしまう。

オフラインで食事を摂らねば、風呂に入らねば、排泄せねば、屋根や壁で風雨を防ぎ、気温を調整し、異性との接触がなければ、基本的に人間としての生活を維持できない。

もし寝ずに仕事をしたり、食事を摂らなかったり、緑の自然から離れた環境や慢性的な運動不足のような不健康な環境に身を置くと、まず肉体が反対する。

マトリックスやレディ・プレイヤー1のような世界は、実現度合いでいえばもうほぼたどり着ける位置にある。
点滴やベースブレッドのようなもので栄養を取り、VR内でご馳走を食べる。
適当で快適な住居環境を作り、体外受精みたいなもので子を作り、恋愛も友人関係も師弟関係も教育もAIを相手にするという世界。

排泄行為も、カテーテルやら宇宙服のようなシステムによって最大限自動化させることは可能かもしれない。

しかし、それを受け入れると、身体のあらゆる機能が退化していく。
使わない体機能は衰えていく。フレイル、廃用症候群に陥る。

人と話さなければ言葉も出にくくなるし、セックスも頻度が減ると性欲自体が減退していく。
飲み込む力、歩く力、腸内の蠕動運動も衰える。

この、健康への危機感のようなものが、いち生物として、オンライン、電子化、バーチャルな世界に抵抗感を示す。

過渡期であっても、衰えないように運動したり、意識的に機能を使ったりすることが必要になっていくだろう。

江戸時代の日本人は、一日に40㎞歩いたとも、
また平均3万~4万歩歩いたとも言われている。

しかし現代人は、1日に1万歩歩くのを目標にして未達成になるくらいである。
だからといって、歩いてないことに危機感を覚え、仕事や生活のスタイルを変えるかと言えば、おそらくYesとは言わない。
なぜなら今現代を生きる上で30㎞を歩かずともそこそこ健康的に生きていけるからだ。

デジタルでバーチャルな世界との境目が消えた環境で生まれ育つと、おそらくあらゆる面で、こういった健康への危機感が減っていく。
なし崩し的に、抵抗感もなくなっていく。

今35歳の自分が100歳にでもなるころには、2~3世代下の人々に、社会の中心が移っている。
いや、テクノロジーの発展が指数関数的に早まっていてシンギュラリティがほぼ起きた現状を踏まえれば、1世代で過ぎ去ってしまうかもしれない。

その頃には、デジタルネイチャーはとっくに到来し、あらゆる垣根を感じない自然となっているだろう。

人々は、生物として健康で生きて居られているだろうか?
植物や動物は生き生きとしているだろうか?
人間は恋愛し、生殖をし、子孫を残せているだろうか?

進化のあまり生命の連鎖の存在を忘れてしまい、白色矮星が静かに死んでいくように、人類が、地球が消えてなくならないことを祈ってやまない。

以上


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