六郎さんについて【ヤバさ:★★★★☆】①
高校一年の頃から私は勉強マシンに生まれ変わった。ただ、今思えばひたすら勉強時間だけ何時間も確保して定期テスト対策のみ磐石になるばかりで実力は伸びていかなかったので、かなり性能の悪い勉強マシンであった。新品で買ったのに壊れかけの勉強マシン。ほんとの幸せ教えてよと問い掛けたい。
もしも「頭の良さ」が遺伝だとしたら、山奥に隔離されたヤンキー公立校卒業の父とどうしても勉強が出来ない子の受け皿として名を馳せたヤンキー私立校中退の母から産まれた私の頭は間違いなく低スペック、東大出の両親から産まれた人の頭脳が富岳だとしたら私の頭脳は百均の電卓である。事実私は中学までは作文しか取り柄のない子供で、国語の出来も中の上~上の下を行ったり着たり。書くのは好きでも読むのは苦手なタイプであった。当然他教科はどれも並かそれ以下、数学に至ってはただ授業を聴いていただけなのに突然名指しで攻撃力全振りの数学教師から「何故そんなに数学が出来ないのか」と公衆の面前で説教されるほどであった(ちなみに九九を覚えたのはクラスで最後から2番目、既に小2は終わってしまっていて小3になる前の春休みであった)。受験する高校を検討する三者面談では「大学に行けるかはわからないから進学校ではなく就職にも強い高校に変えたらどうか」と提案され、自宅から徒歩15分という立地だけで進学校を受けようとしていた私は大いに落ち込んだ
そんな私が身の丈に合わない進学校に辛くも合格し、入学早々担任の国語教師に恋をしたばかりに彼に言われるがまま名門私立大学Wを目指すことになったのだから人間辞めてマシンになるのも頷ける。期待されても苦しいのでネタバレしておくが私はマシンとして休日は1日16時間勉強し3年間校内トップ層を維持し続けたが、W大には落ち東京の山奥にあるくせに名前だけは然も都会の真ん中にありますよと言う顔をした大学に行くはめになった。結局意地で教科書を丸暗記して定期テストで上位を取るという典型的な努力型だったので越えられないスペックの壁があったのだろう。せめて1,650円(税込)くらいの電卓のスペックがあれば…。iMacとは言わないから…。
とにかく、チープな作りの頭でハイクラスな大学を既婚教師への恋情だけで狙い続けてきた私にとって高3の夏は勉強以外の全ての時間は悪行、と本気で考えていたくらい大事な時期であった。睡眠時間は0時~6時の6時間、食事は一食に付き30分、入浴にも30分を当て計8時間の生きるために割く時間以外は1分も無駄にせず机に向かっていた。私が恋していた教師は大変な愛妻家であり、「この前、奥さんから『私と生徒どっちが大事なの?!』って言われちゃってさ~」と惚気るほどだったため、私はそんな惚気の数々を涙目で受け止めながら「私は女として先生の一番になることはできない…。それなら生徒として一番になってやるわ!」と固く心に誓っていた。その誓い通り先生の担当科目では常に3位以内をキープし、先生に勧められたW大に受かるため英語と世界史でもその調子だったため好きでもない教師からも期待されていた。
私は昔から重度のマック中毒者であり、右乳を失い胸に大きな傷を負った今、私に似合うのはサムライマックだわ…!と軽い興奮を覚えるくらいであるが、このときの夏ばかりはどんなに母からマックに誘われても頑として机の前を動かなかった。そんな私に向かって母は「ねぇ…そんなに勉強して何になるの…?頭がおかしくなっちゃうよ」と嘲笑混じりに言ってきたが、私としては母のように頭がおかしくなりたくなかったから勉強していた面もあるので我々の価値観は成田離婚どころか成田エクスプレス離婚(もちろん往路)をかますくらい合わなかった。赤本を繰り返す回数が増えるにつれ、母を鬱陶しいと感じる頻度も増えた。母は基本どこかへ出掛けていて昼夜問わず気付いたらいなくなっている外飼いの猫のような生活をしていたが気紛れに帰ってきては私を外食に誘おうとした。私はその類いの爆弾でも仕掛けられてるのか?と疑われそうなくらい学習机を離れるのが怖かったので決して腰を上げようとはしなかった。
だがそんなある日私が腰を上げるまでもなく母自らが母らしい気楽さで爆弾を投下した。それはよりによって私にとって鬼門の科目だった世界史を勉強しているときに落ちてきた。私はW大始め多くの私大文系学部を受けるのに必要な国、英、世の3科目の中で世界史が苦手だった。お気づきかと思うが、私の科目の出来不出来は、担当教師のことがどれだけ好きかに懸かっていた。私は国語教師に横恋慕している傍ら、当時27歳の関西出身の細身でキレイ目ファッションを着こなした出っ歯の英語教師のこともちょっとイイナ♡と思っていたため英語の定期テストでは満点を連発していた(ちなみにこちらの方は相手も満更でもなかったようで卒業したら二人で美術館に行こうと誘われていたがその頃には私はまた別の理科教師に恋をしていたので英語教師とのデートは実現しなかった。私は高校に何しに行ってたんだろう??)。しかし世界史の先生はハグリットそのまんまの容姿ながら授業は俯き勝ちに年表を読んでいるだけという退屈さだった。その上生徒とは目を合わせず、「僕は人間が嫌いなんだ」とカミングアウトするときだけ朗らかに微笑んだ。ハグリットは陽気に魔法生物と戯れているから愛らしいのであって陰キャのハグリットなどただ薄気味悪いだけである。そういうわけで私は定期テスト前の丸暗記しか上手く行かず受験用の世界史の学力が身に付かず苦しんでいた。その日も腹に重たいイライラを抱えながら「マドラス…ボンベイ…カルカッタ…」と半泣きで唱えていた。すると母がふわふわと足取りも頭も軽く部屋に現れた。私のベッドにふわりと腰かけるなり言った。
「お母さんの彼氏見たい?」
東インド会社は消し飛んだ。まず彼氏居たの?ほんとにいたの?…居るだろうとは思っていた。ホステスだった母はよくお客さんと同伴と称して出掛けていたが、最近はその同伴の行き先が北海道や沖縄に及んでいた。どこに出勤するのかな?さすがに勉強マシンの私も相手がお客さんではないだろうと察していた。だが、察することと受け入れることとはまた別である。
「見たいって…え…?別に…いいよ…」
私は歯切れ悪く断った。私は変に気を遣うところがあり、私の記憶の中の東インド会社が派手に爆散した今、母の彼氏など見たくもなかったが、もしも母が彼氏が居るという事実をやっとの思いで私に告白してきたのだとしたら、バッサリ断るのも母が気の毒な気がしたのだ。こうした偽善でしかない妙な気遣いが約30年分蓄積した結果右乳にしこったのだと思う。母は案の定私の歯切れの悪さの隙を突きシャンパンピンクのFOMAを開いた。
「ほらこの人!」
そこに写っていたのは柔和そうに笑いつつも眼だけは妙にギラついた、何かと拘りの強そうなオッサンだった。
これが私が初めて母の内縁の夫の顔を見た瞬間であった。
イケメンでもなく、面白い顔でもなく、私は反応に困った。私が言葉選びに迷っていると母は続けた。
「名前は六郎っていうの!」
ろく…ろう…?
「6番目に産まれたんだって」
もちろんこれはフェイクであるが、実際母の内縁の夫の名には決して少なくない数字が入っており、それがそのまま彼が産まれた順番を表しているのも本当の話である。世界史を詰め込む気力をすっかり失った私の頭に、母は六郎さんのプロフィールを詰め込み始めた。
六郎さんは母のお客さんであるが、高校の同級生でもあった。つまり進学コースの生徒たちとは目を合わせることすら禁じられ、同じ敷地内の同じ学校に在籍しているのに決して崩壊しないベルリンの壁より強度の高い壁で隔離された高校時代を過ごしたということである。その上六郎さんもまた母と同じくそのヤンキー校を中退していた。
「向こうは高校時代から私のこと知ってたんだけどぉ~私は何にも知らなかったんだよねぇ」
母はいくらか自慢げに語った。至極どうでもよかった。だが母が続けて口にした言葉は聞き捨てならないものだった。
「まぁでも結婚してるんだけどねこの人!」
はい出ました~。さすが倫理観を産道に捨ててきた女!まぁホステスと客の間に始まる恋などこんなもんだろ。私は自分がまさに今既婚者の教師への横恋慕だけを原動力に机にかじりついているのを棚に上げ彼らの恋愛が心底馬鹿馬鹿しくなった。だが、世界史のテキストに目を落とそうとしたとき、母が神妙な口調で付け加えた言葉に私はインド全体が消し飛ぶダメージを受けた。
「奥さんね…末期癌なんだって…」
母の倫理観はおばあちゃんの産道を隈無く漁っても決して見つからないだろう。たぶん精子が卵子に潜り込むときにうっかり取れちゃったんだネ。今でこそ癌サバイバーの端くれとなった身としてはこんな話は許しがたく末代まで祟られて然るべきだし、奥さんに我が身を重ねて本当に苦しいのだが、当時はとにかく母を恥じる気持ちでいっぱいであった。更に六郎さんには私の2つ歳上と1つ歳下の息子が居ると知り、私は名も顔も知らぬ彼らにひたすら申し訳なくなった。
そんな六郎インパクトの傷も癒えないうちに、ある日母がえらく機嫌を損ねて帰宅した。母は牛乳が白浮きした飲みかけのコーヒーを炬燵の上に幾つも陳列する悪癖があったが、ハンドバッグを投げ捨てるなりその林立するマグカップの隙間に母は2つのプラスチックの塊を投げ出した。よく見るとそれらは見慣れたシャンパンピンクに鈍く光っており、2つは細いビニールのような線で辛うじて繋がっていた。そう、それは逆パカされたFOMAさんだった。こんな漫画みたいなことほんとにあるんだ…
「なに、これ…」
呆気に取られた私に母は吐き捨てるように言った。
「六郎にやられたんだよ!まぁお母さんもやってやったけどね!!」
聞けば、六郎さんが母と他のお客さんとの仲を邪推し嫉妬した結果喧嘩になり、ケータイを曲げてはいけない方向に曲げてしまったらしい。なんて暴力的なユ○ゲラー。というか、嫉妬って…。どの立場のどの面下げて…。私は揺れる白浮きしたコーヒーの水面を無言で見詰めた。ただでさえ乗車率120%を越えてヤバイ奴らがギッシリ詰まった私の人生に、また一人とんでもない男が加わってしまった…。
その後、母と六郎さんは7、8台ほどのガラケーを燃えないゴミに昇華させ段々と安定した関係を築いていった。その間、奥さんは勇敢に闘病された末に亡くなられた。六郎さんは奥さんの葬儀にあろうことか母を執拗に誘ったが母は固辞した。
次回はそんな六郎さんといよいよ関わらなければならなくなったここ一年の話をしようと思う。
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