見出し画像

私とボスと時々ママ友

大学1年の始め、ボスとめちゃくちゃな喧嘩をした。
どういう経緯で何について喧嘩をしたのかは忘れてしまったが、私がボスに
「私はボスみたいにレベルの低い大学で妥協して満足してないから!」
と言い放って電話をガチャ切りしたことだけは覚えている。

まったくめちゃくちゃである。この頃、私自身がめちゃくちゃだった。どのくらいめちゃくちゃだったかというと、男性経験がなかったくせに大学入学5日目でまったく知らない男とワンナイトラブに興じ、その帰り道に多摩モノレールの線路を覗き込んで「いっそこのまま…」と本気で考えるくらいにはトチ狂っていた。ワンナイトラブの相手には何も興味はなく、これっきりで捨てられることは彼の家に入った瞬間から分かっていたし、実際その通りだった。スポーツ推薦で入学したという、ポケモンのイワークに顔がそっくりな男だった。少しも好めそうもない男に初めての身体を簡単に明け渡すほどに私は病んでいた。
受験に破れ、恋に破れたばかりだった。
高1から第一志望として目指し続けた大学に落ち、第四志望の大学に通い出した。
親子ほど歳の離れた男への片想いが成就したかと思ったら、キスだけですぐに捨てられた。
若年がん患者になった今でこそ馬鹿馬鹿しいと思うが、18歳の健康体の女にとって、それらは世界が終わるには充分すぎる出来事だった。

そういう暗闇にいたから、ボスへの言葉も私の一方的な八つ当たりだったのだと思う。ボスの同い年とは思えない懐の深さに甘えたのだ。実際、ガチャ切りしたのは私の方なのに、その後すぐにボスは電話をかけ直してくれた。
「アンタがこんなになっても離れていかないのは、アンタが良いヤツだって知ってるからだよ!」
とんでもない言葉で傷付けた私をボスはそう言って叱ってくれた。その優しさにべちょべちょに泣いたことも、覚えている。
ボスは、高校時代の友人だった。

ボスというのはもちろんアダ名で(しかもアダ名なのに仮名である)、たくましい体つきや豪快な笑い声、何より誰のことをも受け入れる包容力から誰かが名付けたものだった。
私とボスが仲良くなったのは高3の冬。高校生活もあと数ヵ月になった頃だった。それまでも同じクラスになったことがあったが、太陽みたいなムードメーカーのボスと、いつも黙って俯いているくせに授業中だけは挙手してまで饒舌に話す私とは生きる世界が違った。ただボスは優しいから、感じの悪いガリ勉の私にも「RONIちゃんほんと頭も良くて美人ですごいよねー!」と言ってガハハと笑いかけてくれていた。
高3も秋が過ぎると続々と進路が決まる者が現れる。そういう子たちがバイトや卒業後の独り暮らしの話に浮き足立つ中、私は私文の最高峰を目指して勉強し続けていた。寒くなるにつれて放課後に残って勉強する生徒もどんどん減って、スカスカの教室で私とボスは喋るようになった。
ボスは子供の頃から教師になるのが夢で、教員採用試験合格率が高いという某大学を目指していた。私は物書きになりたくて多くの作家を排出した一流私大を目指していた。模試の結果からして合格は絶望的だったが、教師たちに「文系はお前がトップだ。一番合格に近い」と煽てられるまま後戻りできなくなっていた。
お互いの目指す大学や将来の夢を打ち明け合ううちに、ボスはただの生真面目なガリ勉だと思っていた私が思ったより皮肉屋で毒舌なのを知り、私は根っから明るくて善意の塊だと思っていたボスが意外とブラックユーモアを好むことを知った。
実は気が合うということを、私たちは高校生活の最後の最後になって初めて知ったのである。
それからボスの家に泊まりに行くなどして私たちは急激に親しくなったが、私の1発目の受験が始まる直前で、ボスは狙っていた大学より下のレベルの大学の推薦入試に受かった。
「妥協とかじゃないの…。私はここだな、と思って」
そんなようなことを言ってボスは一般入試組を抜けた。
「国立大学の合格率を上げたいんだ。受けてくれないか?」という教師の期待に応えた私の受験が全部終わったのは3月の半ば、卒業式もとっくに終わったあとだった。国立には受かったけれど、休日15時間勉強して目指した第一志望には落ちた。私は無名ではないが一流とも言えない中途半端な私大に進むことになった。

ボスとは大学進学後もずっと連絡を取り続けていたが、一緒に一般入試を戦い続けてくれると勝手に信じていたボスが急に教室から消えた寂しさを、私は自分でも嫌になるくらい根に持っていたのだと思う。

そんなボスの妊娠を知ったのは、私のお腹もだいぶ大きくなった頃だった。
ボスは私より3、4年も早く結婚していたが、「仕事が楽しいから子供はまだいらないかな~」とよく言っていた。ボスは夢を叶え、小学校の教師をしていた。私は夢破れて高校教師をしていたが、同じ教師ということで就職してからもボスとはたまに連絡を取っていた。そんな中で、私の妊娠を知っているボスからある日「ママ友になるね!」と言われたのだった。
私が妊娠を打ち明けたときは、ウチはまだいいかな~旦那はほしいみたいだけど~なんて言ってたのに。私はぼんやりと、突然推薦入試に受かったボスを思い出した。快でも不快でもなく、ただただ、思い出した。
でも明るくて楽しいボスと、今後はママ友としても仲良くできるのかと思うと私はウキウキした。

ボスから「一昨日産まれたよ~!」と連絡が来たとき、私は町の乳腺外科の下駄箱で、「がんセンター行ってみるか。まだ20代だから癌になるなんて思ってなかったよな…」という医師の言葉を思い返している最中だった。
「本当におめでとう!こんなときに水を注すようでアレなんだけど実はね……」
私はこのときも、ボスが幸せの絶頂にいるはずのこんなときでさえも、ボスの包容力に甘えた。後にボスから「産後メンタルもあったかもしれないけど、あのとき私ボロボロ泣いたよ~」と言われたとき、私は自分の幼さを恥じた。
私たちは、健康ママと癌ママという、ちぐはぐなママ友になった。

私の抗がん剤が終わり、息子が1歳になり、あっという間に年が明けた今年1月、私とボスは初めてママ友同士として会った。私の体調がまだ万全ではなかったこともあって、ボスは娘を連れて私の狭いアパートまで来てくれた。
ボスと会うこと自体が5年ぶりだった。最後に会ったとき、ボスは新婚で、私は不毛な片想いに蹴りを付けようとしていたような気がする。あれからずいぶん、色々なことが変わってしまった。ボスは母になり、私は妻になり、母になり……そして……。
ボスに久しぶりに会うことが、憂鬱でなかったといったら嘘になる。久々に会うという緊張、それに加え、目の前に「健康ママ」が現れたとき、私自身が何を思うのかという、懸念。電話をガチャ切りしたあの日の手汗が再び甦ったようだった。
しかし様々な思いを抱えていたのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、真っ白なワゴン車を大胆に開け放ったボスの笑顔は、相変わらず豪快だった。
子供好きなボスは、私の息子のことをプリンスと呼んで可愛がってくれた。息子は誰にでも懐くけれど、常にニコニコと両手を広げてくれるボスには特に嬉しそうに近付いていった。むしろほとんど笑わないボスの娘と、他所の小さい子の扱い方が分からずヘラヘラするしかない私の方が親子のようだった。
「可愛いねー!プリンスほんっとにイケメーン!」
キャッキャとはしゃぐ息子を抱き上げるボスは、私をベタぼめしてくれた高校時代のままだった。
お互いの子供をひとしきり褒め合ったあと、ボスは少し改まってハキハキと尋ねてきた。
「あのさ、私RONIちゃんの病気が大変なのは分かるけどRONIちゃんの気持ちがどんだけ辛いかとかわからないからさ、なんか言わないでほしいこととか、話したくないこととかある?どのくらい踏み込んでいいのかとかさ!」
突然背筋を伸ばしたボスは、バオバブの木のような壮大さがあった。ボスはボスなりに、癌ママの私とどう付き合っていこうかといろいろ思案してくれたんだろう。何かを宣誓するようなボスの口振りでそれがわかった。それなら、私は───
「とくに、何も。何でも話せるよ。話すことは全然、大丈夫」
これは本心だった。もともと私は語ることは苦手ではないし、夫と母以外の前で病気のことで泣いたこともない。ボスが何を聞いてきても答えられる自信があった。そして語ることで、ボスもいつか身体に何らかの異変を感じたときにすぐに病院に行ってほしいというお節介な願いもあった。ボスの健康は、羨ましい。ボスが私に比べて子の成長を見届けられる可能性がずっと高いのは、妬ましい。それでも、ほんとうに、「そう」であってほしい。
しこりをどうやって見つけたか、どういう病理結果だったか、どうやって抗がん剤と育児を両立したか、タモキシフェンを飲み始めて何が起きたか、私はボスに聞かれるままに順を追って話した。授業をしてるようだった。何かハードラックな主人公が出てくる現代小説を講釈しているように錯覚した。しかしその主人公は私だった。
ボスに語ることで、私の頭もクリアになった。抗がん剤終了から約3ヶ月、私にとって告知、手術、抗がん剤は過去だった。逆にホルモン療法の気分障害の苦しみと、再発転移への恐怖は語る喉がクッと詰まるくらい、狂おしいほどに「今」だった。ボスは過度に同情するでもなく、無理に微笑むでもなく、真っ直ぐに視線を逸らさず聞いていた。そこに、私がサバイブしたことへのリスペクトを感じた。病気の話をしたのに何も暗くならなかったのはそのお陰だと思う。
その後はお互いの過去の恋愛や高校時代の思い出話、ボスの友達の近況、私の友達の近況などを話し合い、子供がグズリはじめても話しも笑いも絶えなかった。ママ友になっても、私たちは気の合う二人だった。

しかし、ボスへの新築祝いのお返しを受け取った日を境に、私とボスの交流は途絶えた。
ボスの新築はスッキリとオシャレで、綺麗に並んだ絵本や巨大な壁掛けのテレビ、暖かみのあるベンチなど、テーマパークのようだった。ボスの旦那さんにもお会いでき、息子も旦那さんに遊んでもらってご機嫌だった。こちらがお祝いする側なのにお寿司をご馳走になり、口いっぱいに玉子を頬張るボスの娘に目を細めた。良い時間だった。
ただその後の私自身の人生が、あまりに常時辛い時間すぎたのだ。ただ1錠の薬を毎朝飲んでいるだけなのに、私の気分障害はどんどん酷くなった。夫とギスギスすることも増え、母から心ない言葉を投げつけられることも増えた。息子にたいして怒鳴り散らすことに躊躇いがなくなっていった。もう無理だ、もうダメだ、何もかも終わりにできたら良いのに……そう煮詰まる度に、ボスの新築がよぎった。ボスの実家のすぐ隣に土地をもらって建てられた真新しい家。いつでも両親の助けを借りられる状況。ボスを愛してやまない旦那さん。物静かで何でもよく食べる娘。私たちは同じ「母親」なのに、どうして私には何もないんだろう。どうして何もないくせに、癌だけはあるのだろう。ボスの推薦入試を思い出す。冬を越えて春まで勉強し続けた私はなぜ、第一志望に受からなかったのだろう。なんでも叶っているように見えるボスと、何もかもダメだった私と。ねぇ、神様がいるとしたら答えてよ。私とボスは、何がそんなに違うのですか?

「最近ボスと遊ばないの?」
ある日、世間話のついでに夫から聞かれた。
「うん……そもそも子供くらいしか共通の話題がないの。仲良くなったのも遅かったし」
ボスの全てが妬ましいから、とは言えなかった。
実際私はボスの趣味や好きなものを知らない。ボスは私を結婚式に呼ばなかったし、お互い子供が産まれるまでは会おうという話にもならなかったのだ。友達だけど、結局はママ友なんて子供ありきの関係だ。
気付けば最後に連絡を取ってから3ヶ月も経っていた。私もボスに連絡をしなかったが、ボスもまた、私に連絡をしてこなかった。「子供連れて公園とかいこーよ!」とか言ってたのに…。これはもしかして、つわり、とか?私たちの子も2歳になる。2人目ができてもおかしくない時期だ。だとしたら連絡が来ないのも頷ける。私はボスに、最低でも向こう5年は妊娠できないと話していた。そしたらボスは、「じゃあその頃私も2人目考えようかなぁ!」なんて言ったっけ。でもそんなの、嘘でも良いんだ。当たり前だ。ボスは健康なママだ。ちゃんと温かく支えてくれる後ろ楯もある。旦那さんは子供好きだ。そんな家庭が、2人目を望むのは自然なことだ。がん治療と育児を両立しているにも関わらず、実家がないからロクに助けも得られない私とは、違う。

だが先日、どうしてもボスに連絡したくなった。
もういつからか分からないくらい長いこと、私は朝が辛い。目が覚めて、また一日が始まると思うと、身動きが取れなくなる。「また一日が始まる」ということがどんなに尊いことか知っているはずなのに、目が覚めなければ良いのにと思いながら床に就く。こんな罰当たりなことを思っていたらいつか必ず後悔するのに。何があっても生きたいはずなのに。自分自身の矛盾にも腹が立つ。
そんな沈んだ日々でも息子は竹から産まれたかなんかのようにどんどん成長する。手掴みでトマトシチューを食べ、その真っ赤な手で私の肩を掴み、食事中にも関わらず私の肩によじ登る。化粧をしようとすればこちらに来いと手を握り、狭い家の中を連れ回す。やっと身支度を終えたら14時なんてこともザラ。毎日毎日、何故こんな人生を辞めたらいけないのか自問する。息子のため、息子のため、息子のため…必死に唱え続ける。
上に積みすぎたジェンガ。もうどこにも抜くブロックはない。そんな気分のまま何日も過ぎた。どうせ倒れるなら倒してしまおう。ボスには2人目ができているかもしれない。それならそれでいいじゃない。なんとか立っている、ということに疲れた。崩れてしまいたかった。今思えば失礼な動機だが、私は3ヶ月ぶりにボスにLINEをした。

ボスの近況は、意外なものだった。
娘の癇癪に参っていて、一時保育を考えているというのである。
あの子が?大人しく、落ち着いて座ってご飯を食べていたあの子が?息子より月齢が低いのに息子よりお喋りが上手なあの子が?
私は大変なことに気がついた気がした。もしかして、子育てって、つらいの?大人しい子でも、温かい実家があっても、そして、健康でも。
私は癌だからこんなに辛いんだと、健康でさえあればもっと頑張れるのにと思っていたのに。
重低音のような苦しさは消えなかったが、ボスへのギシギシ軋むような妬みはスーッと引いていった。私はいつの間にか、素直に今の辛さをボスに吐露していた。そして子供を愛していても辛いよねと分かち合った。
「泣かないでやってるとしたら我慢強すぎる」
というボスの言葉に、
「普通に泣いてるよ」
と返信した私は笑っていた。
「泣いていいんだよ!」
と言ってくれたボスは、どんな顔をしていたのだろう。

もしも本当に、子育てが誰にとっても辛いとしたら、私が癌だからと言って家に引き籠っていて良い道理はない。タブレットを捨てよ、散歩に出よう。
ベビーカーに息子を乗せ、100均に行こうと思った。息子の衣替えのためにファスナー付きの大きな袋がほしかった。UNIQLOにも行きたい。肌寒くなってきたから、Tシャツに羽織る薄手のパーカーがほしい。
秋晴れというには日差しが鋭かった。ベビーカーから身を乗り出す息子のうなじが白く反射する。良い天気。100均も、UNIQLOも、あとで良い気がした。だってまだ太陽はこんなに元気だ。
私は進路を変えて、公園に向かった。確かあのファミレスの裏に公園があったはず……。そこは10年ほど前に、ボスと一緒にご飯に行ったあと夜風を浴びながら語り合った公園だった。
私の記憶は確かだった。しかしアスレチックやブランコがあったという記憶に反し、公園はだだっ広い空き地になっていた。ベビーカーを乗り入れると視界の端に2組の親子が見えた。誘いあって遊びに来たという様子だった。それぞれの子供はどちらも息子と同じくらい。しまったと思った。ノーウィッグで天パをリーゼント風にまとめた髪で来てしまった。しかも昨日青いカラートリートメントで染めたばかりだ。しかもしかも、トリートメントが足りなかったのか金と青の斑に染まってしまっている。私が視線が合わないように俯くのと、彼女たちが「こんにちは~」と声を発するのと同時だった。私はできるだけ感じよく見えるよう生来のツリ目を思い切り細めて「こんにちは~」と返した。彼女たちは砂場に向かっているようだった。息子はそうだな、あっちの広いところで走らせよう。
ベビーカーを停めると息子はムチムチした手足を思い切り伸ばして降りたがった。そうだよね、乗りっぱなしはつまんないよね。よかった。公園に連れてきて。
そう思ったのも一瞬で、ベビーカーから降ろした息子が砂場に向かって走り出した瞬間私は軽率に公園に来たことを後悔した。砂場の隣にキリンの木馬がある。そっちに行くかも。そんな希望的観測も虚しく、息子は知らない親子たちが寛ぐ砂場にザクザクと踏み入り、彼らのお砂場セットに手を伸ばそうとした。
「ダメダメダメダメ!」
息子の両腕を掴むも好奇心旺盛な息子は止まらない。
「いいよいいよー!こういうのはね、みんなでシェアしないともったいないから!」
片方の白い帽子を目深にかぶったお母さんが息子の前にスコップやら霧吹きやらを並べてくれた。
「すみませんなんか、いきなり来てしまって!」
「いいんですよー!お名前は?」
私は息子の名前をできるだけハッキリ発声した。気に入って付けた名前だが聞き間違えられることが多い名前である。
「わぁー!かっこいい名前!くん?ちゃん?」
「あ、えっと、男です」
自分の受け答えにコミュ障が滲み出ているのを感じ、私は所在なく息子に「貸してもらってよかったねー……」と声をかけた。もう一人のポニーテールのお母さんが
「私たち、上の子の幼稚園が一緒で会うようになったんですよー」
と二人の間を指差しながら紹介してくれた。
「そーなんですねー!」
私はヘラヘラとやたら明るく相槌をうちながら「ウエノコか……」と心の中で反芻した。私がそんな言葉を使う日は、来るのだろうか。
聞けば二人が今連れている子は息子と同い年だった。2歳同士でも、ウエノコがいれば出会えるのか。私は毎日自分と二人きりでいる息子に対し言い様のない罪悪感を抱いた。
今日初めてこの公園に来たこと、砂場があるのを知らなかったこと、昔は遊具があったことなどを話しながら、私は二人のお母さんの顔をそれぞれ見比べた。二人とも日焼け止めだけを塗っているようで、シワもシミも無理に隠していなかった。そこにはハツラツと子育てに奮闘する「健康なママ」がいた。私はカラコンをして、ローラメルシエのシャドウを塗って、こんな髪型をして、何なんだろう。「育休中ですが癌の治療もしてました」?違うな、もう二度と会わないかもしれない人たちにわざわざこんな重い話はできない。
私はただ、やたら派手で厳ついのに言葉少なな不思議なママとして固まった。二人は私に気を使って話を振ってくれるものの、しばらくすると二人だけで会話を始めた。子供たちは黙って座って、息子に興味を持つわけでもなくお菓子を食べていた。息子は見慣れないオモチャたちに夢中だ。ただ私だけが、何もしていなかった。ほんの何十センチかの距離が、橋も架けられないくらい遠く感じた。
こういうの、よくある。ゼミで、職場で、研修で。全く訳の分からない会話に耳を澄ませて、自分にパスが来たときを逃さないようにしながら、でも聞き耳を立てていると思われないように、別の何かに気を取られているフリをするの。
二人は別の親子を誘ったけど彼らが来られなかったことや、その親子がどこに住んでいるかや、上の子の幼稚園の行事や、片方のママが昔どこに勤めていたかなど話し合っていた。
不意に息子が立ち上がった。
「わぁー、大きいねぇ!」
どちらかのママが言った。確かに二人の子供のことを私は息子より年下だと思っていた。でも息子がデカいのだ。
「そーなんですよ!ね、大きいんだよね」
私は息子の頭をポンポン撫でた。夫に似て大きいのだと言いかけてやめた。だっていきなり旦那の話をされても困るだろうと思ったから。
何が適切で、何が不適切か分からなかった。何を言ってもよくて、何を言ったらオカシイのか。
白い帽子のママが、娘をあやした。娘がケタケタ笑う。それを見た息子も、自分があやされているわけではないのに大きな声でゲラゲラ笑った。底抜けに明るく、常識外れに社交的な息子。この子はこんなに広い繋がりを求めているのに、私は約2年間、狭い世界に彼を閉じ込めてきた。
「面白いねぇ」
と息子に声をかけながら、その言葉とは裏腹に気持ちはどこまでも沈んでいった。

二組の親子と別れ、息子が何もない公園に飽きる頃には、もう100均にもUNIQLOにも行く気力がなかった。
家に向かって一直線にベビーカーを押しながら、あの二人のママの会話を思い返していた。内容ではなく、二人の声色や伸びる語尾を思い返していた。あれは、なんだったのだろう。常に真ん中より少し高く保たれたテンション。よそよそしくならない程度に綺麗に整えられた声。両目が半月形のまま動かない笑顔。何度も小刻みに縦揺れする頭。
お互いが何の仕事をしてきたかも知らないようだった。話す中身は全部、子供のこと、どこに住んでるかも曖昧な他の親子のこと、幼稚園のこと。自分たちの内奥に話が及ぶことはない。
いったいあれは、何のための会話だったのだろう…
そこまで考えて、突然答えが降ってきた。
ママ友だ。
そうか、あれが「ママ友」なのだ。
ボスの顔が浮かんだ。昔の恥ずかしい恋の失敗、将来どんな教員でいたいかという展望、身体の芯が冷え込むような病への恐れ。そんなことを何時間も話し合う私たち。私たちは、「友達」だったんだ。
子供がいるというそれだけで、私が自分でボスに「ママ友」というレッテルを貼った。そのレッテルが私のボスへの感情をギスギスしたものにさせていたのではなかったか。

「日曜日なら子供預けられる?!子供抜きでゆっくり語ろ!」
ボスからもらったLINEを思い出す。
きっと私の息子はこれからも、あらゆる親子に突撃し、私はその度にヘラヘラと少し高いテンションでたくさんのママたちに謝ったり感謝したりするだろう。天真爛漫な子を持つというのはそういうことだ。そしてその度に、「健康なママ」の眩しさに疲弊していく。己の病は言えないままに。私にそんな交わりが耐えられるのか?
耐えられなかったら───ジェンガがもう積めなくなってしまったらその時は、ボスにLINEしよう。
「この前、あそこの公園でさ……」
と愚痴ろう。ママ友とか無理だよー!と泣きつこう。
だってボスは、私の数少ない友達の一人なのだから。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?