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父について①【ヤバさ:★★★★★】

ずいぶんと時が経った。私は文章を書くことが好きであるがそれを仕事にできなかったのはこの通り継続する力という何事にももっとも大事な能力が欠落しているからである。「継続は力なり」とよく言われるが、私はどうしようもなく非力な人間である。

何も書かないでいる間に、ついに私は三十路を迎えた。一昔前のけしからん俗説では、これで私の女としての消費期限は切れて後は強く逞しいオバサンという別の生き物に進化していくだけだろうが、今は令和である。芸能界に目を向ければ三十路を過ぎた美しい女性が今は盛りと百花繚乱。むしろ若手女優よりファンが多いくらいである。彼女たちを見ていると、三十路になるなんて何を恐れることがあろうかと強気になれる。尚、大切なのはそのあと決して鏡を見ないことである
このようにある意味多感なお年頃を迎えたわけであるが、これが癌患者の切なくも切実な話で、歳を重ねられることは本当に嬉しい。たぶん私はこの先シワがどれだけ増えようが、シミがどれだけ増えようが、ゆくゆくは性別不詳になろうが、誕生日を迎える度に両手を合わせて神に感謝するだろう。ただ、私を癌にしたのも同じ神様だったとしたらちょっと考えちゃうよネ

私が歳を重ねたように息子も順調に健やかに月齢を重ね、現在10ヶ月である
ふかふかの真綿の天使のようだった息子は、捕まり立ちを覚えた辺りから脳の何らかの回路が激しく繋がったのか、今や歯を剥き出しにして飛び掛かってくる笑顔の可愛いガチャ歯のチュパカブラに変異してしまった。私のモッツァレラチーズのような白い肌は抗がん剤の注射痕と息子による嚙み痕でところどころ青カビが生えたようになっている。確かに嚙み心地は良いだろう。何しろ抗がん剤を始めてから私は4キロ肥え、Lサイズのボトムスたちは主治医の「どうせ痩せないと思うよ」という温かな助言の元お蔵入りさせ、新たにXLという未知の領域に踏み出したばかりである。癌患者といえばどんなドラマでも儚く痩せているのに、私はもうすぐ空っぽの腹を抱え妊娠時のMAX体重に達しそうである。髪の毛はスキンヘッドにしてしまったので、サラサラ黒髪ロングヘアの男性と組んでいる某芸人や、クセがスゴいゾンビ映画仕立てのコントに出てくる某芸人にソックリである。ほんの2年前は上白石萌音に似てると言われていたのに病は残酷である
とにかくそのように最高の嚙み心地を持つ母親になってしまった私であるが、腐っても(太っても)母親である。嚙まれたときは精一杯眉間にシワをよせ息子の両手を握りハッキリと「ダメ!」と叫んで躾ようとしている。そんな私の眉間に隆起した脂肪を見て息子は両目をギュッと瞑りスキッ歯を剥き出しにしてこの上なく楽しそうに笑うのである…
そんな息子の嚙みグセに手を焼きながら、私の頭にはこの嗜好が「隔世遺伝」なのではないかというアホらしくも恐ろしい考えが過った。

私が文章を書けずにいる間に、日本の首都では世にも素敵なスポーツの祭典が行われた。
そして世にも素敵な祭典で得た世にも名誉な金メダルを、世にもおぞましい方法で汚されてしまうという事件もあった。「かじる」という行為に敏感な私はあの事件の第一報を聞いてから巨大掲示板のまとめサイトを何度も「再読み込み」し続報を追い続けた。そしてその続報の中に「最大の愛情表現だった」という言葉を見つけ深く戦慄した。

やっぱりそうだ。同じだ。父と同じだ。

と。


上にも書いたように私は非力な人間なので30年間で金メダルなどもらったことはない。
父が噛っていたのはメダルではなく、娘の私自身である。


父と暮らしていた記憶はあまりなく、唯一おぼろげに覚えているのは常夜灯のオレンジの明かりの中、掘っ立て小屋のような家に似つかわしくない凝った作りの大きな黒いコンポからひたすらシャ乱Qの「シングルベッド」が流れていて、それを聴きながら父と母と川の字になって寝ようとしているシーンである。その次の記憶はもう父が出ていく日の朝で、その日私はいつもは母に送ってもらう保育園へ父と一緒に登園した。父が出ていってしまうと聞かされていた私は、今手を離したら二度と父に会えなくなってしまうのではないかという寂しさで、保育園の太った怖い先生に無理やり剥ぎ取られるまで父の手を離さなかった。あの日の幼気な私に言いたい。「その手を離してもあなたの人生にはたいした影響は無いし、むしろさっさと離した方がいいよ」と。


ともかく、私が保育園の頃には父とは別居していた。籍は抜いていなかったが、以来父は私にとってたまに来る嫌な人になった。
父は基本的に意地の悪い男で、以前の記事にも書いたがそこそこ美人な母の妹のことをちょっとポッチャリだからって「ブー」と呼んで親しんでいたような男である。ちなみに娘の私のことは「コブタ」と呼んでいた。RONIは本名ではないが、当然コブタも本名ではない。
しかし物心付いた頃からコブタと呼ばれることに慣れていた自己肯定感どころか人としての尊厳も持たなかった私は父が浴びせてくる皮肉やけしかけてくる動いて吠えるゴジラ人形には泣かされながらも耐えられた。
私が耐えられなかったのはそう、父に嚙まれることである
父は私を抱えて逃さないように固定すると、「ウェーイ」という謎の掛け声と共に私の腕やももに噛みついた。くすぐられた子供は「いやー!」といいつつキャッキャウフフと笑うが、嚙まれた子供は「ギャ!」と言ったまま黙る。ただこの痛いだけの時間が過ぎるのを待つのである。解放された私の腕やももには、真っ白い中に桃の皮のような鮮やかなピンクの歯形が並んでいた。
父が来る度毎度この時間が訪れるので、私はよく母に訴えた。
パパ来るの嫌。嚙むんだもん
すると母は決まってめんどくさそうに、

「パパはRONIちゃんのことが大好きだから嚙むんだよ」

と答えるのだった。

子供を産んでわかったことがある。息子のことは大好きだが嚙もうという気は起こらない。「まぁなんて可愛いんでしょブチュゥ」とはなっても、「まぁなんて可愛いんでしょガブゥッ!」とはならないのである。
だが当時の私は母にそう言われたら納得するしかなかった、というか、納得しないと父からの「大好き」が消えてしまうのではないかと幼心に危惧したのだと思う。

そんなわけでしばらくは大人しく嚙まれていた私だが、ある日不意にそんな扱いに疑問を持ったことがあった。「痛いことされるのおかしくない?」という至極当たり前な問いである。私は嚙んでくる父に対して、その日初めて軽いビンタで応酬した。すると父もいつもは抵抗しない私が手を上げたことに驚いたのかムカついたのか軽いパンチを返してきた。私は夢中になった。これは途中でやめてはいけない。私は悪くない。嚙まれて痛いから叩いたのに、私が遣り返されるのは間違ってる。幼い頃から妙に頑固だった私は父が謝るまで叩くのをやめなかった。しかし父も大人げなく、(幼児を噛んで楽しむ大人に大人げなどあるはずがないが)私が何度叩いても延々と軽いジャブを繰り出し続けた。そうこうしているうちに、私の一発が父の眼球にヒットした。ヤバイ、と思うより先に父が

「っ…!何すんだよ!!」

と怒鳴った。
今までのふざけた様子とは打って変わってガチギレした父にビビりながらも私は悪くないので黙っていた。ところが一部始終を見ていた母は意外にも私の方に怖い顔を向け「ダメでしょ!」と一喝したのである。驚く私に母は続けた。

「パパ、コンタクト入ってるんだからダメ!RONIが悪いよ、謝んなさい!」

意味がわからず私は泣いた。当時父はハードタイプのコンタクトレンズをつけていたのである。父は当て付けのように目を押さえて「いってー!いってー!」と繰り返していた。幼稚園では先にやった方が悪いと教わっていたし、先に私に噛みついて嫌な目に遭わせたのは父である。それならやっぱり悪いのは父である。なのに何故謝るのが私なのか。
理不尽への怒りと、母が父に味方した孤独とで私はめったやたらに泣いた。あまりに泣いたのでその後謝ったかどうかは覚えていない


以来私の中でコンタクトレンズはちょっとした地雷になり、就職しても高校時代に作った絶望的に似合わない赤ぶちメガネを手放さなかった。コンタクトレンズをするようなやつは父のような良い格好しいだという酷い偏見を抱えたまま大人になってしまったのである。最終的には夫に出会ったときに盛大な手のひら返しでコンタクトデビューを果たしたが結果としてそれで夫と結婚できたのだからコンタクトレンズは偉大な発明である。さらに言えば抗がん剤によって髪の毛やら睫毛やらを失ったので私は先日三十路にしてカラコンデビューまでした。XLサイズの三十路だが金髪碧眼でがんセンターに通っている。


このような経緯から、愛情表現として噛るという行為に私はトラウマがあったのだが、そもそもニッチな行為なので長年そのトラウマが呼び覚まされることはなかった。まさかここへ来て、しかも世界的なスポーツの祭典が引き金となってこのトラウマに向き合うことになるとは思わなかった。
そして息子が私の太ももに飛び付くように顔を埋めて歯を立てる度、あんな大人たちのようにしてはいけないと心を鬼にして叱るのである。


そのような父の歪んだ愛情表現は、私が小学校に上がる頃には終わった。
そして変わりにその愛情は「お小遣い」として示されるようになったのである。
小学校に上がると我が家のお小遣い制が始まった。お小遣いは別居中の父の懐から出ることになっており、私は「学年×1,000円」を毎月もらっていた。周囲の大人はあげすぎだと顔をしかめたが、父がやることはどんなことでも可愛いという哀しい魔法にかかった父方の祖母だけは、

お父さんはそんなふうにしか愛情表現できないんだよ…

哀愁を漂わせて私に諭すように言った。祖母の切なげな目を見据えて「いいえ、噛ることでも表現できますよ」と言ってのけるほど私は鬼にはなれなかった
そしてそんな換金された愛情も私が小学校五年生になる頃には支払いが滞った。父はもはやどんな手段でもその愛情を表現することを放棄したらしく、代わりに母から「学年×1,000円」の月5,000円が支払われるようになり、その額は高校を卒業するまで変わらなかった。母は父の100万円の借金だけでなく私への換金された愛情まで肩代わりする羽目になってしまったのである


小学校高学年のある日、母が父のことで何か愚痴っていた。内容は全く覚えていない。そしてこれもまた覚えてないのだが、私はそれに対し何か適当な相槌や共感を示したのだと思う。
すると母はそれを聞いて火が点いたように

「あんたが嫌がるから離婚できないんでしょ!」

と叫んだ。この一言は私の胸に深く突き刺さり、それこそ幼少期に散々刻まれた父の歯形など比べ物にならないほどクッキリと痕を残し消えなかった。
当時私は、「母子家庭になる」ということに漠然とした恐怖を覚え、父への思慕など無いくせに「離婚だけはしないで」と懇願していたのである。
母の一言は、決して大人が子供に言ってはならないことであると幼い私は瞬時に悟った。が、そう言わざるを得ないほど母が追い詰められていると悟るほど私は大人ではなかった。ただ、酷いことを言われて傷ついたという怒りに任せ、私は「だったら離婚して良いよ!」と怒鳴り返した。


こうして私が小学6年生の頃、両親の離婚が成立した。それを機に、それまで定期的に会いに来ていた父は私の前から姿を消した
だが父は数年後、絶妙なタイミングを見計らい再び私の前に姿を現すことになる。
次回はそんな父とのヤバイ再会を書こうと思う。




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