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本当に"あった"怖い話

これは、私が大学4年生の時の話です───

私が通っていた大学は東京都とは名ばかりの山の中にあった。学内の様々な場所を「○○ヒルズ」と称してなんとか山感を誤魔化そうとしていたが、勾配だらけで敷地が広いだけの学校で、東京の大学生らしく新宿やら渋谷やらで遊ぶには40分ほど電車に揺られなければならなかった。
無名ではないが一流でもない我が校は、内部進学や第一志望合格で入学し大満足で充実したキャンパスライフを送る人たちと、本命に滑り第○志望で入ってきて山奥という立地も手伝い鬱屈した気持ちを抱えてジメジメした学生生活を送る人たちとで二極化していた。
私はというと残念ながら後者で、鬱屈どころか学歴コンプにのたうち回りそこに親との不仲も重なって精神疾患を抱えて2年次には休学してしまった。休学をきっかけに無理矢理馴染もうとしていた陽キャな友人たちとは離れ完全ぼっちになり、でも友達はいないけど彼氏はいるというお察しな女子大生に仕上がっていた。

あれは、そんな私が大学4年生だった冬の出来事だったと思う。
4年生とはいえ、1年間休学しているので次年度は「5年生」に進級する予定だった私は、そのため卒論があるわけでもなく、就職準備があるわけでもなく(民間の就活には全落ちしていた)、ただ漫然と講義に出席し続けていた。
私は第4志望の大学に進学するという哀しい記憶をなんとか書き換えるべく、一度メンタルを壊したくせに主専攻外で2つの資格を取ろうとしていた。そのためいつまでも講義が減らず、4年生(実質3年生)になっても文系には珍しく週6で大学に通っていた。壊れたメンタルと経済的な事情で独り暮らしはできず、静岡の山の中から東京の山の中まで毎日往復5~6時間かけて通学していた。
そうまでして取った資格の1つは、出版社全落ちの文学部出の私を卒業ギリギリで救ってくれた。夢見ていた仕事ではなかったが、やってみるとこんなに楽しいのにお金までもらえるのかというくらい幸福で、私はこの資格を大学生活唯一の戦利品だと思っている。

この話は、もうひとつの方、卒業以来約10年なんの役にも立っていない資格(正確には役立てる能力が私にはなかった資格)を取るための講義で起きたことである。

「たぶんね、こんなに居てもね、本当に学芸員になれるのは1人いるかどうかですよ」
4月、50人ほどの学生を前に教授はウンザリした顔でぼやいた。学芸員課程に選抜されてまず最初のオリエンテーション、講義室は桜咲き誇る山の中には相応しくないどんよりとした空気に包まれた。日当たりの悪く薄暗い室内がいっそう影って見えた。
「選抜」とはいえ、この年の希望者は大震災のため選抜試験ができず、本来ならレポートと面接で40人弱まで絞られるはずがレポート提出のみで全員合格ということになった。そのような稀な事情で例年より受講者が多いという背景もあってか、教授はかなり不本意であるという様子を隠すことなく我々を迎えた。
さぁ、今日が私の夢の始まり、とばかりに意気込んでいた私は、そのときこの教室と同じようにこれから先の希望も夕暮れ時のごとく薄闇に沈んでいくのを確かに見た。


学芸員は、高校生の頃突然芽生えた遅咲きの夢だった。
幼い頃から作家になりたかった私は中3の三者面談で「作家になりたいので高校には行きません」と宣言したものの、担任から「作家はちゃんと高校を出て人生経験を積んでからなっても遅くない。働きながらだってなれるのが作家だ」と必死に説得されて高校に進学した。実力より少し上の高校に滑り込んだ私は、初めてのテストで下から数えた方が遥かに早い順位を取り、部室でテスト個票を回覧されてゲラゲラ笑われるという憂き目にあい奮起した。次のテストでは大逆転し部員たちを見返したが、それに止まらず上位者名簿(当時は平気で貼り出されていた)から名を落とすことはできないという私らしい下らない見栄でそのまま学年トップ層をキープし続けた。いわゆる「地頭」が良いわけではない完全努力型&詰め込み型の「秀才」だったので勉強と部活以外に手を出す余裕もなく、作家になるという夢からはどんどん遠退いてしまった。私が分詞構文だの変格活用だのを頭に詰め込んでいる間、世の中には度々10代20代の作家が現れメディアを賑わせた。そんな「なりたかった姿」を横目にどうしても勉強から離れられず、私は文章を書くということに関しても恐らく自分は天才ではないと察した。
そんな折りに出会ったのが、「週刊世界の美術館」だった。もともと絵を描くことが好きでモネの「日傘を差す女」に変質的な憧れを持っていた私は、その雑誌に出会いモネ以外の名だたる巨匠を知り、モネの魅力を再発見し、フェルメールに惹かれ、とにかく美術鑑賞にのめり込んだ。
そんな私を見て叔母が軽率に口にしたのが、「学芸員になれば?叔母さんの会社の人の娘も資格持ってるらしいよ~」という芸能人のゴシップ並みにあやふやで無責任な話だった。ガクゲイインという仕事をそのとき始めて知った私は、「叔母の会社の人の娘も取れる資格なら私も取れるだろう」と謎に失礼な甘い考えと共に学芸員を将来の仕事の選択肢に加えた。
そういうわけで私は「出版社に入って作家になるか学芸員になりたいな~」などと今思えば「アイドルか女子アナになりたいな~」とたいして変わらないくらい身の丈に合わない夢を抱いていた。ちなみに「どっちも無理だったらまぁ最悪教師でも良いか…」とも思っており、凡人の人生とはまぁ、そういうものである。

こんな経緯で楽しみにしていた学芸員課程も、初日から教授の暗澹たるテンションで一気に現実を突きつけられ、最初の一年が終わる頃には「もったいないから資格は取るにしても学芸員になるのはまず無理だろう」と諦めきっていた。
そもそも国文学専攻で学芸員課程に来る学生が稀で、大部分はもっとハコモノと繋がりやすい日本史専攻や世界史専攻の学生だった。一緒に講義を受けてくれていた同じ国文学専攻のKちゃんは一年間の講義が終わると「私ね、学芸員課程やめようと思うの。たぶん学芸員にはならないから」と急にリアリストな一面を顕にして去っていった。
私は一度始めたことを途中で降りられない馬鹿が付く方の(「程の」ではない)真面目な性格のせいで一人学芸員課程を継続することになった。
同専攻でもぼっちなので他専攻ばかりの学芸員課程では最早講義の度に毎回違う学生とペアワークやディスカッションをやってもらい一期一会を楽しむ境地になっていた。

そうして1日のうちに一声も発しないまま帰宅することにも慣れた頃、学芸員課程2年目の冬に、それは起きた。

私は子供の頃から異様に頻尿で、大学生になっても講義の前は必ず用を足すようにしていた。休学前、まだ友達がいた頃は「RONIまたトイレ行くの~?」などと突っ込まれ「一応ね~」という笑顔の裏に殺意を隠していたが、晴れてぼっちになってからはトイレに行き放題、学内にお気に入りのトイレが幾つもあった。それでも90分持たずそっと講義を抜けてトイレに行くことも少なからずあったが、ぼっち生活はその辺りの生理現象には非常に都合がよかった。友達がいたころは尿意の度に「ちょっとお腹が痛くて…」と便意まで捏造しなければならないというストレスを抱えていた。

その日も私は講義の前、軽やかな足取りでトイレに向かった。校舎は二本の渡り廊下を真ん中にハッシュタグのような形をしており、片方の校舎下階に講義室はあるものの大学院生の研究室が主なので人気が少なかった。私は当然この人気のない棟の方のトイレを好んだ。講義室が多い棟のトイレは化粧直しをする学生で毎時間賑わっており、その眩しいざわめきの中を俯きがちに分け入っていくのは流石に辛かった。トイレとは時に教室で一人きりでいるよりも深い孤独を突きつける空間である。
曇天で寒い日だった。2時間半超の通学時間、当然乗り換えのタイミングでもトイレにいってはいたが、ショートパンツにタイツという風通しの良い格好のせいか私の膀胱は大学に着く頃にはもう急を要するむず痒さを訴えていた。それでもやはり近場の学生がたむろするトイレに入る気にはならず、私はほぼ駆け足に近い競歩で遠くにある閑散としたトイレに向かった。私の大学のトイレは男女が廊下の端と端とに分かれて配置されており、さらに階毎に互い違いになるようになっていた。つまり、女子トイレの真上は男子トイレということになる。それぞれの入り口の壁は女子トイレは赤、男子トイレは青に塗られていて間違えようがないデザインになっていた。
私はその真っ赤な帯目掛け、半ば突進するように女子トイレに駆け込んだ。
その時、私が足を踏み入れるのとほぼ同時にトイレからすごい速さで人影が躍り出てきた。私はとっさに身を翻して避けた。そしてすれ違う一瞬のウチに強烈な違和感を抱いた。その人影は、あまりに黒すぎたのだ。そしてその動きも、あまりに大きく粗暴であった。
人間にしては……ということではない。女子にしては、である。
パッと人影が抜けた方向に目をやると、どう見ても男子学生が階段の上に消えるのが見えた。
私は、女子トイレの入り口で、男子学生と、鉢合わせたのである。
間違ったのかな。咄嗟にそう思った。でも、間違える?真っ赤だよ?
私はザラリと嫌な予感がした。黒々とした髪からチラリと覗く白い頬、シャカシャカと音がしそうなマットブラックの上着、階段をかけ上るためにくの字に折れた脚は……グレーだったか……カーキだったか……刹那に思い返した男子学生の姿に、私はこのまま間違いで片付けてはいけない何かを感じた。
とはいえ、ぼっちの私である。もしここで友達がいたら「ね、今ヤバイやつ居た!」などと電話やメールをしたのかもしれないが、私は学生事務に直行した。コレがいったい何課の事件なのかはわからないし、事件なのかさえわからないが私は窓口でとりあえずこちらを向いている人に話しかけた。
「あの、さっき、女子トイレから出てきた男性を見たんですけど……」
あまりない申し出なのだろう。事務員は眉をひそめるとすぐに衝立に区切られたスペースに私を通した。
「間違っただけかもしれないんですけど……」
と前置きをして、私は事務員に聞かれるままそのときの状況と彼の容姿の特徴を話した。
「髪は黒くて、色白で、上着は黒くて……下はちょっと定かじゃないんですが、グレーとかカーキでした」
事務員は一通り聞き取りをすると、「警備の人に伝えますね」と締め括った。

講義まではもう5分もなかった。私は20分前に空にしたばかりの膀胱を念のためもう一度絞ってから教室に向かった。
その日の講義は1コマだけだった。講座の名前は忘れてしまったが、小さな教室で博物館を運営するイロハを教えるような、そんな講義だったと思う。学芸員の夢が消えかけた私にはトラックで巨大な壺を搬入する手筈などはどうしても退屈で、後ろの方の席に陣取って無意識に(時に意識的に)うたた寝をしてしまう、そんな講義だった。
チャコールグレーの鉄扉を開くとまだ教室は疎らだった。しめしめと真ん中より少し後ろの席に鞄を下ろす。受講者が少ないので一番後ろに座ってしまうと返って目立つため、人数も考慮して真ん中より少し後ろがベストポジションだった。サラッとした白いプラスチック製の机と、ザラリとした黒いパイプイスは如何にも身体を冷やしそうで、教授が来るまで私は縮こまりながら文庫本を開いた。
すると、通路を挟んで隣の机にバサッと人が座ったのが視界の端を過った。通路といっても50cmもなく、隣の席との間は1mもなかった。まだ割りと空いてるとこいっぱいあるのにな?……少し不思議に思い、自然に隣に視線を移した。
息が、止まった。
この人だ────
あの時、階段をかけ上がっていった白い頬は、この人のものだ……!
一瞬しか見てないはずなのに少しの迷いもなく私は確信した。
向こうは?私だって覚えてる?席を移る?でもそんなことしたらあからさますぎる。あの時会ったのが私だって確信を与えてしまう。間違っただけならこんなに警戒するのも失礼だし……
愚図愚図考えているうちに教授が現れ、パワーポイントのために照明が落とされた。

眩しく発光するスクリーンに視線を向けながら、その内容は全く頭に入ってこなかった。いつまでも胸騒ぎが止まらない。薄暗いせいか余計に背筋に寒さを感じた。いつもならもう身体が火照って行ったり来たりする意識に心地よく揺られているときなのに、暖房が点いているにも関わらず身体はいつまでも暖まることはなく睡魔も訪れてくれなかった。太ももの下に手を差し入れ温めながら時が過ぎるのを待つ。次第に私は己の身体の異変に気づいた。
お腹が……痛い……
寒さなのか、緊張なのか、恐れなのか、捏造ではなく本物の便意が私を襲った。私はその訪れをむしろ歓迎した。よかった。席を立つ大義名分が出来た。小さな教室では学生の動きが丸わかりなので中座するのは勇気がいる。でも何故だろう。尿意と違って便意なら許されるような気がするのである。
私はルーズリーフや筆記具はそのままに貴重品が入った鞄だけ持って部屋を後にした。
ガチャン…と思ったより高い音を立てる扉に教授への申し訳なさを感じつつ私は一番近いトイレに向かった。トイレへは教室の前方に向かって歩かなければならなかったので私はこちらに身体を向けて講義する教授と目を合わせないよう逃げるように去った。

当然だがトイレは無人だった。私はウォシュレット付きの洋式便器の個室に滑るように入った。思い鞄を扉のフックにかけると、隙間の広い扉はカタカタと揺れた。
何はともあれトイレに着いた。つかの間だが彼と離れ一人になったことで私の心拍は落ち着いた。
腹痛を解消するに辺り、私は本当に悪癖ではあるが便座に座りケータイを手にした。当時はガラケーだったので、誰もいない風ひとつないトイレに私がケータイを開く音が妙に響いた気がした。

もう波は来ないだろう…。私は腹痛が解決したのを感じ、左足を便座の縁まで高く掲げた。これも悪癖なのだが、当時の私はそうしないとトイレットペーパーの狙いが定められなかった。
片足が上がったことで私の身体はドアに向かって少し傾いた。
その時、何故か、本当に自然に、何か音がしたわけでもないのに、私の視線はドアの隙間に走った。

「……!!」

やられた。咄嗟に思った。
隙間の向こうに、色白の肌に縁取られた闇のように黒い瞳がギョロギョロとこちらを覗いているのが見える。
え、あの人────
ほんの5㎜もない隙間なのに、全てが見えるような気がした。向こうもまた全てを見ようとしているのか、両の黒目を盛んに動かしながら頭を上下させているようだった。
あろうことか私は片足をあげる悪癖のせいで開いてはいけないものを開いてはいけない方向に完全に開いていた。
しかし不思議なことに、見ないで、とも、見られたら嫌だ、とも思わなかった。ただただひたすらに、彼に会ってはいけない、ということだけが頭の中に電光掲示板のごとく煌々としていた。
私は極めて平静を装い、急に隠したりすることもなく悠々と処理を済ませ服を直した。そして祈るような気持ちで水洗レバーを押した。ゆっくりと、できるだけ水音が高く大きくなるように───お願い。聞いて。もう出るから。出ていって……!!
水が勢いを失うまで私は息を殺した。彼が逃げる時間を十二分に確保した。
ドアの隙間はいつものように真っ白い光が漏れているだけになったようだった。私は何があってもまた扉をバタンと閉められるよう、ゆっくりと、少しずつ、ドアを開いた。
そこにはもう、無人の手洗い場があるばかりだった。人感センサーで点く鏡の照明が、寒気がするほど眩しかった。


講義室に恐る恐る戻ると、なんと隣の席は空席だった。「逃げられた!」と思うと同時に、「助かった!」と安堵した。
講義が終わると、私は教授の元へ行きできるだけ小声で先程起きた恐怖体験の一部始終を話した。私が「ほんとにその人かはわからないんですけど……」と遠慮がちに付け加えると、教授は唖然とした表情のまま、「確かに貴女が出ていった後、彼も同じ方向に行ったんだよ……」と力なく呟いた。


事務に事情を話すと、それなりの立場がある人が私の帰路に付き添った。乗り換えの駅がある寂れた町の喫茶店まで母を呼び寄せると、事務の方は平謝りを重ねた。
だが、学校としても警察としても、何も証拠がない以上犯人を停学にしたり退学にしたり、ましてや逮捕したりすることはできないということだった。
その後、彼が教室で何食わぬ顔をして女子学生と楽しそうに話すのを見る度、私はあの時下半身を露出しながらでも直ぐ様扉を開けて手にしていたケータイで彼の姿を撮るべきだったのだろうかとぼんやり考えた。


とはいえ、学校側が何もしてくれなかったわけではない。
その後も学芸員課程は続いたが、残りの半年は母に謝罪しに来てくれた事務のおじさんが途中の駅まで私を送り届けることになった。一緒に帰るほど親しい友達がいないこと、彼氏はいるがもう卒業間近であることを伝えると、おじさんは「それなら私が」と護衛役を買って出てくれたのである。私は学生たちが仲睦まじく笑い合う電車内で、おじさんと二人穏やかに世間話をしながら過ごすことになった。
また、学校の目が届かない課外授業は免除という名の出席停止になり、変わりに私一人だけ補講が設定されることになった。23歳の誕生日、私は院生が談笑するのを横目に狭い研究室でたった一人で土器の破片を洗い続ける羽目になった。1時間ほど土器をパシャパシャ水洗いすると、それが半日ほどの課外授業の代わりになった。
そして5㎜ほどの隙間が空いた学内の女子トイレの全ての個室には、頼りない木の板が打ち付けられ、どう頑張っても覗くことができないように改善されていた。使用感のあるドアに対して、取り付けられたばかりの新しい木はどこかわざとらしく輝いて見えた。


これが、私の「本当に遭った怖い話」である。
だがこの恐怖には続きがある。
事件を耳にした国文学のゼミの教授が、「貴女の心が心配だから話を聞かせて」と面談の席を設けてくれた。
教授は近代のとある女流作家を専門に研究する、とてつもなく品のあるマダムであった。品はあるが気取ったところはなく、ゼミ生を母親のような眼差しで可愛がってくれた。
教授の研究室に行くと、彼女は慈愛と同情に満ちた瞳で「大変だったわねぇ…」と私を迎えた。
私は事件の顛末と、事務の方が如何に良くしてくれるかと、今後の学芸員課程をどのように受けることになったかをライヴ感たっぷりに話し、最後に「でもまぁ、あんまり気にしてません」と付け加えた。
当時の私は就活全落ちのストレスで過食に走り、ルノワールが描く裸婦のように肥えていた。だから見られてショックというよりは、何故こんな体型をわざわざリスクを冒して──そして罪を犯して見に来たのか純粋に疑問の方が勝ったのである。
教授は私が予想以上に落ち着いていることに目を丸くしつつも胸を撫で下ろしたように見えた。
そして軽く息を吐くと、
「あなたも服装がフェミニンだからねぇ…」
と顔をしかめた。
「えぇ?はぁ、そうなんですかねぇ」
愛想笑いしつつも声はひっくり返る寸前だった。
私は先述した通り今ほどではないが当時もなかなかにガタイが良かったため、体型を隠してくれるエスニックファッションやどこまでも伸びてくれるニットを好んで着ていた。つまり私が思うフェミニンではなかったし、男性を煽るようなものでもなかった。
いや、それ以前に、平成も20年半ばになったこの時代にまだ、被害に遭う女性にも非があるという発想が生きていること、そして被害者当人にそれを言えてしまう程に平然と当たり前に根を張っていることが恐怖だった。
誤解のないように言うが、私はゼミ教授が大好きだったし今も温かな人として記憶している。卒業式に2人で撮った写真を今でも微笑ましく見返すほどには教授を好いている。
素敵な人だった。優しい人だった。
出版社に全落ちした私がなんとか今の仕事に滑り込んだことを伝えると、「よかったわねぇ」と涙ぐんでくれた。
そんな聖母のような人にも、「やられる方にも問題がある」という価値観が潜んでいる。
それは、あの漆黒の瞳とわずか5㎜の隙間で目が合ったあの瞬間よりも、私にいつまでも長く、色褪せない恐ろしさを感じさせるのだった。












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