見出し画像

弱音ばかりの回顧録(後編)


こんにちは。

ロンです!!


昨日の回顧録の後編を書いていこうと思います。今日も是非最後までお付き合い下さい。


給食を食べなかった小学生時代。


昨日のnoteでは、子供の頃の好き嫌いが病弱の原因と書いたのですが、もちろんそれは間違いではないのですが、さらにそれに追い打ちをかけたのが小学校時代のお弁当です。

お弁当を残して家に帰ると叱られたので、野良犬にあげていたという話は書きましたが、残してばかりいたから(食べなかったから)というだけではありませんでした。

好き嫌いを直せなかった私立学校のお弁当。


僕が通った小学校は、徒歩で五分の場所にありました。以前にも書いたかもしれませんが、市立の学区内小学校は30分以上歩いて通う必要がある場所でした。
それに比べると目と鼻の先にある私立の小学校は通うにも安全だという事で、両親はわざわざ学費の高い私立学校に僕を通わせることにしたのです。
もちろん父の収入がそれなりにあった(経済的にもまあまあ裕福だった)という事もあったと思います。
ただ、その小学校には給食がありませんでした。全員お弁当持参が原則でした。一部、購買部で菓子パンや調理パンなどは販売していましたが、お弁当の代わりになるような品揃えではなかったんです。そんなわけで僕は小学校6年間をお弁当を食べて過ごすことになりました。


食べられるオカズしか入れなかった母。


昨日書いた野良犬に手を噛まれた事件があって以来、母は捨てるくらいなら残してもいい、と言い出しました。ただ、それだと本当に食べずに残してきてしまう為、母は次第に僕の好きなオカズだけをお弁当に入れるようになったのです。
そうなると、玉子焼き、ウインナー、白米、そしてデザートにイチゴやオレンジ、りんごなど。好きなメニューばかりが毎日続くので、それなりに食べられるようになり、残さずに済むようになりました。ただ、それでは栄養バランスはめちゃくちゃです。野菜も無し、魚やお肉も無し。しかも水筒には麦茶ではなく特別なお茶(母の故郷の博多でしか購入できなかったお茶だけは飲めたので)でした。


中学時代、高校時代と同じようなオカズが。

本来ならお弁当って彩りが必要だと思うんですよね。彩りってつまりはいろんな旬の食材を使って作られるという事じゃないですか。
日本は四季折々の食べ物がとでも豊富な国なので、その旬な食材を使った料理を食べる事が普段の健康につながると言われています。

結婚して女房のお母さん(つまり義母)と同居するようになって、好き嫌いを無くしてくれるようにいろんなものを作って食べさせてもらいました。これがめっちゃ美味しいものばかりで、お陰様で今では食べられないものがほとんどないくらいまで好き嫌いがない人間に成長しました笑。義母には本当に感謝しています。

そういう理想的な食生活とは程遠いお弁当のオカズ。それは中学、高校と続きました。中学1年の終わり頃に両親が別居したため、そこからは母一人で働きながら兄と僕を育ててくれました。そんな時間も経済的にもギリギリの生活の中で、お弁当の中身をアレコレ考える心のゆとりなど無かったのは無理もないと思います。


若年性血小板減少性紫斑病(ITC)の発症。


当時の僕の食生活は、とにかくまともじゃなかった。それはお弁当の中身に留まらないのは言うまでもないことで、とにかく常に好きなものしか食べない(重度の偏食)。食べる量も少ない。食べる時間もバラバラ。今思えば恐ろしいとしか表現出来ない状態でした。

当然ながら中学時代も、高校時代も風邪、怪我が付き纏いました。
中でも一番大きな病気は高校2年の2学期に罹った「若年性血小板減少性紫斑病」という病です。大きく分類すると「紫斑病」と言われますが、これは血液中の血小板が激減し、極端に免疫力が低下する為、無菌室レベルの部屋で過ごさなければすぐに細菌やウイルスに感染してしまうという厄介な病気です。原因も特定されておらず難病指定されていました。
症状は白血病に限りなく酷似していて、身体の柔らかい部分の皮膚に出血疹(皮下の毛細血管が直ぐに破れて出来る紫斑)が現れ、高熱が続きます。大学病院の主治医は、初見で白血病ではないか?とかなり疑ったと言っていました。直ぐに骨髄検査の為に髄液を採り検査をしてもらいました。結果は良性。少し乱暴な言い方になりますが、良性の白血病という感じです。
ステロイド(副腎皮質ホルモン)を投与して、およそ半年程度で寛解しました。それでも入院中は途中で何度も輸血したり、血中の電解質不足に陥り点滴を繰り返しました。

一度は寛解したものの、また半年後に再発。

その頃、僕は大学受験の真っ只中でした。特に熱心に受験勉強をしていたわけでも無かったので、現役で大学に合格できる気はほとんどしていなかったのですが、試験会場で倒れ、救急車で病院へ運ばれて、一年前にお世話になった大学病院へ直ぐに転院して、また入院生活に逆戻りしました。再発時は更にリンパ腫も併発してしまいました。こちらも運良く腫瘍を摘出して病理検査の結果良性腫瘍でした。
ただし、それが身体中のリンパ節に出来てしまっていたので、高熱が続き一時は体重が45kgまで落ち込み、見た目はガリガリの骨皮筋右衛門でした。

その頃からでしょうか。
もう自分は長く生きられないんじゃないか?
もし生きていられても病気や怪我ばかりで、「ツライ」「苦しい」「痛い」というような弱音ばかりを吐く人生になるのではないか。


人生は弱音を吐けばその言葉の通りになっていく。


毎日毎日、そんな後ろ向きな言葉、弱音ばかりを発していると、いつしか人は本当にそういう暗い人生を進んで行くことになる。

そう教えて下さったのは担当してくれた主治医の先生でした。

健康な生活をしたかったら、健康な言葉を使おう!

そんな言葉に最初は何を言われているのかわかりませんでした。言葉でいくら言ったって、元気になるわけがない。怪我だってする。訳のわからないことを言う先生だな?と本気で思っていました。

人生ノートを見せてくれたのがキッカケで。

先生はある時、病棟の回診の際に、僕に自分が書いているノートを見せてくれました。
それは前向きな言葉ばかりがビッシリ書かれた人生ノートでした。
今でも忘れないのは
「禍福は糾える縄の如し」という言葉でした。
「人生は不幸と幸せが交互に来る」ことを例えた言葉です。
気がつくと僕は病室で何度も何度もそんな話を先生とやりとりするようになっていました。


本当に弱音ばかり吐いて下を向いていた。


その頃までの僕は、食べ物の好き嫌いだけでなく、生き方にまで好き嫌いが出てしまっていたと思います。毎日毎日弱音ばかり吐いて下を向いて暮らしていました。それを変えてくれたのはあの人生ノートでした。先生が見せてくれたノートの中に書いてある言葉と、それを熱心に説明してくれた先生のおかげで、僕は病院で出る食事も毎日全部食べるようになっていました。
一日に30品目の食材を少しずつでもいいので食べるように心掛けて!
先生と一緒に僕を担当してくれた栄養士さんの提案でした。30品目、それはそれは大変な事だった。あらゆる食材を好き嫌いなく食べなければならないからです。それでも先生からもらったあの言葉達を毎日繰り返し頭の中で唱えて、目をつぶって嫌いなものを必死に食べました。


症状が劇的に変化し始める!!

そんな入院生活も2ヶ月が経った頃、ある変化が僕の身体に起き始めました。
毎朝熱が上がっていたのに、パタッと熱が出なくなったのです。
血液検査も結果はみるみる良い方向に向かって行きました。骨髄検査もクリアしました。
偏食を完全に克服出来たわけではなかったけれど、それでも食べ続ける努力をするようになっていた僕は体重も元に戻り、ようやく退院を迎え日常生活を取り戻したのです。僕の命の恩人である主治医の先生は、退院の時は海外に研修に行っていたので不在でした。一番お礼を言いたかった相手が居なくてがっかりしている僕を見て、栄養士さんが声をかけてくれました。
「あなたの気持ちは先生にしっかり伝えます。半年すれば帰国されるから、またその時に外来でお礼を伝えたらどう?」
そうです。これからも定期的な検査が必要な為、通院は避けられませんでした。もう二度と再発させない。そう誓って退院しました。


結果的にここまで弱音を吐く人生になってしまった。


その後、健康を取り戻し大学に進学した僕は、先生の言葉をすっかり忘れて、また元通りの食生活に戻っていました。
大きな病気こそしませんでしたが、社会人になっても肝心なところで風邪で休んだり、怪我したりが続いていました。
長年に渡る食生活の習慣はなかなか簡単には直せないものです。そして、あのノートの言葉達のことももう過去のものになっていました。


原因不明の高熱が1週間以上続いて入院したり、喉のポリープ手術、数ヶ月に渡る慢性胃腸炎、うつ病、そして昨年からの適応障害と、これでもかというほど入院、手術や闘病を繰り返しました。


心を壊してようやく掴んだもの。


結局、僕の人生はずっと弱音を吐く人生に終始していました。
ITCを2年連続で患った時に得た教訓は全く活かされずに現在に至ります。
ただ、精神疾患を通じて確かに掴んだものがあります。
それは自分の人生は自分の気持ちや言葉次第であるという、正にあの先生の教えに他なりませんでした。マイナスな思考や言語はマイナスの人生の物語しか生みません。
もちろん、うつ病を患っていた当時にはそんな気持ちには全くなれませんでした。
僕の人生は転んでばかりでした。ただそれは自分の足でしっかりと道を選び歩いていなかった結果だったのです。


大事なことはいつでも「君が君であること」


これはオカダユータさんという神戸出身のシンガーソングライターの「君をさがしに」という歌の一節です。

この歌が僕の人生観を完全に変える事になります。オカダユータさんとの出会いは、また別の機会でゆっくり触れたいと思いますが、彼のこの歌を聴いてから、僕はあの病室での日々や、父に捨てられ苦しかった日々、母を見送った日のこと、そして人生を辞めようとしていたツライ日々のこと、そんな弱音人生の全てにピリオドを打つ事が出来るのではないか!?という希望を持って歩き出す事ができるようになったのです。

挫けそうな夜に こんなに胸が痛むのは
それでも信じているから 明日を信じているから

もう一度君を探しに行こう
本当の君を迎えに行こう


そう語りかけてくれるこの歌があったから、今の自分がいられます。

生きていくことは簡単じゃない。
弱音を吐いてもいい。
人生はレースじゃない。
少し休んだっていい。
また前を向いて歩き出せばいい。
そんな事を教えてくれました。
あの人生ノートの言葉を思い出させてくれました。

「禍福は糾える縄の如し」

もう僕はこの言葉を決して忘れることはないでしょう。


二日間に渡り、長文にお付き合いくださいまして、誠にありがとうございました😊

それではまた👋👋👋





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?