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川を見てから

朝、パートに行く前に、父の一番下の妹叔母に病院で待機して貰い、父を病院へ送りました。いつも通り、あまり会話がないまま、、、です。
車椅子介助に慣れていない叔母が、父を介助し、車椅子とともに病院の中へと消えていきました。

なんとも言えない心持ちでしたが、私は次のことを考えねばなりません。
「入院になるだろう。確実に。」と思いましたので、昼休みに入院セットを届ける事を考えていました。もう大きな紙袋にほとんどセットしてありますので大丈夫。いろんな事はありましたが、公の事業所でのパートヘルパーは前の月に家庭の状況や都合を伝えておくと、仕事時間を調整してくれますので、収入が少ないとはいえ、家族の用をこなしながら働くにはありがたいものでした。もう16年ほど前のことになります。

父が入院した翌日かその翌日に、担当のお医者様から説明がありました。
長い説明の中に「心筋梗塞になった跡がある。」血糖値はだいぶ下がっているが、糖尿の気があり心臓の働きが弱っている等の説明がありました。
そして、入院何日目かの朝4時頃に、担当の看護師さんから電話が入りました。「今、来てほしい。」とのことでした。私は、眠くて目の開かない息子に確認し「家の鍵を締めていくから絶対に開けないでね!」と伝え、病院へ向いました。呼吸が大変になってきた父に、人工呼吸器を取り付けていいかの家族確認でした。父にも確認すると「そのようにする。」とのこと。直ぐに機材が運ばれてきました。

2日に1度は様子を見に行っていましたが、もう話すことはありませんでした。かすかな音とともに、人工呼吸器の一面には心拍数が表示になっています。自宅の鉢植えのオレガノネオンライトがピンクの小さな花を沢山咲かせた日、ポットに入れたコーヒーとともに病室に花を持参しました。

ベットサイドのテーブルに花を飾り、ポットから湯のみ茶碗にコーヒーを注ぎ花の隣に置きました。
機械とともにある殺風景な病室に、私なら何か柔らかな気を漂わせたい!と思いましたので、、、

ふと見ると、心拍数が上がりだしていました。
確か数字は20台から90くらいに上がったと思います。
毎日飲んでいたコーヒーの香りに、意識が目覚めたのでしょう。目も開けず、会話することもありませんでしたが、これが最後の、目に見えない交流となりました。

その日の夕方だったか翌日に、父は亡くなりました。処置の際には、先生と看護師さんから、それぞれに優しい心遣いの言葉があり、私と息子はカーテンの外にいました。喪主を遠くに住んでいる長男である弟夫婦にするにしても、直ぐに考えねばならないことがあります。初めてのお葬式で、親戚にお金を払ってお願いする部分にしても、仕切っている叔母との話し合いもあります。家族がなくなると、悲しみや疲れは一旦横に置き、現実的なことを考えねばなりませんでした。
ちゃんとした感謝の言葉も伝えられないままに、毎日が過ぎていきました。病院で担当してくださった方々には、心のなかで感謝するばかりです。

父が亡くなって2日めの朝、夢を見ました。
父は、いつもの夏用のサラサラした生地のすててこを履き、洗面所で入れ歯を洗っていました。こちらを見て、すごくニコニコ笑っています。洗面所は明るい日差しでいっぱいでした。

はっと思い、起床した私は、号泣していました。なんでこんなに涙が出るのか?思いも寄らない涙が次々に溢れてきます。意固地な親子。冷たい娘の私でもどうにか看取れたのです。

そういえば、子供の頃、子犬をもらってきてくれたっけ。ありがとう。
とても嬉しかった。弟がいることも、弟と一緒に可愛がれることも楽しかった。
魚釣りが好きで、毎日、川を見に行っていた父は、近くの川を見てから往ったのかもしれません。
「橋の下には鯉が沢山いる。」と、よく話していたけれど、今でも、橋を歩きながら下の川面を見ると、沢山の鯉が家族仲良く泳いでいますもの。
(写真は北上川の鯉たちです)


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