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note創作大賞 恋愛部門応募作。『50代からの生き方や恋愛についてのあれこれ』その1。子育てが終わってからも後30年も40年も生きる、その時間は何のための時間?

子育てが終わってからも生きる。それって何のための時間?

 人間が長生きするようになった。
 しかし、人類そのものが身体的に、あるいは脳が、あるいは精神的に進化したわけではない。
 進化したのは、医学や科学や栄養学や衛生学であり、それらを支え進歩させることが出来る豊かさを実現した経済の力である。それらの進化によって人類は、種の保存という生命の最大の目的を果たした後も何十年も生きる長寿を実現した。
 それによって社会は大きく変化した。
 しかし、人間自身は何も変わっていない。
 長生きしてできた時間をどう生きればいいのか。高齢者ばかりになった社会がどうあるべきなのか。その答えは全く出ていない。高齢者ばかりになった社会が、社会保障、経済、安全保障など成立するものか。それすらわからない。おろおろしているのが現状である。今、そういう社会に何の準備もないまま足を踏み込んでしまっている。
 人間自身が進化したわけでないので、人間自身、その長寿というものを持て余している。平均寿命は男女ともに八十歳を超え、女性は九十歳間近まで伸びている。すでに人生百年時代という声も聞く。僕も五十歳になった。しかし、五十歳を超えても三十年も五十年も生きるわけだ。人生ひょっとしたらまだ半分かもしれない。 
 子孫を残す種の保存は全ての生命共通の目的であり、それは人類も同様である。人間は人間以外の生命が生きる食物連鎖とは全く違う文明社会を作りその社会の中で生きるようになり、他の生命とは違う社会的な生き物になったかもしれないけれど、根本的なところでは他の生命種と違わない。
 産まれ、生き、食べ、排出し、性の営みを行い、次の生命へと命を繋ぎ、種の保存を終え、自分の人生も終わる。それが生涯というものだったはずである。
 しかし、現代の人間は、種の保存を終えた後も生きる。
 その時間はなんのための時間なのだろうか。
 現役世代は長生きになった高齢者を支えなければならず、高額な社会保障費を毎月支払い、生活するのにやっとの有様で無駄に使えるお金はない。それでも景気は悪くなる一方で、国は借金を増やし社会保障費を賄っている。個人も家庭も国も長寿化し高齢者が増え続けるこの社会をどうすればいいのかわからずにいる。
 
 

長寿化して得た時間は、なんのための時間なのか

 長寿化した生まれた時間。
 その時間は何のための時間なのか。
 自分で答えを見つけなくてはいけないのだろうか。
 これらの問題は哲学的な問題なのか、宗教が答えを出すべきものなのか。
 僕も五十代になり、子育てが終わった。今までは、たくさん残業をしてお金を稼ぐ。それは子供のため、妻のためだった。しかし、昨年一人娘が就職した。大学進学の際に家を出て、そのまま就職したので寂しさはないが、もう、大学費用と仕送りはしなくていい。今まで残業をしていた時間は、これからは何のための時間になるのだろう。
 娘を巣立たせ、種の保存という生命の最大の役割を果たし、一つの生命種としての役割を終えた。
 これから自分という存在はいったい何の役割を持ち存在していくのだろうか。
 子供が就職が決まったと聞いた時は嬉しかった。でも、それと同時に、どうしようもない寂寥感に襲われた。子育てを終えたという安堵の気持ちもあったが、子供のため家族のために働くという自分が拠って立つ根拠や立ち位置をなくし働くことに意義を見失い、何のために生きているのかもわからなくなった。
 しかし、これからも平均寿命を考えると後三十年は生きないといけない。やるべきことがわからないまま、生きがいも何もなく後三十年も生きなきゃいけない。
 これからは身体も心も頭も衰えて行く。自分が衰えていくのを眺めながら三十年を生きる。考えてみれば、これはそうとう残酷な時間ではないだろうか。 
 これからの三十年を生きる意味がわからなかった。仕事から充実感がなくなり、仕事終わりに仲間と飲みに出かけても、家で嫁とテレビを見て笑っていても、虚しさしかなかった。
 同じ境遇にある五十代のみんなは何を楽しみに生きているのだろう。何をするにしても退屈で虚しさしかない時間をどう凌いでいるのだろう。
 そして、後三十年もすれば確実に死は訪れる。
 五十代のこれからの三十年を言葉にすれば死。ただただ死に向かって時間が進んでいく。衰えながら、今まで出来ていたことができなくなっていく。老骨に鞭打って生きていく。
 前向きに生きるって、どういうことなのだろう。
 二十代、三十代の前向きは夢の実現に向けて努力したり、会社で出世したり、部下が出来たり、結婚したり、子供が出来たりやることがあり、その実現に努力をしなくてはいけない。前を向いて頑張る時間だ。しかし、五十代にとって目の前には生とは逆の死があるのに、どう前を向けばいいのだろう。
 死に向かって進む時間が長くなれば、その長くなった分、生きる為に生活をしなければならない。生活する為には、働き、お金を稼ぎ、食べなければならない。しかし、働き、お金を稼ぐ為の体力も頭も衰えてくる。楽しみよりも苦労が増え、希望はなくなり、虚しさだけが増えてくる。
 長寿を求め、科学と医学が進歩し実現した結果、そこに何の幸福もなければそれは、喜劇でしかない。
 これが今の社会であり、五十代以降の時間を生きる人の現実ではないだろうか。
 
 なんのために生きるのだろう。
 これは小説である。小説は作り話である。この小説の中に三つの五十代の恋愛を描く。その三つの恋愛を通して答えのない五十代の生き方を考えてほしいと思っている。


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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