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佐藤寿保「眼球の夢」

2022年2月新宿ケイズシネマで、佐藤寿保「眼球の夢」 脚本は夢野史郎。

生き別れた眼球を探す強迫神経症の写真家(万里紗)を被写体として追い続ける映画監督(中野剛)の本職は脳神経外科医。万里紗は眼球の撮影にすっかりハマってしまい、眼球コレクター(PANTA)に凌辱される悪夢にうなされつつも、自らの幼き日のトラウマに向き合い、やがて眼球ハンターになって中野監督の両目に襲いかかった。とことん眼球愛に溢れた狂気の怪作。

これは映画の感想っていうよりも、寿保監督が観客に向かって提示する「眼球の夢って映画のことだよ。即ち、幻影肢っていう病気?は映画そのものなんじゃなんだろうかねえ」という、大胆な仮説的テーゼの考察。でも、理屈としてはそんな難しいことじゃないよ。自分が今観ている映画って、既に脳内で変換された別の物だっていうことなんです。

本作は全編通してデカダンの雰囲気に充ち満ちていて、反道徳的、背徳的な欲望に支配された男女が破滅に至るまでの道のりを、ピンク映画というジャンルから解放されることによって、よりメタフィジカルに脳内の幻視世界に没入することで観客を異世界に連れて行く、私が大好きな寿保作品のリミッターを超えてしまった作品。

寿保作品に私が魅力を感じるのは、人なら誰しも心の奥底に隠し持つ強烈な破壊衝動。バイオレンスとスプラッターであり、メンタルを病むようなサイコパス要素は全て精神だけでなく肉体の破壊、損傷によって不幸せな解決を遂げる。それが夢野史郎脚本の持つ醍醐味と思う。

本作はピンク映画じゃなくていい、ということなので(笑)徹底的に心理戦に入って行きます。いや、濡れ場もきちんと用意されてるんだけど、性欲を刺激するような煽情的な描き方はしなくて良いから、夢野脚本のストロングポイントの一つ、江戸川乱歩的な優れたトリック、サスペンスの応酬、驚くべき物への偏執的な執着の果てに、謎解きに入って行く。

きちんと辻褄はあっているはずなのに、何だかヘン、というのは「浮気妻 恥辱責め」でも寿保&夢野コンビでスクリーンを見つめているとグルングルン眩暈がするような「見ること」「見られること」に病的にこだわり精神を病んでいくプロセスと言う点では非常に似ている。というか、姉妹作品と言ってもよいと思う。

そもそも「浮気妻 恥辱責め」は改めてミニシアターで観ると「こんな作品、成人映画館での上映は絶対にNGだろうなあ」という印象を持っていた。私は寿保監督の大ファンだから、どんな作品でも成人館で観てみたいし、ピンク四天王の中でもエロ成分は圧倒的に多いから、問題ないと基本的には思ってる。

でも「眼球」「幻視」「幻覚」この辺りの題材を扱った時の寿保監督のこだわり方は凄まじい。商業映画監督としての「ここまでなら撮ってOK」のギリギリまでリスクを取っても、これだけは撮っておきたいという異常なこだわりを強く感じ、本作には映画監督が登場するが、その映画監督を撮っている寿保監督(笑)

寿保監督はにっかつロマンポルノとして公開された「ロリータバイブ責め」で、鬼畜カメラマンの伊藤猛が女性をコンテナに監禁し毒を飲ませ死ぬ寸前の悶え狂う姿を写真に撮り、コンテナの壁一杯に展示するという狂気の場面があった。泡を吹いて死に行く女性の官能を撮り続けた伊藤猛は逮捕され、助手の伊藤清美がその後を引き継ぐエンドレス。

「観る」者がいれば当然ながら「観られる」者もいる。その関係性は際限なく続いていき、そこに脳がリアルに網膜に映った事実を変換する何かがあれば、映画には「END」なんてありえなくて、観る者が「終わり」と思わない限り、永遠に物語は続く。映画を観るとはそういうことだ、という事実。

映画というのは「観る」「観られる」対象物と被対象物の関係性から成り立つのは当然の事だが、普段我々はそんなことを意識して観ない。なぜなら、そのことを感じ始めたら、精神を病み始めているからだ(笑)「観る」ことへの強いこだわりは、映像を映す眼球へのこだわりに昇華してしまう。

眼球は人間の身体の中でスクリーンに当たる器官という意味では「映画」そのもの。目に映っている物理的な真実はそのまま脳内に消化されるのではなく、脳神経の働きで自分の都合の良いように加工され、実際に眼球に映った事実とは既に違うものに変わっているはずだ。

ヒロインの写真家万里紗はそれを「生き別れた眼球」と呼ぶ。アトリエに人間の眼球を接写した巨大写真を何枚も並べ、その中に自らを沈めて「眼球の快楽」に浸る彼女が追い求めるのは、失ってしまったため二度と戻らない、幻肢(=幻影肢)存在しない自らの四肢に神経が通っているように感じる錯覚。

例えば戦争で手や足を失った元兵士が、あたかも自分の手や足に神経が通っていて、そこに感覚を感じるのが幻影肢ならば、網膜に映った映像の記憶をたどることが出来ないのではなく、網膜を失ってもそこに映った映像をあたかも今見ているように感じられる病気もあるのではないか?

そうです、幻影肢とは、カテゴライズすれば心の病と言ってしまえばそれまでなのですが、ここからとんでもない、凄い芸術が生まれるのかもしれない。意識下で本当に起こった出来事のように感じたことを、フィクションとして描くのが映画なら、幻影肢には無限の可能性が拡がっているのかもしれない。

万里紗が眼球に異常にこだわる強迫神経症患者であることに目をつけた中野医師。彼は本業である映画監督として、なんとか万里紗の本当は存在しない眼球に映った映像を拾いたい、中野監督は万里紗を執拗に追いかけてカメラを回す。万里紗は撮ることと同時に、撮られることの快感にも酔い始め、やがて板挟みに遭う。

万里紗は、中世のデカダン風美少女(桜木梨奈)と同棲している。梨奈は万里紗のことを良き理解者として受け入れようとするレズビアン。百合の花を咲かせている時も、梨奈の眼球を舌で舐め取るように愛撫する万里紗は、梨奈本人ではなく彼女の眼球に恋をしていた。

万里紗は何度も悪夢に苛まれる。サングラスをかけた謎の眼球コレクター(PANTA)が彼女の寝込みを襲い、サングラスで眼球を防御したまま、レイプする「お前が観ている者、それはお前だ」コレクターが彼女の眼球を器具でえぐり取ろうとする恐怖、その苦痛と快感に身体を硬直させた瞬間、彼女は目覚め、その続きを見たいと思う。

万里紗は、眼球コレクターが部屋に、ホルマリン漬けの眼球コレクションしている姿に陶酔。彼女は眼球を漬けたビーカーを勝手に持ち出すと、それをアソコに突っ込んでオナニー。彼女にとって眼球とは、自分の性感を高めるもう一つの私の目。この目が何を見ているのか、私はもっと知りたい。

彼女は梨奈の男友達(小林竜樹)に誘われ、深い森の中へとやって来る。そこには、あの世とこの世の境界線で番をするセンチネルこと佐川一政が彼女のことをじっと見つめていた。そして、彼女は気が付くのだ。眼球と一言で括れるもんじゃない。あの皺皺の細長い目って、一体なんなの?ああ、コレクトしたい!

万里紗は少しでも多く眼球の写真コレクションを集めようと、街に出て暴れ出し、ドクターストップがかかってしまう。ここで中野医師は気づいた「彼女、幼い頃に何かとんでもないトラウマに出会ってしまったんじゃないのか?」それは彼女が6歳の頃、新聞の社会面にまで載った有名な事件。

彼女は幼女の頃、見知らぬおじさんに誘拐されイタズラされた。そのまま車のトランクに閉じ込められ拉致監禁された。でも、トランクの中にドライバーがあって、彼女はおじさんの目を夢中でえぐりとり、眼の中に記憶された忌まわしい事実を葬り去った、つもりであった。

でも彼女の眼球には、次々と様々は形で悪夢が現れる。彼女は自分の目が二つでは無くて実は三つあって、一つ無くなってしまい、そこで見た映像が脳内に浮かんできては自分を苦しめる、そんな被害妄想に苛まれ、やがて眼球写真家だった自分は、次のステップに踏み出さなければならないという強迫観念にとらわれた。

そんな万里紗のスキをついて、人気のない路地で襲い掛かる眼球ハンターのPANTA。GPS機能を駆使して現場に訪れた梨奈は、万里紗を助け出そうとして、眼球摘出の鋭利な機器で胸をグサリと刺されて絶命した。その瞬間、PANTAへ永遠に万里紗の目の前から消えて、万里紗はPANTAの生き写しに代わった。

ビルの影で人目を忍んでセックスする男女二人。万里紗は眼球をえぐり取る機器を手に持つと、まず男(川瀬陽太)の片目を襲い眼球をえぐり取った。そして、逃げまどう女も追いかけて、眼球を取り去った。この事件はニュース報道され、「恐怖の眼球ハンター」として世の中を騒がせることになる。

中野医師は、制御不能になった万里紗が、自分では制御できない眼球ハンターと言うモンスターに変身して、手が付けられなくなっている現実におののいた。万里紗の部屋にはホルマリン漬けした眼球のコレクションがどんどん並んでいく。いつしか眼球コレクターのPANTAの部屋で見た光景の再現。

中野医師は、眼球を求めて街を彷徨う万里紗を見つけたが、眼球ハンティング機器で、あっさり両目の眼球をえぐり取られた。彼は両眼を無くし、初めて幻影肢とはどんなものか、実際に体験することが出来た。彼の失われた眼球に映っていたもの、それは、、、、ENDLESS?

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