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飲酒写真展『歓待』について

写真だけをじっと見ていられるひとはかなり限られます。

物語を構築しやすいため、動画はじっと見ていられるひとも少なくありませんが、必ずしも因果的に理解するものでもなく、物語性を剥奪されがちな写真はそうはいかないようです。

写真には動画とは違う「見方」が存在します。どういう「見方」をするようになるのか、いくつのアングルの「見方」を身につけるのかは個人差がありますが、はじめから写真の「見方」が備わっている人は多くありません。

僕自身、自分なりの写真の「見方」をするようになったのはカメラを持ち歩き始めてしばらく経ってからでした。

写真の「見方」以前の状態にあるひとでも「見ていられる」写真展、そのひとなりの写真の「見方」の獲得へ近づけるような写真展を目指したのが飲酒写真展『歓待』です。

「見方」はわからないけど写真に興味がある、というひとや、すでに自分なりの「見方」をもっているひとが交流する場を提供したいと考えています。

大事なのは自分にはない「見方」が存在するということを知ることです。

もしいまの自分とは違うその「見方」を獲得できたなら、ひとつの作品から得られる体験は豊かになります。

これは現在の自身の「見方」を手放すことではありません。自身の「見方」を絶対的な領域から引き剥がし、相対化することで、複数の「見方」を往復可能になるということです。さらに、この往復が一段深度を増した新たな「見方」をもたらすこともあります。

写真を含めアート作品はコミュニケーションのための手段なので「好きなように観たらいい」というのは間違っています。

他人と会話をする際に「好きなように受け取ればいい」という姿勢ではコミュニケーションは成り立ちません。相手がどういうつもりで、どういう動機に基づいて発言しているのか見極める必要があります。

アート作品の場合、作者の意図や、作者自身も気づかない「何か」の表出、動機に目を配る必要があるということです。

アート史的な文脈からの「見方」もあります。この場合、作者の思惑を越える意味を作品に付与することもあります。そのため、作者の意図が作品の内容を規定しきれると考えるのは間違いです。

作品の「見方」の正解、不正解はそれぞれのひとの価値観に依存するのでどれが正しいとは決められません(作者ですら自分の作品の表現するところをすべて把握可能なわけではないので、真の「見方」の正解を待ち合わせません)。

ただし、あらゆる「見方」が等価なわけではありません。強度の差があるからです。先に述べた「深度」と関連します。この点については長くなるので、ここではこれ以上言及しません。

さて、話を『歓待』に戻します。

『歓待』という名前は、僕が参加者のみなさんを歓待したい、という気持ちに由来します。

作品よりはこの「歓待」の態度、「歓待」されるみなさんが主役になります。

いろいろな(作品に限らない世界の)「見方」を、あるいは「見方」の不在を「歓待」する会です。

参加されるみなさんも「歓待」され、また他者を「歓待」するつもりで来ていただければ、よりめでたい席になります。

新作の準備にも怠りなく、みなさんの参加をお待ちしています。




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