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芸術作品の見方入門
「芸術作品」と言われると敷居が高いと感じる人は多いと思います。
「わたしには難しい」「分かる人にしか分からないもの」という印象があるでしょう。
これは一面当たっています。
ただし、それは芸術がありがたく格式高いものだからではありません。
経験上、芸術が分からないと言うひとの多くは芸術を必要としないひとです。そのため、そもそも芸術に関心が向けられていないのです。詳しくは後述しますが、ゲーム盤の上だけでの人生に満足しているひとです。
「いや、わたしはアートが好きなんだからそんなはずはない」と反感を抱くひともいるでしょう。
「アートが好き」というひとの一部は「『アートが好き』だと言っている自分が好き」なだけで、「アート」をアクセサリーとして気軽にまとっているだけです。そういうひとにとっての「アート」は学歴でも年収でも職種でも置き換えが可能であり、中身へ関心が向かっていません。
では、上の例には当てはまらないが芸術は難しい、というひとの場合はどうでしょうか。
「芸術」と聞いて「ありがたいもの」や「市場価値が高いもの」を見ようとすると、その枠組みに従った認識を試みてしまい、そもそも作品が表現しているものに関心が向かいません。それでは作品は機能しません。
こういう見方を試みてください。
僕らの日常は「現実世界そのもの」に見えて、実は特定のゲーム盤の上での出来事に過ぎません。
例えば、シリアスに思える金をめぐる問題(実際、社会においてはシリアスです)は社会や経済というゲーム盤の上でしかその重みを維持できません。ゲーム盤の外側を生きる犬は、札束よりも一度の食事を選びます。
このように、何らかのゲームを「現実世界そのもの」と思い込んで生きがちな僕ら人間に「現実世界そのもの」を突きつける装置が芸術作品です。
これは「ありがたい真理を授ける」というよりは「ありがたい真理だと思われていたもののメッキを剥がす」行為です。これによって自分(や人生そのもの)を否定されたと感じるひとがいます。
芸術(アート)はひとを気持ちよくさせる娯楽(エンターテインメント)とは反対を向くものです。信じていたもののメッキが剥がれるのですから、不快に思うほうが自然です。
話を続けます。
芸術作品は僕たち鑑賞者がゲーム盤の外側を意識する体験をした時初めて、装置として機能し、価値を持つのです。装置は装置そのものではなく、その機能に価値を見出されるべきです。
全ての芸術作品が全ての人間に対してその機能を果たせるわけではありません。なので、作品価値は市場価値とはズレるのが普通です。
例えば、ここに何か芸術作品があるとして、A氏にとってはかけがえがない体験をもたらすが、B氏には何も訴えかけない、そんなことは当たり前です。
これは、それぞれのひとがその時点でどのようなゲームを生きているのかに由来します。ビジネスというゲーム、恋愛というゲーム、自己実現というゲーム、どこに重心があるのか、またその配分で作品の機能の仕方は異なります。
もちろん、世間で思われているように、質的量的に作品鑑賞してきた体験の豊かさや、教養の深さも作品鑑賞の能力には関わってきますが、それは枝葉の部分に過ぎません。根幹が大切です。今回書いているのは根幹についてです。
まとめます。
芸術は哲学に似ています。ある種のひとには耐えられない。「ありがたい真理を授ける」のではなく「ありがたい真理だと思われていたもののメッキを剥がす」ものです。似ている試みとして、日常社会の前提を問い直す習慣が、芸術作品の鑑賞の練習になるでしょう。前提は僕らにとって当たり前に思えるから前提として機能します。なので、前提の外側を探すのは、日常を違和感なく生きるひとには難しいことです。生きづらさなどをきっかけに前提を問い直すのもいいでしょう。平板化していないノイジーな部分がゲーム盤の裂け目です。不快だからと目を背けず、不快だからこそまじまじと眺めてみてください。
ひとによっては芸術は不要なものです。特に、不快さの回避こそが価値になっているひとにとってはそうです。そういう生きかたは否定できません。しかし、不快さを回避しているはずなのに生きづらさから逃れられないというひとは、芸術鑑賞を試みてもいいでしょう。ゲーム盤をゲーム盤として相対化することが、生きづらさの緩和につながり得るからです。
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