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あたたかい写真

今回は「あたたかい写真」というテーマを設けます。

家族写真だとか、好きなひとの写真だとか、写っている内容のことではありません。その手のものについては僕が論じるまでもなく、多くのひとがいろいろなところで発信しているので、ここでは触れません。

むしろここでは、写っているものが「あたたかい」ということだけでその写真自体が「あたたかい」ものでありえるのか? という問題提起を含みます。

本題に入ります。

中学生か高校生の頃、現代文の問題に使われた、著者の分からない文章を、いまでも時折思い出します。

要約すれば「狩猟時代の人間は、獲ったものをすぐに食べていたので、仕事と報酬の直接性が高かった。これは働く喜びに直結した。しかし現代では、われわれは複雑なシステムに組み込まれてしまっているので、自分の労働と報酬の直接性が失われ間接的になって隔てられているので、やりがいを感じにくくなっている」という内容です。

試験での点数が自分の人生とどう関係するのか、実感のなかった僕はこの文章にえらく感銘を受けました。

「良い」学校に進学すれば「良い」企業に就職できて「良い」生活が送れるという大人一般のロジックは、なんの実感ももたらしませんでした。「だからなに?」という感じです。

「良い」企業に就職しても、社会的な成功をしても、不幸なひとは世の中いくらでも観察できます。経済的な安定はあるに越したことはありませんが、それだけではあまりにも不足があるでしょう。

さて、直接性の問題、これは、自分を働く側から買う側に置き換えても同じことが言えます。

つまり、なにを買っても「どこの誰がどう作ったものなのか、隔てられ、実感を持って知ることがない間接性に浸かっていて、ゆえに、喜びがぼやける」という状態です。

一部、トレーサビリティの導入によってこの問題は解決するように思われましたが、実感としてはまだまだ直接性の回復には至りません。

「Aさんの牧場で原料を調達しています」と言われても、Aさんを温度のない情報としてしか知りえないし、仮にAさんに温度を感じても、そこには登場しないBさん、Cさん、Dさん……Zさんの関与と人生、労働観があるはずです。

あらゆることが複雑にシステム化されているので、ひとつのものをとってもあまりに多くのひとが関わっていて、直接性の追求は、流通量の多いものでは限界があります。

流通量の多さが商品一点当たりの価格のセーブを可能にするのですから、資本主義社会では、これは当たり前のことです。

僕が作品を販売するにあたって考えるのは、直接性に由来する「あたたかさ」の重要性です。

通信販売で多くのものを手にすることができるような時代になったのに、買い物をする喜びはぼやけ続けていると感じてきました。

そこで、僕が販売する作品にはできるだけ直接性を持たせたい、と考えています。展示するものも同様です。

デジタル化の過程を排除した作品づくりもここに関連します。アナログという連続性を維持することで、過程における「あたたかさ」の温存を期待します。デジタル化という間接性の回避です。デジタル化は現実世界を一度デジタル情報に書き換えるものです。それは実体なき「情報」でしかありません。(ただし、そもそも「あたたかさ」を含め、全ては情報でしかない、という類の反論は可能で、その考えを支持できる自分もいます。が、ここでは考えないことにします)

そして、誰が何をどのような価値観、過程に基づいて作るかを伝えること。こちらはより重要です。この文章もその一環で書いています。

撮影からプリントまで可能な限りをひとりの人間、つまり僕が担い、一貫した理念に基づいて作ることで直接性の希釈を防ぎ、いろいろな角度からそれを説明することで、関与を増して直接性を回復し、ぼやけない「あたたかい写真」を届けることができるのではないか、という試みです。

そうやって「あたたかい作品」から受け取る直接性を契機にした感想やお金も、やはり「あたたかい」のではないか。そんなことを考えています。


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