ローマ帝国研究会

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  • 『ローマ建国史』ティトゥス・リウィウス

    『ローマ建国史』の日本語訳。

  • 『年代記』コルネリウス・タキトゥス

    『年代記』の日本語版。

  • ローマ帝国人物事典

    ローマ帝国に登場する人物の出自や功績をまとめた事典。

最近の記事

ローマ史参考文献

ローマ帝国研究会の投稿は以下の参考文献をもとに作成されています。 ウィキペディアを参考にしている箇所もあります。 ローマ史関連・『ローマ建国史』ティトゥス・リウィウス ・『年代記』コルネリウス・タキトゥス ・『ローマ人の物語』塩野七生 ・『ローマ帝国衰亡史』エドワード・ギボン ・『はじめて読む人のローマ史 1200年』本村凌二 ローマ社会、文化関連・『古代ローマの生活』樋脇博敏 ・『古代ローマ 饗宴と格差の作法』祝田秀全 ・『一日古代ローマ人』金森誠也 ・『ローマ帝国下の

    • 『ローマ建国史』第1巻 21節-30節

      21.全体の群衆は、暴力と武器から逸れ、これらの事柄を考慮し調整することに従事していました。彼らの心は何かをすることに没頭しており、天の神々の絶え間ない監視は、神々が人間の関心事に興味を持っているように思われたため、全ての人々の胸に敬虔さを宿らせました。信仰と宗教的義務が、法律と罰への恐れと同様に、国家を支配していました。国王の模範に倣って自らを形成していった人々によって、周辺の国々も以前は彼らが平和を乱す軍営であると考えていたにもかかわらず、彼らに対して敬意を抱くようにな

      • 『年代記』第1巻 1節-10節

        1.ローマは最初は王によって支配されていました。自由と執政官職はルキウス・ブルトゥスによって確立されました。独裁政治は一時的な危機のために行われました。十人委員会の権力は2年を超えることはありませんでしたし、軍のトリブヌスの執政権も長期間は続きませんでした。キンナとスッラの専制政治も短期間でした。ポンペイウスとクラッススの支配もやがてカエサルの前に屈しました。レピドゥスとアントニウスの軍事的成功もアウグストゥスの前に敗れました。そして内戦によって世界が疲弊していた時、アウグ

        • ローマ帝国軍事用語集

          1) レギオ (Legio)ローマの正規部隊。 ローマ市民権を持つ者だけで構成された。 時代によっても異なるが、帝政ローマ時代では1つの軍団は10のコホルス(大隊)から構成され、騎兵200強を含めたおよそ5000から6000人の軍団兵がいた。 通常、1コホルス(Cohors)は3マニプルス(歩兵中隊)、1マニプルス(Manipulus)は2ケントゥリア(百人隊)から構成されていたので、1コホルスはすなわち6ケントゥリア(Centuria)から構成されていた。なお各レギオの第

        ローマ史参考文献

        マガジン

        • 『ローマ建国史』ティトゥス・リウィウス
          3本
        • 『年代記』コルネリウス・タキトゥス
          1本
        • ローマ帝国人物事典
          4本

        記事

          帝政ローマ人物事典

          ユリウス=クラウディウス朝 (➀‐⑤)➀ オクタウィアヌス (アウグストゥス) 在位期間 : BC27-14 出自/相関/経歴 : ‣母親はカエサルの姪。 ‣病弱で軍才もなかったが、カエサルの戦争に従軍し、後にカエサルに後継者として指名された。 ‣BC45年、カエサルの計らいでマルクス・ウィプサニウス・アグリッパと知り合い、以降、アグリッパは盟友かつ腹心としてオクタウィアヌスを支えた。アグリッパはBC20年頃にはじめて公立の公衆浴場(テルマエ)を建設させた。 ‣カエサル暗殺

          帝政ローマ人物事典

          共和政ローマ人物事典

          ➀ ルキニウス・ユニウス・ブルータス在任期間 : BC509 (執政官) 出自/相関 : ルクレツィアの夫の友人で、タルクィニウスの甥。 治世 : ‣執政官制度を創設した。 ‣元老院議員の数を300人に増やした。 ‣王政から家長制共和政になり、自身の出世の機会が失われたことに不満を持ったブルータスの息子らがタルクィニウスを王に戻す王政復古クーデターを計画した。奴隷の密告で事前にクーデターを知ったブルータスは息子らを処刑した。 ‣王政復古を諦めないタルクィニウスがエトルリアの

          共和政ローマ人物事典

          『ローマ建国史』第1巻 11節-20節

          11.ローマ人がこれらの偉業を達成している間に、アンテムナテスの軍勢が彼らの不在を利用して、敵意を持ってローマの領土に侵攻しました。ローマの軍団が急いでこれに対抗するために行軍し、彼らが野原を離れて散っている最中に彼らを奇襲します。そのため、敵は最初の叫び声と突撃で破られました。彼らの町は占領され、ロムルスはこの二重の勝利を喜びながら帰還します。彼の妻であるヘルシリアは、捕虜の女性たちの懇願によって説得され、「彼らの長老を許し、市民の特権を与えて、和解によって彼の権力を強化

          『ローマ建国史』第1巻 11節-20節

          パンノニアとアクインクム

          パンノニアとアクインクムの歴史パンノニアには、元々イリュリア系のパンノニア族が住んでいた。BC4世紀以降、この地域は多くのケルト人部族からの侵略を受けるようになり、ケルト系のエラウィスキー族(Eravisci)がこの地に定住した。北部パンノニアにはエラウィスキー族とイリュリア系のアザリ族(Azali)が居住していた。 BC220年からBC168年に起こったローマとのイリュリア戦争の結果、イリュリア王国領の南半分は共和政ローマの保護領となり、その後周辺領域を加えBC32年か

          パンノニアとアクインクム

          ローマ史用語集

          1) 政治体制関連用語貴族 (Patricii)平民 (Plebs)民会 (Comitia)クリア民会(部族員会)、ケントゥリア民会(兵員会)、トリブス民会(地域員会) の3つの民会があり、兵員会では、投票による執政官と法務官の選出が行われた。兵員会はパトリキが多数を占めた。 独裁官 (Dictātor)非常時のみに設置される。定員は1名で任期は半年。 通常時の全ての政務官は独裁官の下に置かれ、独裁官の決定は護民官の拒否権によっても制限されないものとされた。さらに補佐役と

          王政ローマ人物事典

          ローマの七丘 (Septem Montes Romae)➀ アエネーアース出自/相関 : トロイヤ王家のアンキーセースと女神ヴィーナスの息子。 治世 : ‣トロイヤ戦争に参戦したが、木馬作戦に引っ掛かり陥落したトロイヤから逃げ出し、現在のローマ近くの海岸に到達し、その地の王の娘と結婚し、都市ラウィニウムを建設した ➁ アスカニウス出自/相関 : アエネーアースの息子。 治世 : ‣ラウィニウムを義母に譲り、都市アルバ・ロンガを建設し、移り住んだ。 ⑬ アムリウス出自/

          王政ローマ人物事典

          『ローマ建国史』第1巻 1節-10節

          1.まず最初に、トロイヤが陥落した後、他のトロイヤ人には極めて厳しい待遇が示されたことは十分に確立されています。しかし、ギリシャ人はアエネーアースとアンテーノールに対しては、古代の友好関係に基づくものであり、彼らが常に平和とヘレンの復帰を提案してきたことから、戦争の権利を保留しました。そして、アンテーノールはさまざまな運命の末、内陸のアドリア海に入り、内乱の結果パフラゴニアから追放されたエネティ族とともに定住地と指導者を求めていました。彼らの王ピュライメネースがトロイで亡く

          『ローマ建国史』第1巻 1節-10節