どこまでも変わっていけるということ⑥

中3の秋、私は相変わらず不登校のままで、毎日毎日塾の自習室で過ごしていた。


不登校なので時間だけはたっぷりある、とはいっても、今までまともに勉強してこなかった自分がそう簡単に"人並み"のレベルに追い付けるなんてことはなかった。
特に国語・数学・英語などは、今までの積み重ねの差が顕著に表れるものだと、周りの大人は口を揃えて言う。
実際、都立高校入試向けの塾内模試を何回か受けてみたけど、いつまでたっても平均30点くらいしかとれなかった。

空間図形の応用問題なんか一度も解けなかったけど、「これは捨て問だから、時間をかけても仕方がない」と、言い訳だけは一人前だった。



お坊ちゃま先生の指導は相変わらず嫌味でネチネチとしていた。
「もうあなたには時間がないんだから、たいして伸びない数学なんかよりも、これからは理科と社会を最優先で進めなさい。
 この2科目は、全部覚えるだけで余裕で100点とれるんだから。」



そういって、理科と社会の問題集を1冊ずつくれた。



「これ1冊ずつだけでいいように、僕がちゃんと中身みて選んで買ってきたんだからね。来週までに両方終わらせてきなさいよ。」

塾長には内緒だよ。
そう言い残して、終業のチャイムとともに帰っていった。





ふとんのなかで、もらった問題集をぱらぱらとひらいてみた。
2冊の問題集は、確かに内容が簡潔にまとまっていて、読みやすくて、
決して薄くはなかったけど、頑張れば1週間で終わらせられそうな気はした。






学校の先生はみんな、私のような生徒には優しくしてくれなかった。
私はずっと、他の"まっとうな"生徒が充実した学校生活を送るための影の部分で、私の気持ちなんて存在していないのと同じだった。
私自身もそんなの慣れっこで、そういうものだと思いこんでいたし、周りの大人には自分への愛情なんて何も期待してなかった。

でもこのお坊ちゃま先生は、私のことを一人の受験生として扱ってくれて、
今の私に必要なことを、私自身が達成できる範囲で、はっきりと示してくれたのだった。







全部覚えるだけで、なんて。無茶いうよ。

そんな甘えた文句をつぶやこうとしたけれど、

そんな先生の優しい厳しさに、
どうしようもなく涙が止まらなくて、
何も声にならなかった。











「こんなの無理」といって投げたとしても、別に死ぬわけじゃない。
これが1週間でできなくたって、今までの延長線上の、それなりな毎日が続くだけ。

けれど、私のことを人間として応援してくれているこの先生の気持ちに、
ここはなんだか全力で応えないといけないような気がした。
でないと、自分が変われる大きなチャンスをここで失ってしまうような、そんな気がしたのだった。





1週間、問題集を一生懸命に2~3周して、毎晩夢の中でも読み返した。

そうなると今度は問題文の位置や順番などで答えを覚えてしまったりするので、演習プリントも色々解いた。

あの先生は、ちょっと問題が解けるようになったくらいでは「そのくらいできて当然でしょ」なんていうに決まってる。
先生の想像をはるかに超えて、あっと言わせてやりたいと思った。





そして次の週。

お坊ちゃま先生は「本当にやってきたの?」と睨んできた。
「先生がやってこいって言ったんじゃん。」と、生意気だけど堂々と文句を言った。



その日はちょうど塾内模試の定期受験日だった。

「問題集解いたはいいけど身になってません、じゃ意味ないからね」と、やはり予想通りのことを言われた。
余計な一言にムッと反抗したくなる。





でも、模試を解きはじめた瞬間、明らかに今までとは違う感触なのが分かった。

理科も社会も、すべて反射的に解くことができる。
簡単すぎて逆に不安になるくらいに。


今までは、分かる問題がひとつでもあったら、それだけで十分できたような気になっていた。
今回は逆に、すべて軽々と解けてしまうけれど、少し迷う問題が出てきただけで不安で不安で仕方ない。




終わったそばから、横で採点が始まる。

不思議な高揚感があった。



お坊ちゃま先生はなぜか丸をひとつもつけはじめずに、
少しして私の方を見た。







「すごいなあ。」




「根性あるじゃん、本当に」





答案用紙の右上に、理科は100点、社会は96点と書いて見せてくれた。


「嘘じゃないですよね?」
先生を驚かせてやろうと思っていたのに、自分の方がずっと驚いていた。







お坊ちゃま先生は、回答のコピーとってくるから待ってて、と言って早足で講師室に入っていった。

そのあとすぐに、興奮した甲高い声が次々と漏れ聞こえてきた。

「塾長! これ! みてください!」
「だから言ったでしょ。あの子はやればこれだけ伸びるんですよ!」
「これからずっと僕があの子のことみますから。シフト調整ちゃんとお願いしますよ!」

この人、目上の人と話すときもぜんぜん態度変わんないな。
ちょっとクスっとした。
そして、自分が話題の中心になっているというのはなんだか慣れなくて、その恥ずかしさにムズっとした。

でも嬉しかった。





塾内模試の難易度は、実際は、都立高校入試のそれに比べたらずっと易しかったと思う。
だから別に、中3のこの時期に理社で100点というのは、別に珍しいことではない。
でも私にとっては違った。


中学時代の私は、やることなんでも的外れで、誰にも認めてもらえなくて、"不正解"ばかりだった。
私自身も、どうせできないと決めつけて、成功体験なんかほとんどなくて、高い目標に挑戦しようなんて想像すらできなかった。


そんな私でも、こうやって正しく努力すれば、誰からみても確かな結果を出すことができる。
特に学力試験というのは、そういう意味ではとても公平だ。





この1週間という時間は、私の受験生としての可能性を大きく拡げてくれた。

そして、それまでの私にはまったくなかった、確かな自信というものを芽生えさせてくれたのだった。

あと、
これからは自分一人だけじゃなくて、
少しは周りに頼ってみても許されるのだ、という安心感も。



ここには、信頼してついていこうと思える先生がいる。

私のがんばりをちゃんと見てもらえる。

私にも、自分の時間を大切に過ごせる居場所があるのだと、強く実感できたのだった。







もうすぐ冬期講習に入る。

私は昼間の静かな時間帯しかきてないけれど、冬に向けて、だんだん塾の中も賑やかになってきているような気がしていた。

受付で、夜コマの出欠名簿をなんとなく見る。


そこには、たくさんの知らない生徒たちの名前がずらりと印刷されており、




最後に手書きで、"体験授業"と、Aさんの名前が記入されているのが見えた。




(続く)

これまで →     


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