どこまでも変わっていけるということ④

日本における年間の推定自殺者数は約15万人と言われているそうだ。

昔は、「死のうと思って死ねるなら、そのエネルギーで十分に生きていけるのではないか」などと軽率に思っていた。
でも実際に自殺が行われる時というのは、しようと思ってするというよりは、追い詰められた結果「気づいたら自殺していた」という感覚の方が近いのではないかと思うようになってきた。

私の人生は決して明るいとは言えないけれど、少なくとも就職するまでは、自殺しそうになったことや頭によぎるようなことは一度もなかった。
最も精神的に追い込まれていた中学3年生の頃でもそうだった。
それはもちろん運も大いにあるのだが、ただ運が良かったというだけの話ではない。
私のなかには、"自死以外に救われない限界の状況"にまでは追い込まれることのない、何かしらの「伸びしろ」が常に存在していたのだと思う。

私の場合、それは何といっても、私の人生を暗くしている一番の原因はこれまでの自分の行いなのだという事実を、痛いほど自覚していたことによるものなのだと思っている。
決して、自分の努力だけではどうにもならないほど周りの環境が悪いわけではなかった。
(そこがまず運に恵まれている、といえばそうなのかもしれないが。いわゆる〇〇ガチャというヤツ。)

自分次第でもっと人生を明るくできる余地があると感じていたから、いつも心のどこかには、「人生ここから本気出す」という希望があったように思う。
だからこれまでは、私のなかで「自死」が選択肢としてあがってくることはなかったのだろう。と、自分としては結論している。



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「あんた、生きてる価値ないよ」
というAさんの言葉に、私のなかで何かが吹っ切れたのか、
私は次の日から学校に行くことをやめた。
別に、毎日胃に穴の開く思いをしてまで学校に通う必要などないのだった。行かなければ何も起こらない。簡単な話である。


不登校初日の朝、親は「戸締りと火の元だけしっかり頼むね~」と言い残して仕事へ向かった。弟と妹も学校へ行った。
心身ともにまったく一人だけでいられる時間というのは、ここまででほとんどなかった気がする。
お気に入りの冷凍えびグラタンを温めて食べた。

これからは、毎日心を殺して怯えながら過ごさなくてもいいし、
自分のことだけを考えて生きていけばいい。

学校にいても家にいてもひとりぼっちなのは変わらないけれど、
「ひとり」がこんなに落ち着くものなのかと、初めて知った。
その安堵からか、これまでと異なる日常への違和感からか、向き合わなければならない未来への不安からか分からないが、ぶわっと涙が出た。



次に気づけば、時計は13時を差していた。
いじめる対象がいなくなった学校は、今頃どうなっているのだろうか。
まだ初日だから、私が休んだことをネタにひとからかいもできるだろう。逃げたのかだとか言いながら笑うのだろう。
しかしこれが1週間も経てばどうだろう?
彼らは面白くないとおもうだろうか。それとも私のことなんてすぐにどうでもよくなるのだろうか。そして新たな娯楽(いじめられっ子)を仕立て上げるのだろうか。
自分が次の標的にならないようにと、これまでにない緊張感のなかで過ごすのだろうか。

そこまで考えたところで、ふと「別にどうでもいいな」と思った。
もう今後二度と関わらなくていいコミュニティの話なのだから。私の知ったことではない。
それよりも私は、今まで適当に過ごしてきた事実としっかり向き合って、これから自分がどうしたいのかを考えるべきなのだろう。

などと、ぼんやり思いつつ、初日は結局何もしなかった。
何もしなかったというより、何から始めたらいいのか分からなかったので、
とりあえずその日は何も考えないようにして、ただただ泥のように寝た。


不登校2日目の朝、親は昨日と同じく「戸締りと火の元だけしっかり頼むね~」と言い残して仕事へ向かった。弟と妹も、いつも通り学校へ行った。
今日はさすがに何かしよう。と、多少の焦燥感に駆られて起き上がった。

まずは今後の進路について考えようとした。
これまで勉学の一切をサボってきた私は、無教養で、当然ながら将来について具体的なイメージが何もできなかった。
例えば私は何がしたいのかという点について、
絵を描くことが好きだからイラストレーターにでもなるのかな? 程度の考えしか浮かばなかった。

大した集中力もないから、そこまで考えたところで一旦やめて、
ふと思い出したように、久しぶりに絵を描こうとした。



けれど、描くことができなかった。
絵を描こうと机に向かうと、
AさんとBさんとの出来事がフラッシュバックして、何もできなくなってしまったのだった。



絵が好きだということは、幼少期からずっと変わらない自分の気持ちで、拠り所だった。
Aさんとの楽しい思い出も、絵が好きだという共通点から始まったものだった。
なのに、それをAさんからの拒絶の口実に使われてしまった。
そして私よりずっと絵の才能に富んでいる、人間性の何もかもが敵わなかったBさんにAさんの存在を奪われ、
程なくして、この二人に、私の学校での居場所をも完全に奪われてしまったのだった。





もう二人のいる学校には行かないのだから、そんなこと忘れたらいいのに。私は私の思うままに好きな絵を描けばいいのに。


なんて、私は自分の意志で好きに絵を描いていると思い込んでいたけれど、
そうではなく、いつの間にか「絵を描くことでAさんと一緒に楽しい時間を過ごせる」という"手段"に変わっていたことに、当時の私はまったく気づいていなかった。
絵を描く楽しみはAさんとの関係に依存するもので、Aさんがいなくなった今、もはや絵を描くことに何の意味も見出すことはできなかった。
それを当時の私ははっきり理解できなくて、もう変えられない過去に縛られる自分に対して苦しんだのだった。

(その後も、学生時代の間には絵を描けるようにはならず、
 次第に諦め、絵を描きたかったこと自体を忘れていった。
 そして、私が27歳・社会人4年目になるまでは、また絵を描いてみようかな、と思い出すことも一切なかった。)





不登校3日目の朝、親はまた同じく「戸締りと火の元だけしっかり頼むね~」と言い残して仕事へ向かった。弟と妹も、変わらず当たり前のように学校へ行った。

14歳にとっての一日は長かった。
私は、少なくとも昨日よりは落ち着いて、真剣に、時間をかけて自分の将来を考えるようになっていた。
これまで本当に何もしてこなかっただけに頭の中が一気に窮屈になって、とても苦しかった。
でも、自分のやりたいことすらはっきりと分からないレベルなのだったら、とりあえずは"人並みの"高校に進学できるように努力すべきなのはなんとなく理解できた。

初めて、数学の教科書を、跡がつくくらいしっかりと開いた。
けれど、最近の学校の授業でそういえば聞いたような気のする相似図形の証明理論が、私にはまったく理解できなかった。



それから3日かけて、3学年の教科書を一通り見て気づいたのは、
中1から、いや、小学生の頃から何も勉強をしてこなかった私の、圧倒的な基礎学力の欠如であった。
教科書に何が書いてあるのか分からないし、もちろん基本的な問題も解けない。
まずいかもとは感じたけれど、自分一人ではどうしたらいいのか分からなかった。

だからといって、学校には頼れない。
親から教わるのも現実的でない。
そして時間も限りあるなかで、何をどうしたらいいんだろうか。
今の私だったらまず初めにインターネットの力を大いに活用するかもしれないが、当時、私にそれを使いこなす能力はなかった。



うだうだ考えたところで結局は分からなかったので、
ひとまず、
「塾に行ってみたい」
と、親に伝えてみた。


(続く)→


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