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「老い」と踊り


先日、カフェでご飯を食べているときです。
聞き耳を立てるのはよくなかったのですが、隣の席からこんな会話が聞こえてきました。会話の主は30代ほどの女性で、趣味で娘とともにフラダンスをやっているようでした。
「年配の女性たちもフラダンスをしている。とても素敵なことだ。なので年齢別でチームを作って、年配の人もこんなに踊れるんだということを見てもらえばどうだろうと提案したが、年配の方々は怒ってしまった。」
実際、どのような活動をしているか詳しいことはわかりませんでしたが、「老い」と「踊り」は、対極の関係にあるように思われました。踊りは美しさを見てもらうものであり、老いている人は美しくないという一般認識があるからです。(具体的なことについては後述)
私自身も、20代後半という年齢でありながら、新体操という競技を趣味でしています。自分にとっても遠くない話だと感じました。
今回は、「老い」と「踊り」ということについて、『老いと踊り』(中島奈那子・外山紀久子 編著、勁草書房)を参考にしながら考えてみたいと思います。

老いについて


皆さんは、「老い」についてどう思いますか?
できるだけ若くいたい、老いたくない…「アンチエイジング」という言葉もあるように、老いに対しては、否定的にとらえられている部分が多いように思います。欧米では、老いは隠蔽されたり忌避されるものであったと言います。
ところで、「老い」はいつからが老いなのでしょうか。明確に定めることはできるのでしょうか。
老いは、社会的に、制度によって定められた概念だということができます。例えば、「定年制度」。2013年に「70歳までの就業機会確保措置」の努力義務化が導入されたことにより、多くの企業が定年を65歳に引き上げているほか、70歳までの雇用延長制度を設けるようになりました。さらに、「後期高齢者」も、70歳から75歳に引き上げがなされています。
また、「アラサー」「アラフォー」など、一定の年齢を目前にした人に対して使う言葉は、老いを意識したもののようにも感じます。このように、「老い」は社会で操作をすることができる概念です。
ちなみに、私も新体操の中では老いている部類に属すると考えています。新体操は20歳がピークと言われるスポーツです。多くが大学卒業とともに引退をし、その後趣味で取り組むことはほとんどありません。私は27歳ですが、新体操をする者としては老いています。

西洋・東洋の舞踊の老いに対する考え方


老いに関する忌避意識は、東洋より西洋の方が強いそうです。西洋では老いは隠蔽されるものであり、舞踊作品においても、老人が登場することはほとんどないといいます。最も歴史のある「パリ・オペラ座」でのバレエ団では、多くが40歳前後で引退します。バレエ作品≪コッペリア≫や≪白鳥の湖》では老人役がありますが、それも脇役にすぎません。演じるものも、演じられるものも、老人はほとんど存在しないものとなっています。
しかし東洋、とくに日本においては、老いに対して肯定的な見方がされます。日本の伝統的な舞踊と言えば「能」「歌舞伎」などですが、どれも老人役が多く存在し、老人が主役である作品も多くあります。また、演じる側にも年配の人が多いです。
日本舞踊において、年を取ることは大きなステータスです。なぜなら、年を取ることで徳が成熟し、人間的に究極の状態へ至るとされているからです。若い、人生経験の少ない者にはできない、深みのある踊りができると考えられています。
西洋・東洋では「舞踊」に関しても大きな考えの違いがあります。西洋では、踊ることは「演技」です。踊るときは、自分でなに何者かになり切ります。しかし日本では、踊ることは「芸」、つまり自分の人間そのものを表現することになります。
西洋の演技的な考え方は、何者かに憑依するため自分の人間性は大きな影響を与えません。むしろ肉体的な技術が必要であり、そこに若い身体の方が有利であることが窺えます。
日本の芸的な考え方は、自分自身を見てもらうことから、人としての成熟が必要です。大事なのは身体や技術よりも人間性なのです。この考え方の違いに、「舞踊観」の大きな違いがあるといえるでしょう。

老いている人の踊りは美しくないのか


こうした西洋・東洋の考えを一つにして考えるのは容易なことではないと感じました。なぜなら、舞踊観の根本が大きく異なりすぎているからです。
最近(2000年過ぎ)は、日本の舞踏家・大野一雄(なくなる直前まで、認知症を患いながらも踊り続けた日本の伝説的なダンサー)が欧米で踊ったり、それに触発されたダンサーが老いても舞台に立ったりしています。西洋でも、「老いても踊れる」考え方を広めるべく、様々な活動がなされているようです。
しかし、私たちの中にある「若い=美しい」の構図は、根深く残ったままです。思考の転換というものは、そう簡単に行われるものではありません。
だからといって、老いている人が美しくないというのも違うと思います。
本を読むなかで、これは踊っている人のどこに視点を向けるかという論点につながると感じました。
若い=美しいの構図は、見た目に関する美しさを出発点としていると考えます。「出発点」としているのは、見た目だけでなく、そこから中身の評価にもつながるからです。洗練された技術、それに裏付けされた引き締まった身体、そこから得られる人としての素晴らしさを感じ、その踊りは「美しい」と感じます。
老い=美しいの構図は、先に中身(人間性)に関する美しさを感じ取っているのではないでしょうか。老いた身体には、時間の経過やその人が経験したものが染みついています。それは皺、曲がった腰、制御の効かない体といった、だれにでもあてはまる(見た目に関する)老いだけでなく、その人の人生の経験、舞踊の経験、身体を通して得たものが人間性として浸透しており、そうした様々な時間を経験した身体が表現するものに、私たちは苦労や時間を感じ取り、感動するのではないでしょうか。踊り手自身の深みのある表現に、見た目としての老いた身体があることによって、美しくなる。
結論、老いも若いも訓練された舞踊は美しいが、感じとり方に違いがある、ということです。

余談


とはいいつつ、やはり見た目というものは重要です。(極端な言い方ですが)見た目の美しくない身体の美しさを感じ取るのは、訓練が必要だからです。
さらに、私たちは見た目の美しさを重要とする教育を受けています。
私は新体操をしていましたが、見た目がかなり重要なスポーツだと教えられてきました。痩せている、足の長いスタイルが必要なので、減量の日々でした。手足を伸ばして動くことが、大きく雄大に体の動いた美しい状態であったので、多少不自然であっても手足を伸ばすことを徹底されました。いくら高度な技術を持っていても、太っていれば評価されない。そんな世界でした。
未だに、少し太った新体操選手より、体のラインの美しい技術の劣った選手の方が美しいと感じることがあります。
しかし、新体操でも、見た目の美しさを超えた中身の表現というものは存在します。音の取り方、手具の操作の仕方、技の選択…。様々なものから、その人の人間性を感じることができます。そして、それは見た目よりも重要であり、踊り手としても伝えたいメッセージが詰まった部分です。
これまでは、そうした部分を見取るための力を養成する場がありませんでした。結果、私のような形式でしか物事を判断できない人間がたくさん生まれてしまった、と思っています。
これからの新体操ないし舞踊教育では、こうした深い表現のできる・受け取れる選手を育てるべきだと考えています。さらに、芸術文化は鑑賞者の目も重要であることから、鑑賞する人たちもそうあるべきと考えます。
舞踊界隈にいる人たちの意識や見る力を育て、形式だけでなく物質・本質を楽しめる文化になればいいなあとおもいます。

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