世界

 


 去年の5月とか6月くらいまでアルバムをスクロールしたらアルバムの中では夏に亡くなった愛犬も去年の暮れに亡くなった祖父も元気良さそうに食べたり、歩いたりしていて不思議だ。
 不思議だなって思う事の理由を兼ねてもう一つ不思議だと思う事を書きたい。アルバムを見返していたら、その当時の記憶が現在進行形で自分のなかで流れてる感じがする。過ぎた時間の中には、当時の自分がそこにいて、今の自分は今の時間の軸にいて、どちらも私であるという感覚がある。過去の自分も、今の私。どちらも現在という感覚。だから去年の5月とか6月の写真を見ると、去年の5月とか6月の私にも、今現在の私にもなって、変な感じ。日々は地続きだとわかっていても、過去と今を分断できていなさ過ぎるというか。時間が過ぎていくたびにパラパラ漫画のページみたいに最小単位で私が増えていく様な感覚。例えばりんごを手に取った私と、りんごを食べたあとの私の間に流れた時間の中にも時間の最小単位分と同じだけの私がいる。みたいな。

 お母さんほら見て。
 やさしく掬うような形をした両手のひらの中に亡くなったはずの犬がいる。
「大きくなってきてるから今なら大丈夫」。
そう言って母は祖母の手のひらに犬をそっと受け渡す。犬は手のひらにおさまる範囲で大きくなったり、とても小さくなったりしている。

 不可解。ーーー

 「こんなに小さくなって」。
大切そうに手のひらを眺める祖母の眼差しは、失ったはずの命を眺めているのに命を授かったかのような温かい目をしている。

 それはめいいっぱいの悲しみ。ーーー

 犬は成犬や子犬という形ではなく、ひとつの生命体としての形をしていた。手のひらに死んだはずの犬がいる事は、千年に一度、一夜だけに咲く花を見つけたような、夢の袖を掴むような現実だった。よく知る毛並みや、濃紺の瞳を見せてくれるわけではない姿だけど、確かにそれは私たちが愛した犬。



 仏教では、死後49日は魂が現世に残り天界に帰るまでに修行をしているという。亡くなって49日が過ぎたけれど、犬の骨壺を優しく撫で、話しかける。いつここにきても会える気がして不思議だ。
「こんなに小さくなって」。
手のひらで包み込める大きさの骨壺を温める様に抱える。こうしていると犬がここにいる様な気がして安心する。49日が過ぎるまでは、犬がいつもどおり部屋の中を歩き回っている気がしていた。見えないけれどここにいる、そういう確信があった。49日が過ぎてみると、何かがすっきり消えた様な寂しい感じがする。もう行ってしまったんだな、本当にもうこれが最後か、そう思った。

 「ありがとう」
 「ありがとう」
 「ありがとう」

 花いっぱいに囲まれた犬に最後に伝えたい言葉はそれだけだった。究極かもしれない、ありがとうでいっぱいだった。一輪ずつ、花の色や形でバランスを考えながら家族みんなで棺の中を彩った。
 
 火葬の日の朝、目覚めて、誰がいなくなったとか、そんな事を考える実感もないまま、今日することは花を買いに行くことだ、その情報だけを頭に、自転車で花屋さんへ向かった。

 誰に買う花だっけ。ーーー

 黙々と花を選ぶ。近所の小さな花屋は安価で、たくさんの花が買える。母には1000円くらいで買えるのでいいよと言われていたのに、5000円分くらいの大きな花束を作ってた。これだけじゃ足りない。花束を抱えて花屋さんを出た暁に涙が溢れていた。変な泣き声まで出してしまいながら自転車を漕いだ。涙で見える景色が混ざって視界が白くなった。歩道の幅がぐちゃぐちゃ。

 「眠ってるみたいや」。
祖母は失った命に温もりを吹き込む様な眼差しを向けてそうつぶやいた。棺にすべての花を敷き詰めると、たくさん花を選んで良かったと思う具合に、犬にぴったりの鮮やかさになった。ありがとうの分だけ色になる。家族一人一人が花の中の犬にキスをした。亡骸を冷やしていた保冷剤のひんやりとした匂いや、しっかり冷えた犬の体の冷たさが唇に残る。

 知ってる匂いを知っていると思いながら体に集める。頭の中ではいつまでも笑った顔のままでいる。知ってる匂いを知っていると思いながら、今日もちゃんとそばにいるのだと確認する。いつか離れるから、ちゃんと今日も愛する。そんなわかっていた作業、いつもちゃんと愛していたのに、最後にいつも、"もっと"と、思ってしまう。

 「さぁ、出かけよか」。
 そう言って祖母が棺の中の犬に話しかける。力のある弟の腕が棺をしっかり抱えて歩き出す。
 「行かんといて」、そう思っても。
 火葬の日はカラッとした夏の空に、入道雲が白と青のコントラストを作っていた。火葬場への道中、カーラジオからはzoneの君がくれたものが流れて、そのせいで最悪なくらいまた泣いた。いつもこういう時に隣にいてくれる姉。


 犬の体にお別れをした。焼却炉の中にぽつりと見える最後の姿に向かって「ええところに行きや」と言った祖母の声が、49日を過ぎた今でも私の頭の中に残ってる。ええところに行けたかなって。


 いつから老いて、いつから私の歳を追い越したのか。出会えた喜びだけを置いて綺麗にいなくなったから、この15年、夢でもみていたのかと思う。犬は夏に生まれて夏に死んだ。亡くなった夜は2年越しの花火大会がどこかで開かれていて花火が上がっていた。どんどん、ぱらら。花火があがって散る音が静かなリビングに響く夜だった。私だけ、死に目に会えなくて、死んだ犬を確認する瞬間だけベランダの向こうの花火の音が消えた。
 子どもの頃、友だちがいなかったから最初の友だちが犬だった。犬が私の世界になった。早く会いたくて学校から急いで帰るようになった。犬に出会って全てが変わった、ぼんやり過ごしていた毎日が明るくなった、うきうきして仕方ない。出会えたわくわくでいっぱいで、毎日が加速するようにすぎていくようになった、私自身も明るくなった、そしたら新しい友達もできた、犬がうちに来てから全てが楽しくて仕方なくなった。全部くれてたんじゃん、今更だけど離れて確認した。



 もくもくとあがる煙を見送る。犬の遺灰は大きく緩やかな影になって、空を舞った。空を流れる煙は目視できなかったけど、薄くて広い陰になってアスファルトの上を流れていたから、陰を浴びるように空を眺めた。祖母は一人最後まで暑い中、陰をずっと見送っていた。さわさわと肌の上を走り、辺りを包むように流れていく陰は笑ってるみたいで、大きな癒しに包まれた。



 犬は犬の形をしていた。犬は犬の言葉で訴えてくるし。犬は犬の形をしていたけど犬だった、唯一無二の形をしてた、見た目とかじゃなくて。他の同じ犬種の犬でもだめ。あの子じゃないと意味がない。犬は一つの生命体の形をしていた。犬は15年かけて作った存在の大きさと、体を残していってしまった。犬にとっては15年うちで過ごしたことは、"任務完了"、そんなところかもしれない。もう次の場所で犬は犬として働いているのかもしれない。私は犬がくれたスピードに乗ったまま、この疾走を死ぬまでやめるつもりはない。犬がくれた世界を胸に抱いて歩いく、涙を越えると一緒になれる。もう一人じゃないね。

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