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わたしとネコと新潟と





 年明け、ポストに大好きな新潟の姉さんから手紙が届いてた。"いつか新潟の雪を見においでね" という文章のなかには色んなものが詰まって見えて、"雪"とか"新潟"とかすごく好きなものに交わる "いつか" がなんだかとても切なかった。

 はじめて新潟に行ってから秋を二つ跨いだ。大阪と新潟はそう遠くはない。私はいつだって新潟に会いにいきたいのだけど、今の私は新潟にさえ向かえない。


 ステイホームの期間、新潟の姉さんがくれた手紙にはこんなご時世に外に出て配達をしてくれる配達員さんへの"ありがとう"というメッセージが封筒の表に大きく書かれていた。
 かつて新潟の姉さんは"送りつける"という気づかいのメッセージをよせて新潟のお米を送ってくれた。あれはどうしてだったか、シャネルのリップをプレゼントしてくれた。いまも大事な勝負の日には験担ぎに唇に塗りたくっている。ハタチの誕生日にはピアスをくれた。うれしくて閉じていた左耳のピアスをもらったピアスでこじ開けたて出血したが、嬉しさが勝って問題なかった。新潟の姉さんの愛息子くん(まじでめちゃくちゃ可愛い)が覚えたての字で手紙を書いてくれたことがほんとうに嬉しくて、その手紙が届いた日のことは、今年の春の出来事のような感覚で覚えてる。いつも、全部、何もかも、新潟から届くものが嬉しい。

 新潟の姉さんと知り合ったのはInstagramだった。私が勝手に見つけて、勝手に描いた新潟の姉さんちの猫の絵を、勝手に"描きました"と新潟の姉さんのアカウントをタグ付けするという強引な手口に、新潟の姉さんは対応してくれた。しかもその絵を新潟の姉さんが買ってくれた。そうゆう無理やりな手口の末、新潟の姉さん及び、新潟の家族とご縁を持たせてもらってる。でもあの頃はInstagramで知り合った新潟の姉さん達といつか会えるとも思ってなかった。

 snsで知り合ってからしばらくして関東に仕事で行くことになり、その足で新潟にいってみよかな!という急な要望を寄せたにも関わらず、新潟の姉さんをはじめとする新潟の温かい家族は迎えてくれた。
 会う時間も話せる時間もあまりなかったけれど、短い時間の記憶はずっしりと頭に残る。はじめて顔を合わせた時の情景や、些細な会話の端端をあたまの中で今も再生し、また会いたいなあとぼんやり思う。

 新潟の家族との別れ際に姉さんが抱きしめてくれたとき、かつての恋人たちは私を抱きしめてくれてたのかと疑うほど、ハグで温かい気持ちに恵まれた。私もいつかこれくらい大きく人を抱きしめられるように生きていきたい。いまはその下積み時代かな。


あれから秋になるとFacebookが新潟に行った頃の投稿を通知する。まだ二年しか経ってないらしい。

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