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私の肝、ここに座るか否や



 もうこれが手に入らないなら死んだ方がマシ。
そう思って、追いかけていた事がある。何かを投げ打ってまで手に入れようとしたそれがある。
"どんなに時間がかかっても"と思っていたそいつの事を、今はタイミングではないのだと思うようになっていて、なんだか少し感動してしまった。
 "ずっと先を見つめる様に願う"事を経験している人はたくさんいると思う。遠い未来に願掛けして守らないといけない今を守ってるから、叶う一瞬の為に気が遠くなる日々を生きている。
 願いの要素が人によっては、恋なのか愛なのか、夢なのか願望なのか、殺意なのか憎しみなのか、それぞれだと思う。けれど、どれも結局は人の生きる意志であって、それはその人を支える要素である事に変わりはないと私は理解している。意志が人を働かせたり死なせたり何かを完成させたりするのだから、生きる糧になってるそれらはもはや"願い"という形で人の日々の営みに直結している。
 私の"死"と天秤にかけた願いだなんて、希死念慮を抱いている人ではない限り極端な錘だったなと思う。あまりにも"死"への解像度が低すぎたからなのか、なんだか私も落ち着いてきてしまったのか、疲れているのか、壊せる程度の限界に到達してしまっているのか、どうなのかはわからないけれど、"死"って計り知れない物だから、簡単に何かと並び合わせたりはできないと、それだけはハッキリとそう思う。
 "駄々"をこねくり回していた自分の軸が、"只"、という心の佇まいに移り変わってゆく。まだまだ駄々の要素で足掻いているけれど、あともう少しして気がつく頃には、只、私は生きている気がする。限りと共に生きている自分の美しさを知り、今この瞬間まで積み重ねて生きてきた時間の一番新しい所にいる今の自分を儚い生き物だと認識する頃に、改めて走り続けたいと思うんだろう。それでこの事は隣にいるあの子にも言える事なんだと気づき、私たちってば美しいねと素直に手を取り合えるのが血縁関係なく結ばれている人達だと思う。
 私達は鮭のように同じ場所から大海原にでて、また同じ水の中に帰ってくる。鮭って、長い旅の途中で銀色に鱗の色が変わるらしくて、この事を"スモルト化"って言うんだって。海水への対応が完了した鮭に現れる変化らしい。私も今度ひさしく会う人達に少しだけ銀色の鱗をチラつかせたいのでやっぱりもうちょい頑張りたい。せっかく今は会いたい人に会えないのだから、こんな時に何ができるのかちゃんと選んでみたい。寝てても良い、孤独と向き合っていてもいい、料理のスキルを上げててもいい、なんでもいい。こんなに長期間、周りの人達に会えない時間をみんなが一斉に経験するなんて事はなかなか無いから、せっかくなので銀色に変えられる鱗を探す所からはじめたい。今は水の底でひっそりと息をし、水面で揺らぐ眩ゆい光に憧れている。
 だけど一番眩しいのは、相変わらずでいてくれる事だと思う。






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