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人を視る。


もちろん、目にする「カタチ」が左右する部分も、大いにある、とは思う。
けれど、たぶん、一番はそこじゃないんじゃないか、と思う。

たとえば、このnoteで発信するものが、
日記でもエッセイでも、詩でも物語でも、
あるいは文章じゃなくて、音声でも映像でも、
大事なのはその奥にある「人」なんじゃないか、と僕自身は思ったりする。


それはきっと、
僕が「人」の部分を求めてるから

ってことなのかも。



たとえば「仕事」を追い求める人は、
「仕事」の記事を書き、発信して、
それを喜ぶ「仕事」の相手がついてくる。

僕も「仕事」の部分を持っているから、
その在り方は理解できるし、それを中心に求めたこともあったし、
本棚なんかはその類の本でいっぱいだったりする。

けれど、その「仕事」の部分が必要なくなったら、
途端に離れてしまったりして、本も飾られてるだけになっちゃって、
嫌いになったとかじゃなく、必要じゃなくなったということ。
今、なくても、別に問題ないって感じの、
「仕事上の付き合い」みたいなやつでさ。

それが悪いとか、どうこうとかっていうつもりは全然なく、
でも、そこに「人」ってことを考えたら、少し寂しい感じがして。。

noteでも、「有益な情報」を発信してる時はすごい賑わってたのに、
「自分の話」を書き出したらほとんどスキがつかない人とかを見てさ、
「情報>あなた」って言われてるようで、
なんだか可哀想に思えてしまったんだよね。。。

って、僕なんかが、上から目線で偉そうなんだけど…f^^;



たとえば「数字」を追いかける人については、
正直、僕にはあまりよく理解できなくてさ。。。

例えば、noteでも1000人を超えるフォロワーさんがいたりするのに、
スキもコメントもほぼなかったりして、
本人も記事の内容も別にそれを求めてないような発信を、
それでも日々重ねられてる人とかを目にすると、
…僕はそれを「何のためなんだろう?」って、思ってしまう。。

や、攻撃とか悪気とかじゃなく、
単純に、僕には理解ができないんですよ。。。


「数字」の先には、何があるんだろうか?
僕には「わからない世界」。
InstagramやTwitterのようなライトな発信が喜ばれるSNSなら、
「数字」の意味も、ちょっとはわからなくはないんだけどね。。

ただ、そういうSNSは僕には合わなくて、
僕は一度そこからドロップアウトした人間だから、
そこが「数字主義」だというなら、
そもそも「数字」は僕には合わないもんだってことで、
まぁ、わかんなくても仕方ないや。
そう思うことにするw




発信されたものがあって、
それを「素敵だ」「面白い」と思って、
意識はその奥の、「それを発信した人」に向く。

僕は、そんな感じなんです。
そういうふうに、求める。

この人は、こういう人だ。
こういうとこが魅力的だ。


出会い、知ったら、理解して、そこから好きになって、求める。
そんな感じ。
これって、「ブランド」がファンを作る流れと、同じだったりするね。
「発信する人」という「ブランド」ってこと。

たぶん、僕はそういう「人」と向き合いたいんだ、と思う。

毎週水曜日に、勝手に「スキレター」を書くようになって、
気づけば対象が「記事」じゃなくて、
その奥の「人」について言及するようになってる気がして、
そんなことを思ったので、
今日は思いつくままに、こんな記事を書いてみました。

性分なのか、職業病なのか、
「記事」という手前の「発信アイテム」についてだけを視るよりも、
その「人」が書いたものとして、「記事」を通してその「人」を視たい。

そこまで視られて、やっと自分の欲求が満たされる感じがするんですよね。
あくまで僕個人の欲求ですが笑



たとえば、ここで行間をあける感性が好き、とか、

表現が音楽的な感じの印象で心地いいな、とか、

詩でもエッセイでも仕事記事でもセンスを感じる人だな、とか、

音声になっても記事の文面の印象と同じだから聞いてて楽しいな、とか、

干しいもを前に出そうとも、実はこの人の洞察はいつも深いんだよな、とか、



僕は「人」を視たい。
視ている。
視てしまう。


コンサルって「仕事」だ何だと申しておりますが、
すでに常日頃から僕はnoteでは、
色々な、「その人」という「ブランド」を、
視ているんだなと思ったのでした。



人を視る。


…って、この曲のタイトルみたいにしたくて、
この「記事タイトル」で書き始めてみたっていう、今日の記事でしたw


人を視る。



読んでいただき、ありがとうございました*

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最後までお読みいただき、ありがとうございました!頑張って書き重ねていきますので、是非またお越しください。