けがれ


誰も口を開こうとしない、鬱々とした夜だった。

ここは白砂漠の外れに位置するツンドラの一帯である。どこまでも続く穴の奥底のような暗さが広がっている。その日はやけに、白い砂肌に闇が滲んでいた。普段はわずかな光も反射して煌めいている砂漠だが、今晩はどうやら様子が違う。一部の少数遊牧民と家畜、そして過酷な乾燥地帯を生き延びる進化を遂げた種のみが息をする大砂原だ。それなりに生き物の気配がしそうなものである。しかし今晩はどうやら違うらしかった。足跡ひとつ、呼吸音ひとつない静寂は、黒幕を被された鳥籠のようだった。ポツンと建っている、馴鹿の毛皮製の広々としたテントが見える。移動式の住居だ。周りには夥しい数の馴鹿が座り込んでいる。強引に扱われてもなお破れる気配のなさそうな毛皮は、砂漠の静寂に一線を画していた。毛皮の奥には人の気配があった。テントの天辺から、一本の煙が天へと立ち昇っていた。大きなテントの皮布を支える柱は骨を削ったもので、白く乾いた骨は太く頑丈であり、一族の眠りを保障するものだった。だだっ広い地平の外縁にただ立ち尽くすテントの中で、人々は円になって座り込み肩を寄せ合っていた。老いも若きも皆眉間に皺を寄せ、あるまじき瞬間に備えていた。一族が集まっての集会は珍しいため頑丈な柱も仕事のしがいがありそうなものだが、生憎今晩は誰1人として眠ろうとはしなかった。女が慌ただしい様子で走ってくる。

「う、産まれました!!」

女はテントに入るや否や、大声でそう言った。ドウっと人々はざわめいた。皮でできたテントは良く空気の振動を反射し、人の鼓膜はビリビリと鳴る。声を出したのは手前の若い衆で、中腹に座る大人たちは仕切りに姿勢を整えては布を擦った。1番奥の老人たちは沈黙不動を貫いていた。騒めく一族の若者たちは仕切りに目配せをし、誰が先に現場に行くのかを図っていた。…思いがけず、産声が反響する。果てしない砂漠に響き渡るのは、不器用な赤子の声であった。ギャアギャアと叫ぶその音は、人の赤子とも他の動物の鳴き声とも思える声であった。

「私が見てきましょう。」

中腹に座る大柄の女が、静かに申し出る。髪は白く艶やかで、足の筋肉は馴鹿のソレとも劣らぬ強靭さを持っていた。奥の老人たちは、無言で頷いた。
 

「…あの娘が妊娠を?」

時は約1年前に遡る。娘の妊娠の噂話は忽ちに民族全体へと広がった。まるで水に血を一滴落としたかのようだった。噂の内容はといえば、相手は誰か、いつ発覚したのか、認知はするのか、婚姻は…といった様子であった。普段であれば渦中の一家がことの顛末を公にするか、口利きの者が上手いこと話を年長者に伝える。しかしどういう訳か、娘の家族は一切の動きを見せなかった。まるで何事もないような振る舞いである。何事もないような振る舞いではあるものの、頬が異様にこけているのに気づかぬ者はいなかった。そのくせ、娘の家族に一言なにか尋ねようとすれば、目を見開き逃げるように立ち去ってしまう。遊牧という生業は一族で動いているのだから、そして妊娠という重大な出来事とあれば、すぐに誰かしらに報告すべきであろう。中々報告しようとしない娘一家に耐えかねて、族の年長者が問いただした。呼び出されたのは娘の母親である。母親は初めのうちは抵抗し、妊娠はただの噂であり事実無根であるとした。しかしながら長老達の圧に負け、娘の母親は渋々口を開いた。娘は妊娠していること。娘は今健康であること。しかし相手が分からないこと。娘は特段出かけた様子も、人を呼び寄せた様子もないこと。ぽつぽつと話しては、困ったように首をかしげるのである。それもそのはず、娘は言葉が話せなかった。一族の中でそのことを知らない者はいなかったが、娘と関わろうとする者も同様にいなかった。娘はよく外を歩いては、はるか遠くを見つめるのみであった。喉の問題か、頭の問題か…文明から離れて遊牧で生計を立てる一族には皆目検討がつかない。人々は彼女の存在には敏感だった。中には彼女を神格化する者さえいた。言葉は話せないが、文字は操れた。そして娘は大層奇妙なことをよく綴るのだ。母親への妊娠通告も、彼女の手記にて行われたようである。

我が健康を祈り
神から御霊を授かり受けて
晴れてから身籠った
Oyunの血を
どうぞ宜しく

「Oyun…これが相手の名だろうか」
「いいや、そんな名の者は聞いたことがない」
「他の部族と接触したってのかい?」
「けがらわしい」
「我々の住まいから追い出すか?」
「再来月にはこの地の塩も苔も馴鹿達が食いつくす」
「移動の時に置き去りにすれば良い」
「そりゃぁいいさ」

「すみませんが」
老人たちの話に割り込んで、ガタイの良い女は話し出した。ガタイの良い女は、長老共の話を盗み聞いていたようである。テントの丈夫な布が僅かに揺れた。

「Oyunは私の相棒の名です」

「相棒?其奴はどこにいる」
「連れてこい」
「話を聞こうじゃないか」

「すぐそこに居ます」

太く凛々しい指で示したのは、艶やかな毛皮の雌馴鹿であった。

______________

女と雌でどうやって子どもを作るのか。それは誰にも分からなかった。一族で頭の良いとされる者が集まり、過去の伝説や口承の昔話、老婆の遺言、占い師の予言に至るまでを集約し、こねくり回した。ウンウンと唸りながら1つのテントに籠る様子はいかにも血迷ったようであった。彼等のうち1人が言い出した話では、外来の宗教の中に処女で身籠った女がいるという。はたまた別の神は、男でも獣を孕んだという。三日三晩続いた知識人の考察も、結局は所詮一部族の伝承に留まるばかりであった。

「すみませんが」
ガタイの良い女はテントに入っていった。身振りが大棒であるために、移動式住居であるテントの布は大きく揺れた。疲れて瘦せこけた知識人達は、充血した瞳で女を見る。

「想像妊娠という話は馴鹿でも稀にある話です」

「…というと?」

「馴鹿でも敏感な季節となると、ごく稀に交尾もなしに妊娠の兆候が現れのです」
「例えば?」
「…腹が膨れてきたり、乳房が腫れて膿がでたりします」
「人間にも起こるのか?」
「それは…分かりません」
「その場合、どんな赤子が産まれるのだ?」

疲労困憊の知識人は、早口に女に問うた。口の端には泡が溜まっている。女はしばらく考え込んだが、思いだしたとでも言いたげに指を鳴らしてこう言った。

「馴鹿や他の動物の場合、想像妊娠だと赤子は産まれてきません」

知識人達は強張った肩を緩ませた。一気に空気がどんよりと重苦しくなる。苦労が水の泡とでも言いたげにはぁと息をつくと、皆がそれぞれに立ち上がりぼんやりと歩き出した。ブツブツと文句を言いながらテントの外へと出て行く者もいた。どうやら、妊娠はしていないと彼らの中では結論付いたらしい。

「偽のけがれか」

言い残すように誰かが言った。ガタイの良い女は、彼らを呼び戻そうとした。これまでにないことが起きるやもしれぬと。しかし、彼女の呼びかけを聞こうとする者はいなかった。彼女はひとり、汗臭い毛皮の匂いの充満したテントに残された。辺りをさらと見回すと、一枚の紙切れが落ちている。ガタイの良い女は、馴鹿の如く強靭な脚をどしりと曲げてその紙を拾い上げた。それは、彼女の書いた手記であった。

早朝。地平線からやや上に位置する太陽は、平行線を描くように弓形に移動していく。太陽が砂を照らし、キラキラと眩しい日が出ていると空気も温まり、普段身につけている分厚い毛皮のコートも不必要であった。珍しく表皮に汗が湧き出、塩分欲しさに幼い馴鹿はやや大きめの石ころを舐める。ガタイの良い女は光が網膜に染みて目を細めた。彼女は、主に馴鹿の飼育を行なっている者だった。通常は馬などに乗り猟犬を侍らせたりするものだが、彼女はやや特殊だった。彼女は馴鹿に乗り馴鹿の群れを扇動するのだ。砂の上に寝転んだ馴鹿達の瞳孔も、朝日を直に受けて黒く細長くなっている。最近はどうも日の出ている時間が短くなり、夜が段々と長くなっていた。馴鹿達は久々に浴びる日の光に喜んで、互いに身を寄せる。群れの中で最も凛々しいOyunは、静かに立ち上がると日の滑る方向へ歩いていた。Oyunは、群れのリーダー格の1匹であった。ガタイの良い女は幼い頃からOyunを飼い慣らし、群れの移動の際には馴鹿社会の地位を有効活用した。Oyunの足跡は彼女の体重相応、砂肌にくっきりと印として残った。一定の心地よいリズムで左右に揺れる馴鹿の肩は、太く頑丈な骨が厚く丈夫な皮を押し上げている。彼女の向かう先は太陽だと思われたが、次第にそれは誤りであることに気づいた。砂丘の頂上にて、朝日に染まる空に手を伸ばした人間がまるで砂の彫刻かのように佇んでいる。人間であると気が付くまでに時間がかかったのは、太陽が砂に反射して眩しかったためであった。手を天へと掲げる人間の目は虚ろであった。ぼんやりと砂の海を眺めている。いや、太陽の滑る地平線を凝視しているのだろうか。腹部の緩やかな曲線は、妊婦のそれであった。Oyunは静かにその者の足元へと座り込むと、大きな角の前方を砂に埋めた。人間は、さもそれがあたりまえかのように自然と角に腰掛ける。ガタイの良い女はその様子を神妙に見つめていた。Oyunはゆっくりと立ち上がると、その場にヒシと動かなくなった。角に腰掛けた人間は、更に手を天へ伸ばした。空から降る何かを掴みたいのだろうか。ガタイのいい女は圧倒されてその場から動けなかった。Oyunが慣れない人間に、角を触れさせるとは。まして、頭の上に人を……

「お嬢さん、危ない、今すぐ降りなさい」

ガタイのいい女は思わず声をかけていた。しかし人間は聞こえていないのか、振り向くことすらしなかった。人間は不思議なカールの白髪を弛ませながら、天を仰いでいた。
 

「私が見てきましょう。」

ガタイのいい女は先陣を切ってテントを出てきたものの、何が産まれたのか見当もつかなかった。人間は単為生殖など不可能であるはずだ。そもそも哺乳類は雌雄が揃わねば子はできぬ。そんな事例、聞いたこともない。馴鹿でも稀有な事態である。しかし先ほど確かに聞こえたのは、赤子の産声であった。紛れもない産声である。ガタイのいい女は、隔離された出産小屋へと駆け付けた。簡易テントではあるが、母体が冷えないよう何重にも毛皮で囲われているのだ。何重もの毛皮を捲り、彼女は中へと入っていった。簡易テントの中腹へたどり着くと、そこでは数人の女達が忙しそうに動き回っていた。女達はぎゃあぎゃあと劈くような音を出す赤子らしき生き物に群がり、何かをしている。産み終えた娘は意識がないのか、女のうちの1人に汗を拭かれたり声を掛けられたりしてもピクリとも動かない。手足は異様に紫がかり、反対に顔は腫れあがるほどに真っ赤であった。そこら中に血が飛散している。止血が済んでいないのか、娘の股下からはぼたぼたと血が流れ出ていた。

「お姉さま方、娘の方を!私がその赤子を見ています」

「分かった!おいマル、そこの布を取れ!」
「力を掛けるぞ!せーの」
「この娘はもう駄目かもしれんな……」

医者を呼べなかったのは頭の固い長老共の所為であった。出産はしないと決めつけていたのだ。ガタイの良い女は一瞬嫌な予感を感じたが、そんなことを考えている暇はないと思考を切り替える。動いていないのにもう既に汗がにじんでいた。緊迫した現場で彼女のできること、赤子の世話くらいである。赤子は…

「半身が、獣」

上半身は人間、下半身はまるで馴鹿の脚のように奇妙に足が折れ曲がっていた。下半身は別の生き物のように懸命に地面を蹴ろうとしている。しかしながら、上半身は人間であるために生理的早産となっているようだ。立ち上がれるほど、脚は成熟していなかった。それ故に立ち上がれないのだ。完全な馴鹿の赤子であるならば、生まれた後すぐに立ち上がるだろう。一方で人間は大きな脳が産道を通れる程度までしか子宮内で成長させることはできない。つまり生まれた瞬間から既に生まれるには早すぎるのだ。故に立てぬ。馴鹿の脚を持ってしても、立ち上がれないのである。懸命に駆け出そうとする本能と、体の成熟度が合っていないために奇妙な暴れ方をしていた。柔らかい蹄が何度も白い布に押し付けられる。ガタイの良い女は、この赤子が確かに人間であることを確信した。四肢の発達をおざなりにしても頭を守ったのだから、この子はきっと頭の良い子になる。臍の緒が適切に切れているかを確認した後、力強く動き続けようとする両足を抑え込むように毛布で包んで籠に寝かせる。体温が冷え切らないよう、毛皮の切れ端を籠の内側に添えておいたのが功を奏した。赤子は依然として泣き続けた。母親の息吹を返そうと励むように、懸命に呼吸していた。
 

「では、私が出ていきましょう」

ガタイの良い女は、ひげを蓄えた長老たちや中位の男性たちに囲まれて静かに言い放った。それは、酷く晴れた日のことであった。雲一つない快晴である。一族の者達の陰鬱とした心情を逆撫でするように、白砂漠の砂は一層輝いていた。出産後、娘は目を覚ました。しかし半身不随となった。口もきけず動けないとなれば、あの娘は育児などできまい。奇形に生まれた赤子を育てるのは困難を極める。変な娘の産んだ奇形の子どもを育てたい人間は、悲しくもその一族にはいなかった。娘の母親も今回の一件で相当に気を病んでいるらしかった。運悪く、男親はいない。親族間の見苦しい赤子の押し付け合いは起こりえないのはやや救いかもしれないが、親族が片側しかいないというのは辛いものがあった。辛さに耐え兼ねた娘の父親は、責任は長老とその取り巻きにあるとして長老達の元へ殴り込みに入ったという。娘の父親は、己が育てるという選択肢は初めから頭に無いようであった。初めは怒り狂っていたものの、次第に長老にうまく言いくるめられたらしい。ガタイの良い女が想像妊娠であると発言したので医者を呼ばないという決断に至ったと長老たちは語った。長老達は強硬な姿勢で、ガタイの良い女が馴鹿の長を手懐けていたために強く信頼したと強調した。ガタイの良い女が何を言っても、長老達はその一点張りであった。ガタイの良い女は最後にひとつだけ、と、先日拾った娘の手記を見せながら言った。

「この手記は娘が、あなたがたに託されたものなのではないですか。これはテントの地面に落ちていた。それがどういう意味を持つのか、あなたがたには分かりませんか。長老殿、あなたが真面目に彼女の将来を検討したとは言えません」

長老達は、生意気とでも言いたげに鼻を鳴らした。静かにその態度を見届けたガタイの良い女は、籠に入れられた半獣の赤子を抱き上げるとカッと目を見開いて人々をひと睨みした。青い瞳は黒々と濁り、瞳孔は横に引き裂かれたようだった。人々はその凄みに恐れをなして、後ずさりした。ガタイの良い女は赤子を胸に抱き、走った。広大な砂漠をただ走った。彼女の足跡はくっきりと砂肌に刻まれた。走り去る後姿を見送る人間は誰一人としていなかったが、見送る馴鹿はいつまでもその後姿を見つめていた。ほどなくして、ギラギラと輝いていた陽は先ほどまでの晴天とは打って変わって雲が掛かり始める。珍しく風まで吹き始め、風は砂肌を攫い、次第に砂塵をまき散らした。彼女の後を追って何匹かの馴鹿が走り出し、蹴り上げた砂は風と一体になりて渦を巻いた。酷い砂嵐になりそうだと、誰かが呟いた。


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