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復活の乙女 -ジャンヌ・ダルク外伝-

1436年5月
フランス ロレーヌ地方 メス

一人の男が街頭に立ち、興奮気味にわめき散らしている。
「復活したのだっ! 間違いない。私は見た、声を聞いた、あのときのように私の額に十字を切ってくれたっ!」

その身なりは、襟を立てた白いシャツに青いチョッキ。その上から赤いハーフコートを羽織り、白いズボンに皮のブーツを履いている。手にはドラゴン細工のステッキを握って、それを振り回していた。
そのどれも高級品であるが、いずれも煤け、汚れている。

幅広の帽子から覗く青白い頬と、やはり青みがかった伸び放題の鬚が、正気と狂気の間で彷徨う男の精神状態を表していた。
その大声に、野次馬が集まってくる。

フランスは百年戦争の末期で、戦闘が減っている。それに伴ってお払い箱になった傭兵たちが街に出て、戦記軍記の語りで小銭を稼ぐ姿はさほど珍しいものではない。

今や戦禍は昔話になりつつあり、平和を謳歌する人々はあれほど恐れていた戦いの話を、自ら進んで聞くようになっていた。

「痴れ者かっ? まあいいや。おい、ナニを見たって? ヒマ潰しに聞いてやるよ」
人々はまるで大道芸人でも見るかのように、野次をとばした。

「ジャンヌだ、ジャンヌ・ダルクだっ!」
男の絞り出すような声に答えたのは、大笑いである。
「馬鹿なコトを言うもんじゃねぇぜ。ジャンヌはな、5年も前に火あぶりにされたんだよ。火あぶりになった者が復活できないのはウチの子供でも知ってるぜ。なんせ、灰になっちまってるからなぁ。異端者や魔女が火あぶりにされる理由を知らねぇのかい? やっぱコイツ、痴れ者だわ」

「ぐぬぬっ! 本当だっ、本当なのだっ! ジャンヌは復活して私の額に十字をっ! それを笑った貴様らにはいずれ罰が下ろうぞ。おお神よ、この哀れな子羊たちをお許しください……」
さんざんわめいた挙句、祈りだした男の滑稽さに人々は腹をかかえて笑い、中には小銭を投げる者さえいる。

「なんだ、軍記物じゃなくて新手の芸か? 最初っから言ってくれりゃいいのに。でもよ、芸のツメが甘いぜ。だってよ、ジャンヌがなんでお前さんみたいなヤツに十字を切んなきゃいけねぇんだよ?」
「がはははっ…… そりゃそうだ。おい、どうなんだ?」

男がスッと背筋を伸ばすと、虚ろだった視線は宙に向かって焦点を結び、青白い表情にほんの少し、赤みがさした。そして、これまでの興奮した語り口を抑えて言った。
「それは、私はジャンヌと一緒に戦ったからだ。戦いの前に、彼女は必ず私の額に十字を切り、祝福を与えてくれた。だから私は命をかえりみずに戦えた……」
「ほほう? じゃ、お前さんは誰なんだよ?」

「私は、ジル・ド・レだっ!」

そのとき、街路の向こうから複数人の叫び声がしたかと思うと、慌しく駆け寄ってきた。
「いたぞっ! 領主様っ! 何をなさっているのです、ブルターニュの城に帰りましょう!」
騎士に指揮された数十人の兵士が人々を押しのけ、一斉に男を取り囲んで説得しはじめる。
「ううううるさいっ! お前たちまで、領主たるこの私の言葉を信じないのかっ! 本当にジャンヌだった、私は見た」
「はいはい、ジャンヌ様でしょう、そうでしょうとも。我々が領主様を信じないはずがありません。心から信じております。だからブルターニュに帰りましょう。さあ!」
「なんだそのカワイソーな子犬を見る目つきはぁ! 私は貴様らの主人だぞ、しゅ、じ、んっ! 疑われたまま城になど帰るものかっ」
「疑う理由がありません。えーと、そう! わたくしも実は見たのです。あれは確かにジャンヌ様でした。なぁ?」
騎士から水を向けられた兵士が相づちをうつ。
「え? ああ…… ジャンヌ様でした。確かに」
従っていた兵士たちは、一様に引きつった笑顔を浮かべながら同調した。「そうです、ジャンヌ様ジャンヌ様」
「うん、間違いない。あれはジャンヌ様だった」

それでもソッポをむいているジルを見て、騎士はその場に集まっていた人々を振り返り、鋭い視線を投げる。
「おい、おまえたちの中にもジャンヌ様を見た者がおるだろう。なあ? そうだろう?」
そう言いながら、腰の剣の鍔をグイと上げ、チラリと刀身を覗かせる。それを見た人々は発言をコロリと転換させた。
「あっはいはい! 見ました見ました! ジャンヌ様でした」
「そういえばオレも見た。昨日なんてウチの店で野菜買っていったぜ」
「おとといはライ麦を」
「その前は服を」
「いやいや、うちにも来てありがたい話を聞かせていただいた」
「うちもうちも……」
話は尾ひれをつけ、その場は一種の興奮状態に陥ってゆく。

目の前にいるのが本物のジル・ド・レならば、彼が叫んだ『ジャンヌの復活』という言葉も、人々はごく自然に受け入れることができた。当時、絵画のモチーフで多かったのは『キリストの磔刑』、『受胎告知』、そして『キリストの復活』である。もちろんそれは教会に飾られ、人々は幼い頃から定期的に通っているので、”復活”という単語は特別な響きを持って心に届いていた。

この頃は一般的に、人間は必ず復活すると信じられていた。ましてや奇跡の乙女、ジャンヌ・ダルクである。火刑とはいえ、もしや…… という想いが人々の胸に芽生え始めていた。
さらに、騎士が脅しで見せた剣が、決定的役割を果たした。

封建の世で生きる人々は、信仰に恐怖が結びつくと、いとも簡単に心と膝を屈する特徴がある。そして、同調する。
多くの情報の中で真実が占める割合が低くても、人々の心にある恐怖を煽ることによって、信じさせることはたやすい。

そして、ジャンヌを見たという噂は、信仰という熱を帯びて飛び火していった。
オルレアン、ドン・レミ、マルヴィーユ、ラオンなど、まずジャンヌに縁のある地域に広がった。しかし、まだその時点ではニセモノ説が有力で、噂も下火になりかけたころ、

「間違いなく、妹でした……」
ボークルールで下士官として軍役についていた兄のジャンが、ひどく怯えた様子でそう断言したと伝えられた。身内の証言であることと、取り乱したその様子から信憑性があると思われて、それが追い風となり、とうとうフランス王、シャルル7世の耳にまで達したのだった。

※※※

「王よ、パリは戦々恐々としております。ジャンヌが軍を率いて攻めて来るのではないか、と手紙が」
「そうか」
シャルルはそう言ったきり、侍従武官、二コール・ローの差し出す手紙に見向きもしない。
「あのう……」
判断を促そうとするニコールに、シャルルは忌々しげに言葉を吐き出した。

「パリだと? 奴らはブルゴーニュと手を組んで、いまだ私に従わず抵抗しているではないか。フランス王たる、この私にだぞ? 以前、ジャンヌの強い希望で彼女を派遣したが攻略は失敗。復活したジャンヌがそのときの恨みを晴らしにくると思って、そんな手紙をよこしたのだろう。小ざかしいパリ市民がっ! 今頃泣きついてきても遅いわ。せいぜい怖がらせておくがいい。『ジャンヌの影』を恐れてな。クククッ……」
「王は、噂は嘘だとお考えで?」
「嘘とは言っておらぬ」
「は?」
「二コール、私の話をよく聞け。よいか、私は『ジャンヌの影』と言ったはずだ。ジャンヌはおらんが『影』はいる。つまりだ、利用しろと言っておる。現在、水面下でブルゴーニュ、イングランドと和睦の条件を話し合っているのは知っているな?」
「はい。しかし、ブルゴーニュと同盟しているイングランドが無理難題を言って滞っております」
「そこでだニコール、頭を使え。そのような状況でブルゴーニュ支配下のパリがこんな手紙をよこしたのだぞ?」
「もしや、ブルゴーニュは弱気になっているのでは?」
「そうだ。本来ならば援軍は同盟国であるイングランドに求めるのが筋というものだ。しかし、パリは我々に手紙をよこした。ブルゴーニュとイングランドの同盟に亀裂が入っているのかも知れぬ……」
シャルルはしばらく腕組みをしていたが、唐突に手を打ち、ニコールに指示した。

「よいか、パリに返信する内容はこうだ。『どうすればジャンヌを静められるか、貴殿たち自身がよくご存知のはず。ジャンヌはフランス王にも止めることはできない』とな。まぁ実際、止めることは出来なかったワケだが。『影』ならなおさらだ。ハハハハっ」
「はっ、早速」

そして難航していたブルゴーニュとの和睦は急展開。条約はブルゴーニュがイングランドを無視する形で、フランスに有利な条件で締結された。その結果、ブルゴーニュ・イングランド同盟は破綻。その後、パリは街の門を開いて自らの手でジャンヌの悲願を成就させ、それ以降ジャンヌの影に怯えずに済んだのである。

1440年9月
フランス ティフォージュ城

「ジャンヌ復活の噂は一向に収まる気配が無く、王もご懸念あそばされております。それどころか、ジャンヌはポワティエ、シノンにまで現れて人々を惑わしており、このままでは内乱が勃発し、またイングランドの侵攻を許してしまうことにもなりかねません」
二コール・ローは、ブルターニュに隣接するティフォージュ城に入り、そこで隠遁生活を送っているジル・ド・レに訴えかけた。

日が落ちると肌寒い季節となったが、暖炉に火は入っておらず、城内は暗い。棚から落ちたままの調度品は、城を清掃する者がいないという証に見える。そして、ジルは常に杯を手に酒を飲んでいた。城も人も荒れ果てている。
「噂だとぉ? 本当にジャンヌは復活したんだぞぉ…… ヒック、うぃ~」
「ではどこにいるのです? いるのなら是非わたしもお目にかかりたい」「いつもいる。今日も額に十字を…… してくれたんだ。綺麗な指で温かかった。ジャンヌぅ~」
「ジル殿、あなたは『フランスを救った英雄』ではありませんか! ジャンヌの噂が原因でフランスが分裂する可能性があるのですっ、何卒、力をお貸しくださいっ」
「英雄だとぉ? へんっ! オレが救いたかったのはなぁ、ジャンヌだけだ。ジャンヌを救いたかっ…… ジャンヌが火刑になったときも、オレは兵を率いて助け出そうとしたんだ! あのときの戦いに勝っていれば、ジャンヌは、ジャンヌはっ…… いや、でもいいんだ、もう復活したんだからな。シャルルだぁ? ジャンヌを見殺しにしやがってっ! 魔女にしやがってっ!」

怒りにまかせて机を蹴飛ばしているジルに、ニコールは静かに言った。
「王は、裁判をやり直し、ジャンヌを復権させるお考えです」
虚ろだったジルの瞳はキッ、と意思を取り戻す。
「あのシャルルが? まさか」
「王は一昨年産まれた御子に、ジャンヌと名づけました」
「なに?」

ニコールは、話を続ける。
「まずは、離散しているドン・レミのダルク一家を元の生活に戻します。そしてボークルール連隊にいるジャンヌの兄を下士官から士官に昇格させましょう。さらにジル様、あなたの治める領地は10年、いや100年でもいい、税を免除いたします。この城も直し、報酬も出しましょう。無論、成功した場合ですが」
「いや、報酬はいらん」
ジルは即答した。酔った口調とは違う、語気の強い、ハッキリした声である。
「ということは、協力していただけるのですな?」
ジルは充血して大きく見開いた眼をニコールに向ける。それは、破約は許さぬという念がこもっていた。

「ドンレミのダルク一家の件、嘘偽りはあるまいな」
ニコールはその視線に命の危険を感じながら、答える。
「もちろん」
ジルは杯を投げ捨てると、グッと身を乗り出した。

1440年10月
フランス バル公領 ドン・レミ村

ジル・ド・レは、体調不良をおしてジャンヌの故郷、ドン・レミ村に足を運んだ。
家から飛び出すように出迎えたのはジャンヌの妹、カトリーヌである。
「ジル様! 遠路はるばる来ていただけるなんて思いも寄りませんでしたわ。さぁ、お入りください」

ジャンヌと瓜二つであるが、ジャンヌが生前あまり見せなかった、満面の笑顔で駆け寄ってきた。ジルの青白い顔にも笑顔が戻る。
「いや、これでも忙しい身でな。相変わらず領地争いで四苦八苦している。ここは平和なようだな。カトリーヌ、静かな場所にいかないか。そう…… 教会がいいな。二人で少し話がしたい」
「はい。喜んで」

カトリーヌはジルの乗馬の手綱を引くと、教会に向けて歩き出した。
「見てください! ジル様のおかげで、荒れ果てていた村も元のようになりました。ほら、あれが教会です。ブルゴーニュ兵に何度焼かれたことか。でも今は建て直すことができて、あのように、綺麗に」
「私の力ではない。カトリーヌ、お前がフランス中を駆け回ってくれたからだ。しかもあの短期間でな。その努力の成果だ。今日はその成果を実際にこの目で見届けたくてやってきたというワケだ。家の方はどうだ? シャルルは約束を果たしたか?」

教会に到着し、ジルは下馬して扉を開く。そこはステンドグラスからの透過光で彩られたベンチ椅子が並んでいる。二人は腰掛けると、カトリーヌが答えた。
「はい、わたくしがフランス中を駆け回っている間、ジル様につれられて母が王に謁見して『お前はニセモノだ』と言われた後、すぐに復活騒ぎは収まり、姉さんの復権が叶いました。それから姉さんの異端認定後、凍結されていた遺産をいただけることに。それが膨大な額で…… 元の土地を取り戻せるどころか、使用人を雇って耕作地を増やしたり、みんなで使う橋をかけたり、このとおり教会も立派に建て直すことができました。でも、離散していた家族が、また一緒に暮らせるようになったのが一番嬉しい…… ジル様にもお礼を、と言ったのにジル様は」

「ジャンヌは全くカネに手をつけていなかったからな。ジャンヌが使わなかったカネを私が使うなんてできるワケが無いだろう? お前たちとジャンヌの故郷しか、それを使うことは出来ない。ともかくシャルルは約束を守ったのだな。安心した」
「どのようなお約束だったのですか?」
「ああ、シャルルがお前の母親と謁見してジャンヌの偽者だと断定すれば、フランス中に広がったジャンヌ復活の噂は一気に収束する。また、愛する娘を想うあまりの母親の行動とすれば、人々の同情が得やすいから罪にも問われない。ニコールは私にこう言ったよ。『騒ぎを収めるため、ジャンヌが死んだことにしてくれ』だと。聞いたときは笑ってしまった。死者を死んだことにしてくれと言うのだからな。そのかわり、ジャンヌの異端認定を取り消し、ジャンヌの遺産は全てダルク一家に渡す、ということだった。ずいぶんと焦っていたな。噂を信じた者によって内乱が起きる寸前だったらしい。しかし、オレに言わせれば、それはシャルルがジャンヌを見殺しにしたのがそもそもの原因だ。つまり自業自得ということだから、この取引はシャルルにとって安い買い物だったのさ」

「もう一つ、聞きたいことが、と申しますか、種明かししていただきたいのです」
「なんだ?」
「ジル様が最初に、ロレーヌのメスで会った姉さんは、どなただったのですか? ご存知のように、それ以降はわたしが姉さんに扮していたのですが……」
ジルは目を伏せ、自分の額に手を当てながら、心臓から言葉を産み出すように、一言一言、丁寧に話した。

「あれは、確かに、ジャンヌだった。あいつはただ俯いて『助けて』と言うんだ。あのときオレは戦に破れて兵を失い、領地争いにも負けて酒びたりだった。でも酔ってなんかいない。あいつが死んでから、いくら酒を飲んでも酔えなかった。そんなオレに何ができる? 聞いてもあいつはただ、『助けて』と。オレは城を飛び出し、誰でもいい、あいつを助けて欲しくて街でわめいた。わめき続けた。あのときほど無力な自分を恨んだことはない」

「でもあなたは、姉さんの願いを叶えてくれた。ありがとうございます、ジル様」
すっと、カトリーヌは立ち上がる。
「まっ待ってくれ」
カトリーヌが振り返る。ジルにはもう、ジャンヌとの見分けがつかなかった。

「最後に、祝福を、頼みたい」

そう、ジルは願い、瞳を閉じる。
カトリーヌはジルの前に立つとその額に指をあて、十字を切った。
「ジル様…… もう姉さんのことは忘れ、これからはジル様の人生を生きるのです。あなたに神のご加護があらんことを」
「ジャンヌ……」
思わず呟いたジルに、カトリーヌが優しく、しかし悲しげな声で囁いた。

「姉さんは復活しませんよ。火刑ですから」
「なんだって?」
瞼を開くと、カトリーヌの姿が無い。静寂な空気に人の気配は感じられなかった。

「カトリーヌ?」
ジルはフラフラと教会を出て、隣接する墓所へと入ってゆく。
「カトリーヌ、どこにいるんだ、出てきてくれ。お前まで、行ってしまうのか」

気がつくと、ジャンヌの墓の前にいた。その隣には身を寄せ合うように傾いた、ひとまわり小さな墓石があった。
ジルは、そこに彫られている文字を見る。

「カトリーヌ・ダルク……」

それはジャンヌの墓より、何年も前に作られたものである。
ジルはガクリと地面に膝をつき、二つの墓を両手で抱きしめていた。


その後、忘却を拒否したジルの生活は荒れて、彼もまた、ジャンヌのもとに旅立っていった。


カトリーヌによる、魂の祝福も虚しく、ジャンヌと同じ、火刑によって。

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