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登山道の『通りゃんせ』

「あそこでキャンプですか…… そんな場所ありましたっけ?」

 男にとって、何気ない私の質問は、とりとめなく、あたりさわり無い会話に、グサリとメスを入れたような、そんなものだったのだろう。
 リラックスして弛んだ目尻が少し上がり、教育者らしいジッと観察するような瞳を私に向けて、言った。

「その場所を知ってるのか。今は観光客が多いからキャンプは無理だよ。まぁ、キャンプ場でも無いしね。でも昔は閑散としていて、テントを張る場所もあって、ふた月に一度はキャンプしたもんだ」
「僕も以前はよく行きましたよ。と言っても観光地の方じゃなく、山の方ですが」
「おれがキャンプしていたのも、海側の観光地じゃなく、山だよ」
「そうなんですか。あそこは山だらけですが、どこの?」
「T山だ」
「T山……今でも行かれるんですか?」
「ああ、時々。気晴らしに単独で登るにはちょうどいい山だからな」
「……」
 そこで、私は口をつぐむと同時に(山の名を確かめてよかった)と思った。

 私もその山に登ったことがある。しかし、ある事をきっかけに、行くのをやめたのだ。
 その男は今でも時々行くと言う。だから、私はT山で体験した出来事を話すわけにはいかない。
 私は男の興味を削がないよう、しかし自分の体験には触れず、会話を繋ぐ。
「僕も、T山に行ったときは単独でした」
 今度は男の方が口をつぐみ、私を吟味するような視線を送ってきた。

 私には、男が、話そうかどうか迷っているように見えた。しかし、その内容をおぼろげに理解できたような、予感めいた感覚があった。
 私への吟味は終わったらしく、男は視線を窓に移すと、真顔になって話し始めた。
「ヘンな話になるんだが、ある日キャンプしていたら……」

※※※

 孤独は男の遊び道具である。

 下界に瞬く生活の明かりは目を楽しませてくれるが、山頂まで照らすことはない。
 登山者にとってそれは、地上を見下ろす神の視点でもあるし、群れからはぐれた狼の視点でもある。

 食事を終え、アルミのコーヒーカップを岩の上に置いて、ラジュース(登山用のコンロ)を片付ける。そしてコールマン・ランプの火を消すと、山中は漆黒の闇となった。
 男は肌を粟立たせるような孤独感を味わいつつも、心の底では楽しんでいた。
「これが男の遊びってもんだよな。山の醍醐味だ」
 夏だが山頂付近なので風が心地良く、ほどよい冷気が男を包んでいる。
 男はひとつ身体を震わせ、テントに入るとシュラフにもぐり込んだ。

 数時間経過したとき、テントの布越しに見えた明かりに、男は顔をあげた。
 深夜である。
「こんな時間に登って来たのか。カモシカ山行(夜に登山すること)ご苦労さん」
 熊や猪が出る山でもなく、また登り口によってはなだらかなので、カモシカ山行する登山客がいたとしてもなんら不思議ではない。

 T山は登り口が2箇所ある。
 なだらかな尾根道と、急な沢登りの古道。そこは急ではあるが、最寄の駅へと続く最短コースである。
「夜に来るくらいだから、駅からの最短コースで来たな。それにしても失礼なヤツだなあ」
 失礼だと思ったのは、懐中電灯の灯りを自分のテントにあてつづけているためだ。
 テントの側面に、右に左に、光芒がユラユラと移動しているのが見える。

 男はだるそうにシュラフから半身を起こした。
「シロートさんか、高校生か、はたまたタダの鈍感か……」
 そして注意してやろうと、テントの入り口のジッパーを開けて語気を荒げた。
「おいっ! ヒトの迷惑を考えろ。懐中でんと…… え?」
 男は絶句した。そこには、ザンバラ髪を顔にはりつけ、雨も降っていないのに全身ずぶ濡れの武士が立っていたのだ。懐中電灯など持ってはいない。

 青い光に包まれて、真っ暗な背景から浮き出るように武士は立っている。低い位置には、白い靄が広がっていた。
 そして、つぶやくように言った。
「海から逃げて来た。山を越えたい」
 駅に続く道と、急な沢登りの古道は、いずれも海の方角だ。
 男は、海の反対側に続く、なだらかな尾根道に、震える指を向けた。
 その瞬間、ずぶ濡れの武士は青い光とともに、しぼむように消えた。

 茫漠たる闇だけを残して。

※※※

「……という体験をしたんだよ」
「武士の特徴を憶えてませんか?」
 興味を抑えきれず聞く私に、男の吟味するような視線はもう無い。
「うん、和服姿で、手足にだけ鎧をつけていたな」
「なるほどぉ。手甲、脛当てだけを身に着けていたんですね。きっと重い鎧兜は脱いで、身軽になって逃げたんでしょうねぇ」
「それは違うだろう。海から来たんだから、鎧なんて最初から着てるワケないじゃないか」
「あ、それはですね……」

 男は、その幽霊が海坊主か舟幽霊のように、海の”中”から来たと思っているのだ。誤解は解かねばならない。
「その幽霊、正確には『”海岸”で戦をして、負けて山に逃げてきた』と、言いたかったんじゃないでしょうか。あの地域は狭いので、戦は海岸でしかできません。それに、今でも海岸で昔の人骨が出るって話ですよ」
「へえ、君詳しいなあ。海岸で大勢死んでるのか?」
「はい、その地域の発掘調査の資料を読んだことがありますが、そりゃもうたくさん」
 男は、しばらく考えるそぶりをすると、確信無さげに口ごもりながら話す。

「どうりで…… いやね、見たのは、ずぶ濡れの男一人なんだが、他にもたくさんいたような気が……」
「なぜそう思うんですか?」
「うん、ミョーに低い位置が白く煙っていて、ザワザワしてたんだよなぁ。それにしても」
 男は話を中断させ、私の顔をしみじみと見て、
「こんな話、あっさりと信じてくれるんだね?」
 と、言った。

 男は某教育機関の創業一族の一人で、それなりの地位にいる。その立場から、このような話を同僚や、まして学生などに言えるものではない。

 話す機会を得て熱っぽく語る様子が、私に伝わる。その表情に恐怖のカケラを見いだすことは出来なかった。
 一度は口をつぐんだ私だったが、この男なら大丈夫だと判断し、自分の体験を話そうと決めた。
 教育者の視線は失せて、ただ山男の実直そうな瞳で私の顔を見、返答を待つ男に私は語りはじめる。

※※※

「僕がT山に登ろうとしたときのことです。いいえ、そのときは登頂していません」
「なぜだ? 難しい山じゃないだろう」
 その通りである。『難しい』という言葉を使うのも躊躇われるほど簡単で気軽な、ハイキングに毛の生えた程度の山である。
「T山での僕の話は、先生(男は私の恩師ではないが、教育関係者なので私はなんとなくそう呼んだ)のお話に比べると、ぜんぜん怖いことはありません。ただ、実際に体験すると……」
 なんと説明して良いのかわからず、口ごもる私に男は何か察したように言った。

「うむ、秋ちゃんの気持ちはわかる(彼は、なぜか僕の下の名前ではなく、名字を略してちゃん付けをしてきた)。なんというかその、いわゆる『怪談話』ではないから、『そこに行ったらこんな体験をした』というだけで、オチが無いんだよな?」
「そうそう、そうなんですよぉ! 話に起承転結が無いんです。怪談話であれば、例えば旅館で夜、不思議な体験をしたら次の朝、御札があったとか、旅館の主人が『実はその部屋で自殺が……』なぁんて話が必ず最後にあって、オチがつくんですが、体験談なのでそれがありません。だから怪談を期待しているヒトにとってはつまらないんですよね…… 実は僕も一度、人に話したことがあるんですが、『それで?』って言われまして。たははは……」
「うむ、本当に恐怖体験した人は話したがらない、って言うが、それが理由なのかも知れんな。で、おれはそれを承知の上で秋ちゃんの話を聞きたい」

 私はこっくりと頷いた。

※※※

 T山山頂へは、なだらかな尾根道があり、ほとんどの人がそこから登る。

 それとは別に、私には特に気に入っている登山口があった。N登山口である。そこには小川が流れ、周囲はうっそうとした藪で、山が左右から迫る切通し、という地形なので昼でも薄暗いが、鎌倉時代からの様相を色濃く残す、古道として知られている。

 一般向けではないが、沢登りあり急斜面ありで、小さなスリルを味わえるのだ。
 それでも、登山者にとって簡単な山には違いない。しかし、簡単な山を難しくすることができる。
 天候と時間を選ぶのだ。
 私は、小雨の夕方、という条件を選び、あえて雨具を持っていかなかった。ずぶ濡れで歩く覚悟であるが、時は夏。距離も長くないので自己鍛錬にはちょうど良いと考えたのだ。
 登山道入り口に実っていた桑の実を、一掴み口に放り込むと、私は雨を受けながら登り始めた。

 小川のせせらぎが耳を撫でる。雨が葉を鳴らす音が聞こえる。小さい葉はざわめきのように、大きい葉は粒だった音を奏で、私を包んでいた。
 川を飛び越えると、道は藪が迫って細くなり、斜面も急になる。

 民俗学者の柳田國男によると、見晴らしが良好で登山者が多い尾根道は、日本に趣味としての『登山』という概念が生まれて後に造られた、『新しい”裏道”』とのことだ。本来、樵(きこり)や炭焼き職人、猟師などが使った川沿いの道が『表道』であるという。

『表道』は、猟師などが飲料水を確保するため、川沿いであることが多く、また頂上近くなると突然急峻になるのが特徴だ。
 職業で山に入る人は登頂を目的としていないので、頂上までの道を登りやすくする必要がないためである。

 特徴的にまさしく、私の登っている道が古来の『表道』だった。

 その『表道』の上から声がした。
 子供の声である。しかも複数、人数は多いようだ。「きゃっきゃっ……」と楽しそうに騒ぎながら降りてくる。
 雨の夕方なので、子供達を連れた引率者が急いで下山しているのだろうと思い、私はすれ違える場所を見つけて横に道を避け、その子供達を待った。なぜなら、一人がやっと通れる藪道なので、大勢の子供、ましてや引率する大人とすれ違えないと判断したからだ。

 私は登山道の先を見ながら、待っている。子供達の声は徐々に大きくなるので、近付いてきていると思っていた。
「雨なのによくこの道からおりてきたなぁ。引率のヒトも考えてあげればいいのに」
 そんなことを考えながら待った。遠くてよく聞き取れなかった子供達の声が、ややはっきりと聞こえ始める。

「ん? 歌ってる……」
 どうも『通りゃんせ』らしいのだが、メロディ、歌詞ともに微妙に違う。ただ、『通りゃんせ』独特のリズムなので、そう思ったのだ。
 さらに声が大きくなる。しかし、姿が見えない。私は不思議に思って登山道の先に目を凝らした。
 薄ぼんやりと雨に煙る景色の中から、子供達の歌声だけが聞こえる。

 私は左右に視線を移す。だって、『通りゃんせ』はもう、私の左右から聞こえていたのだから。
 引率の大人なんていない。白い靄が景色を置き去りにして登山道をすーっと降りてくる。
 突然、ぐぐっん、と、頭が重くなった。
「そういえば、通りゃんせって……」
 そのとき思い出した。『通りゃんせ』は、向かい合った二人の子供が両手をつないで上に挙げ、歌が終わったときに下ろして別の子供を捕まえる、遊び歌であることを。

 歌は、私の手の届きそうな、ほんのすぐ近くから聞こえているが、誰もいない。背筋が冷たいのは、雨のせいではない。
「捕まったら、どうなるんだ?」
 私は目眩で座り込む。登山で目眩だなんて、今まで無い。登山しない日は普通に10キロランニングしているが目眩なんて経験したことがない。

 前後左右から『通りゃんせ』らしき歌が聞こえる。「捕まりたくない」その一心だけで、よろけながら立ち上がり、下山を始める。『通りゃんせ』は左右から背後に移った。

 私は背中で、その不思議で聞きなれない『通りゃんせ』の合唱を聞きながら下りる。ゆっくり歩いた。なぜなら、早く歩き、もし転んだら子供達に連れて行かれるような気がしたから、ゆっくりでもいいから立っていることだと思った。もちろん根拠などない。

 来るとき軽く飛び越えた小川は、サブサブと靴をびしょぬれにして渡った。そして、桑の木の前にたどり着いたとき、歌は唐突に止んだ。
 目眩も治まっている。

 落ち着くと、私は自分を疑い始めた。
「いやいや、子供達、来るだろう。一本道だから、ここで待っていればきっと」
 桑の実を食べながら、待った。

 人っ子一人、降りてこない。
 雨が強くなる。しかし、どうしても怪異現象以外の答えが欲しかった。自分の理性を納得させてから、この場を去りたかった。

 山道を戻った? いや、この道は一番嶮しいが、一番街に近く、また駅へ通じている。あそこまで降りたなら、もうその先に嶮しい道は無い。
 大人が一緒なら必ず降りてくるはずだ。もう日は落ちている。今から戻ったら、頂上を越えて尾根を行くころには夜になる。

 大勢の子供を連れて雨の中、夜間に山行…… ありえない。

 私は桑の木を撫でた。イザナギは桃に助けられたが、私は桑に助けられた。
 あの日の桑の実の味は、今もって忘れることができない。

※※※

「今でも、『怪異現象以外の答え』は見つかっていません」
 男は、腕組みをして言った。
「武士だが」
「ずぶ濡れの?」
「ああ。武士の足元にいたザワザワする白いモノ、子供だった」
「なぜそう思うんですか?」
「もちろん顔、姿は見えなかった。しかし、白い靄の中に、いくつもの丸いでこぼこがあったんだ。今の今まで、それがなんなのかわからなかったが、秋ちゃんの話でハッと気がついたんだ。あれは、子供達の頭じゃないかって」
「先生は聞きましたか? 『通りゃんせ』」
「いや、俺は聞かなかった。しかしだな君、その武士は聞いたのかもしれん。しかも秋ちゃんが登山した道、そこは古道で、秋ちゃんはその武士のように、ずぶ濡れで登ってき……」
 そこまで言って、男はハッと気がついたように、唐突に話を止めた。

武士は、海岸で戦に負け、ずぶ濡れの姿で山越えして逃げようとした。山中で『通りゃんせ』を聞いたとしても、僕のように引き返すわけにはいかないのだ。なぜなら、下には敵(おそらく、新田義貞の軍勢)の大軍がいるのだから。

命からがら逃げて来た武士は、やむなく、そのまま登り、子供達の遊び歌に掴まったのではないか。そして、数百年を経て山頂でキャンプしていた男に出会い、その指差すほうへと逃げて山を越え、その魂は囚われの身から解放されたのではないか。

「道を教えて、良かったのか悪かったのか……」
 男は私に申し訳なさそうに言うと、一度、長いまばたきをした。
 つまり、武士に山越えの道を教えず、武士の魂が囚われたままであれば、朧な子供達は代わりの魂を求める必要は無い。よって、私が『通りゃんせ』を聞くことも無かったはずだと、男は考えているようだった。

 私は、男にT山でキャンプした日を聞こうとしたが、やめた。
 男も私が登山した日を聞いてこなかったし、私も自分から言うことは無かった。

 いにしえの、合戦の日は知っている。登山した日じゃない……いや、私が覚えていたのは旧暦の日付だ。新暦に直すと…… もう、やめよう。

 ある夏のこと。その夏は何百年も続き、いまだ閉じていない。


 閉じない夏に捕われては、ならない。

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