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陰ミラー(二) ー義経東下り外伝ー

 踏み潰したムカデの足はまだ動いていた。
 ムカデは、毘沙門天の使者と信じられている。鎌倉殿は毘沙門天を深く信仰している。だから私は、足元のムカデにトドメを刺す事を、躊躇しなかった。
 
 洞窟に隠れ住むなどということは一見、雨風をしのげて良いと思うだろう。しかし、外の雨風はしのげても、洞窟内には常に水が滴っている。水脈によって洞窟が出来るのだから仕方が無い。そして蝙蝠はいる、鼠はいる、虫もいる、しかもそいつらはみな夜に活動する。とてもゆっくりなど寝ていられないのだ。
 食事は夜だけだ。昼間に炊事の煙を上げると追っ手に発見されてしまうし、米を研ぐとヌカが出る。それを川下で発見されればお終いだ。そのような理由で、蝙蝠が目を覚ます頃、私と静様もまた活動を始める。
 だから、お日様には何日もお目にかかっていない。
 しかし、水と食料はある。
 山中には山芋や山菜、タケノコなどがふんだんに生えていた。時には里に下りてお米を盗むこともあったが、生きるためだ。お百姓さんには出世払いで勘弁してもらおうと思う。水は洞窟内の地底湖のおかげで、いつでも清らかな水が飲める。
 
「有綱、いつまでこの洞窟にいるのですか?」
 食糧を調達して洞窟に戻った私に、静様は開口一番そう聞いた。
 追っ手が迫りくる中、食糧調達だって命がけである。しかし、ねぎらいの言葉もない。
 静様は、その質問を毎日一回、必ず言う。私はおきまりの返答をした。
「我が君が助けに来るまでです」
 そう答えると、静様は黙ってしまう。

 私は表面上、主君を信頼しているかのように話した。しかし、それは静様の機嫌を損ねないため、ということは言うまでもない。
 我が君に対する静様の気持ちと、私のそれとは大きな乖離がある。本心を言ったら議論が始まるだろう。こんな洞窟の中で言い争いはゴメンだ。
 
 昨日までは、一日の会話はこれで終了だったのだが、今日の静様はこれで終わらなかった。
「三カ月も経って殿が助けに来ていただけないのは、何か事情があるはずです。殿の身に何かあったとしか考えられません」
「では、どうしろと?」
「この洞窟を出て、殿の元に行くのです」
「良くお考えください。この近辺は既に追っ手がかかっています。食糧調達の際にも、追っ手とみられる武者が見回りをしておりました。今ここを出るのは危険です」
「有綱は殿が心配ではないのですか?」
 心配などと思うワケが無い。私の心には見捨てられた、という被害者意識からくるわだかまりが燻ぶっていた。しかし、面と向かって反論する気持ちも無い。
「もちろん心配です。しかし、私たちがここを出て、我が君の元に辿り着けるならば、それも良いでしょう。しかし、その可能性が薄い以上、出るべきではありません。ここで静様に万が一のことがあったら、我が君の命令に背くことになります」
 主君に仕える武士としては、満点の回答だ。しかし、それでも静様はねちっこく食い下がってきた。
「有綱、追っ手が立ち去る見込みはあるのですか?」
「いつかは、立ち去るでしょう」
「そんな事を聞いているのではありませんっ!」
 静様の感情的で甲高い声が、洞窟内で反響する。
 私はしばし、絶句した。
「しっ静様、落ち着いてくださ……」
「これが落ち着いていられますか! この洞窟はなんですか、せめて民家でも借りることはできないのですかっ? この風体では、殿に会わす顔もありませんっ、ううっっ……」
 怒るのか泣くのかどちらかにしてほしいと思うのだが、ともかく静様は最後には泣いてしまった。
 私は、一つため息をつく。
 
 静様はこのような女性なのだ。
 私はといえば、潜伏ひと月になり、食糧のありかも把握して、だいぶ快適になりつつあった。何よりも飲料水に困らないのが良い。
 洞窟内の水は清らかで、生水を飲んでも腹を下さない。
 水があり、食料があり、人が来ない。この三拍子がそろった場所は、なかなかあるものでは無い。これが私が洞窟から出る事に反対する最大の理由なのだが、もちろん静様には言えない。
 あくまで、我が君の援軍を待つ、というのが表面上の理由なのだ。なにせ援軍が来る、と言い出したのは静様なのだから、反論の余地はないはずだった。
 
 静様は我が君の元に行く、と言いつつ、実のところ洞窟の生活に嫌気がさしたのはわかっている。しかし、出たところで行くあてが無いのだ。
「静様、では、何処に行くと言うのでしょうか? 我が君は別行動を取れ、と命じました。我が君のお許しが無いまま合流する事は、命に背く事に」
「有綱っ、それではまるでわたしが見捨てら……」
 静様はそこまで言うとグッと息を飲んだ。うすうす感づいてはいるのであろう。その不安を、毎日私に語りかける事で拭い去っているのだ。

 静様は言葉を切って、言いなおした。
「ですから、いつまで別行動するのですか、と聞いているのです。殿はわたしに会いたいと、思い願っているに相違ありません。きっと、それをわたしたちに伝える術がないのでしょう」
 希望に満ちてはいるが、相変わらず根拠がない理屈ではある。
 少し意地悪だと思いつつ、私は答えた。
「そうですか。では、お気持ちを確かめる為、我が君のもとに向かいましょう。ただし、この場所が追っ手に囲まれている事は静様もご存じだと思います。二人連れでは、はなはだ危険。ここは私が夜陰にまぎれて囲みを突破し、我が君の元に参ろうかと思います。そしてお気持ちを確かめた上で、この洞窟に戻ります。それからご自身の行動を決められてはいかがでしょうか?」
「わっ、わたしを置いていくと言うのですか?」
 静様の表情に困惑の色が浮かんだ。
「必ず戻ります」
「うっ、嘘ですッ! 有綱”も”、わたしを見捨てるのですねっ!」
「いいえ、嘘ではありません。ただ、静様の言った事を現実に実行するとなれば、そうなる、と申しているのです」
「んくっ……」
 私は子供に諭すように、静かに言った。
「静様、もう、気が付かれているのでしょう? 静様は、我が君に」
「言わないでくださいっ!」
「援軍など来ませんっ!」
 私はそれだけ語気強く言うと静様に背を向け、炊事の支度を始めるため、薪を集めた。

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