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『乙吉のだるま』

明治の文豪小泉八雲は長男一雄と書生を連れ焼津村当目の鰻専門の小料理屋を良く利用した。その場所は瀬戸川というこの地方では比較的大きな川が駿河湾に注ぐ河口にあった。この水辺の風景と川魚を愛したのは、日本で最初に過ごした宍道湖への郷愁があったのだろう。

私の故郷でもある焼津の当目地区には、虚空蔵山と呼ばれる120m余の低山ながら少しユニークな山がある。その裾を、藤枝市を源流とする瀬戸川が流れているのだ。

虚空蔵山の海中に没する崖の表面には、枕状溶岩の痕跡が見られ、この山が海底から隆起したことを明らかにしている。山頂には、聖徳太子が刻んだともいわれる虚空蔵菩薩を安置した堂が鎮座し、牛寅生まれの守り本尊として、また日本三大虚空蔵菩薩の一つともいわれる特別な信仰の対象となっている。

毎年2月23日の縁日には、後に乙吉だるまと呼ばれるようになっただるま市も開かれ、大変な賑わいである。過去には沿道の各家には見ず知らずの人までも入り込み、もてなしの料理のお相伴にあずかる光景が繰り返された。

この縁日を境に、日一日と暖かさを増す焼津であった。ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲は、1890年(明治23年)の4月に来日した。文部省で外国人教師を各地に派遣することを担当していた服部一三の斡旋で、松江県立松江中学校の英語教師として赴任した。

松江は湿度が高く天気も悪いが常にしっとりしていて、生活音ともいうべき足音や物売りの声などのリズムがとても新鮮に感じられる場所であった。八雲は、古い歴史を持ち神々の国とも呼ばれる松江地方に祖国アイルランドケルトとの風習の類似点見つけ深く郷愁を感じるようになっていた。

その後日本人の妻と結婚し小泉姓を名乗るが様々な経緯の後、東京帝大の英文学の講師に招聘され東京へ家族と共に移り住む事になった。そんな生活が始まった明治30年の夏、偶然にも訪れた焼津の海の光景に惹かれ、土地で魚屋を営む山口乙吉宅二階に一夏の避暑を決めたのだった。 

八雲は「霊的感性を持たない人はだめだ。人の精神に触れるには、それを感じるゴーストが、その人自身の中に存在していなければならない」と口癖のように言う。また、日本人は自然に合わせて生きていく、そんな感覚を大事にする人々と思っていた。その事が自身の精神的バックボーンというべき故郷のアイルランドケルトのアミニズムに重ねていたのである。

特に焼津は、日本武尊伝説のある霊的な古い生活風習が数多く残り、松江に似た空気があった。何よりも静岡との境界に続く日本列島の構造線を作る断崖は、波が叩きつけ白い飛沫をあげているアイルランド的原風景を併せ持つ場所であった。


 その様な特別な場所や海で明治という時代の恐ろしいものや霊的なものを感じ、その中から何か普遍的なものを探り出し、書き残すことが晩年を焼津で過ごすことの目的となっていった。

冒頭の小料理屋に話を戻してみれば、この家の主人は、乙吉の懇意にしている者であった。乙吉の案内で最初訪れてからは、船を使い何度か尋ねる様になっていた。松江に似た水辺の風景が気に入ったことと、この小料理屋に目鼻立ちの整った可愛い男の子と一緒に下宿をしていた若い夫婦がいたからである。

当時日本とロシアは戦争に突入しようとしていた。ヨーロッパ出身の八雲は、強大な軍事力を持つ狡猾なロシアの怖さを十分知っていた。もし日本が負ければ、敵国イギリス出身である自分と家族は、酷い仕打ちを受けるにちがいないと心配していた。その世界最強の敵、バルチック艦隊を迎え撃つための新型無線機の実用試験を担当していたのがこの夫婦であった。

八雲は彼らのため少しでも役立ちたいと思ったのだろう。虚空蔵山の山頂に建てられたアンテナから百五十キロ沖合との交信実験のため毎朝子供を小料理屋に残し山頂に出かける夫婦。その間、一人では可哀そうと父八雲に言いつけられ、彼らの幼子と遊んだり面倒見をさせられた一雄は『父八雲を憶う』の中に少し不満げにその様子を書き残している。

この実用試験こそ、世界の海戦史に残る日本海海戦へ向けて開発を急いだ三六式無線機の実用試験であった。日本の完膚無き大勝利に終わったのはこの新型無線機の実用化が大いに貢献したのだ。偶然当所に居合わせた八雲親子がこの様な形で日露戦争史に関わっていたのも興味を湧かせるが当時、焼津のような辺鄙な場所で大海戦の帰趨を決めかねない重要な無線機の実用試験を若い夫婦だけで行っていたのは驚きである。

(無線機開発は帝国海軍の最優先課題として行われた)

虚空蔵山にアンテナが設営されたのは明治36年、日本海海戦まで2年近くその間官民合同で必死の開発に明け暮れたのだろう。焼津ではアンテナのアースで苦労した記録が残されている。八雲親子がその家族と会ったのは、たぶん明治37年と思う。家族で焼津に滞在し、その任に当たったのは、委託を受けた民間会社の社員であったかも知れない。とすれば、神奈川県三崎からの受信記録をとるためだったのだろか。


幾度かの夏を焼津で過ごすうち山口乙吉と八雲の間には、家主と下宿人という関係を越えた微妙な人間関係が生まれていた。人間嫌いの八雲は、これといった親密な友はいなかった。しかし、乙吉だけは「貞実な男。善良仁(よきじん)です。」と常に褒めていた。水産物製造業の私の実家がそうであったように、風通しの悪く、夏の朝夕には、ひどい陽のさす二階の座敷を苦にもせず、おまけに魚臭い蚤のたかった座敷で月余を送ったのは、ただ焼津の海が気に入ったばかりではなかった。

名もない焼津村の一庶民であった山口乙吉に心惹かれたからである。八雲が彼を『乙吉様(おときちさーま)と呼び、雲の上の人である帝大の英文学講師、八雲を「先生様」と尊称した乙吉。両者の交友は、身分関係の厳しい当時においては考えられないことであった。

焼津では盆の最終日の夜、精霊送りが行われた。新仏のある家は、慣れぬ冥界への帰り道を霊が間違えないよう家族の内泳ぎ達者な者が沖合まで送り、それ以外の者は、海に入ってはならないとされた。あの世へ霊魂の道連れにされるという伝説があり危険視された。私の父親の時は、やはり泳ぎ達者な長兄が父親の乗った精霊船を沖へ送った。

死者との別れの悲しみに満ちた夜の海は、数百の精霊船の頼りげないろうそくの火と夜光虫の光が暗闇の中で混じり揺らぎ合いしていた。土地の者が精郎様という霊気が海上に満ち溢れているようだった。八雲は当日、夕方から寝入ってしまい、気が付いた時、精霊送りは終わっていた。慌てて人気のない沖へ流れていく数百の精霊船の後を追って海に入った。

急に居なくなった八雲を気遣い海岸に来ていた乙吉は、暗い海岸に戻って来た八雲に向かい、「今夜の海は精霊様で充満(いっぱい)だにのう。こんな晩になんぼ、泳ぎが達者でも泳ぐもので無あです(にゃーです)。河童だって水中に引き込まれ死ぬことがあるに」と真剣に叱りつけた。

まるで、三つ子を叱るように死者の霊魂に満ちた夜の海の怖さを説いた。またそれを素直に聞き入れる両者の間には、スプリチュアル(霊的)なものを信じ合い、社会的地位など無関係な真に平等な友情があったからであろう。

小泉八雲のアイデンティティの根幹は、ケルト民族の文化であり、宗教である。その帰属意識の根強さは、現在も続くケルトのアイルランド、スコットランド対非ケルトのイングランドとの抗争を見れば理解できる。

ケルトは森の民であり、自然を崇拝する。万象の中に妖精、精霊を認め輪廻転生を信じる。その意味で日本の神道とも近い地域文化の中から発生した土着信仰である。一方仏教は、万象を貫くものとして個性なき縁起を説く宗教であり、絶対不変の個人我を説くキリスト教嫌いの八雲にとって、仏教的な文化、風習、概念は、親近感があったのだろう。


ここからは、本題である小泉八雲の随筆『乙吉だるま』に関した話である。私がこの話を好むのは、だるま像を介して八雲と乙吉のほのぼのとした人間関係が垣間見られるからである。
―私が店先から奥を見渡した時神々を祀まつる棚が見えた。そしてそのカミダナの下に目にとまったのが、それより小さい棚と、その上にのせた赤いだるまであった。

だるまが家の神様として祀られているのを見ても、私は別に驚きはしなかった。日本の各地で、天然痘にかかった子供のために、だるまに願をかけることを知っていたからである。私がむしろ驚いたのは、乙吉のだるまが片目であるという、その変った様子であった。

大きなこわい目が一つ、大きなフクロウの目のように、店の暗がりの中をギロッと睨んでいるように思われた。それは右の目で、つやのある紙でできていた。左目の穴のところは、何もない空白であった。

そこで私は乙吉に声をかけた。「乙吉さん!子供たちが、だるまさまの左目をたたき出したのですか。」「へぃ、へぃ、」と乙吉は私の気持ちを察して含み笑いをすると、とびきり上等の鰹を俎(まないた)の上に持ち上げた。「もとから左目はなかったです。」

「そのようにできていたのかね」と私は聞いた。「へぃ」と乙吉は答えた。「このあたりの人は、盲のだるましかつくりませんです。私があのだるまを買った時は、目は何もついていませんでした。去年私が右の目を入れてやりました。大漁があった日の後にです。」「けれど、どうして両目とも入れてやらなかったのかね」と私はたずねた。

「片目ではいかにもかわいそうだが。」乙吉は、「こんど大吉の日がありましたら、その時に、もう片方の目も入れてやります。」といった。私が村を発つ前の晩、乙吉は勘定書を届けてきた。2か月分の精算だ。そしてその金額はとみれば、どう考えても少ないものであり、思いやりという心づけを含めてやってもなお、その勘定は馬鹿馬鹿しいほど正直なものであった。

せめて私にできることは、その金額を2倍にしてあげることであった。すると乙吉の満足げな、その様子は、まったく自然で、しかも品位の具わったものであっただけに、見ていて何とも言えぬ美しさがあった。

翌朝、私は早い急行列車に乗るために、3時半に起きて着替えをした。しかし未明のそんな時刻でも、温かい朝食と乙吉の小さい娘が、給仕するために控えた。最後に熱いお茶を一杯飲みおえたとき、私は何げなく、まだ小さい灯明のともっている神棚のほうを見やった。

するとだるまの前にもあかりがともっている。それに気づくのと、ほとんど同時に、私の目にとまったのは、だるまがじっと私を直視していることであった。ちゃんと二つの目を入れてもらって

―この八雲の書いた一文には余分な注釈はいらないだろう。7才で事故により片目を失ってからそのことの劣等感と不自由さに悩まされ続けた自身をなぞり「片目だるまでは可哀そう。」という。そして、金銭に捉われない八雲が心からのもてなしに報いる「心付け」を乙吉は、だるまの両目に託し大願成就、感謝の言葉に変えたのだった。それは片目の不自由な八雲への心使いでもあったのだろう。
修正版あり:
https://note.com/rokurou0313/


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