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評伝 ラフカディオ・ハーン

3,神々の国山陰へ
 
ハーンと真鍋青年は神戸まで汽車で行きそれから交通機関を幾度か乗り換えながら松江へと向かった。
 この日本の山陰地方の滞在で重要なことは教義も聖典も道徳規範もなにもなく凡そ宗教に値しないと当時の知日派のジャパノロジスト達が、神道を批判したのに対しハーンが次のように反論したことである。
これはハーンが日本人と同様に母の国ギリシャや妖精の国ケルト(アイルランド)の心を持ち自然事象の中に人を超えた神性を見出す感性を持つことに因った。

 朝霧の杜の木立の中幾筋の光りの差し込む光景の崇高さや高山の雲海を染め上げる朱色の陽光に我々日本人は神性を認める。
それが天照大神と呼ばれる太陽神であろうと無かろうと、その理屈を越えた崇高さに頭を垂れるのでる。

 光りの中に、風の中に、創造を絶する大岩の中に、こんこんと湧く清水の中に人の命をつなぐ何かある基本のようなもの感じ取る感性こそ最も自然で根本的な宗教心の発露である。

世界史的に各地の原始宗教はキリスト教に取って代わられてきた。それらには、素朴な原始的宗教心しかなかったからである。
 神道にも、哲学や体系的な論理、抽象的な教理もない。
そのまさしく「ない」ことによって、西洋の宗教思想の侵略に対抗できた唯一の宗教なのだ。

 神道は西洋の近代科学を喜んで迎え入れる一方で、西洋の宗教にたいしては頑強に抵抗する。これに戦いを挑んだ外人宗教家たちは、自分らの必死の努力が、空気のような謎めいた力によって、いつしか雲散霧消させられるのを見て茫然とする。
それもそのはずで、西洋の最も優れた学者でさえ神道が何であるか解き明かした者は一人もいないからである。

 それは神道の源泉を書物にのみ求めるためだ。現実の神道は書物の中にあるのではない。儀式や戒律の中でもない。あくまで国民の心の裡(うち)に息づいているので、その国民の信仰心の最も純粋な発露、決して滅びず、決して古びることのない表象が、神道なのである。

 古風な迷信、素朴な神話、不思議な呪術ーこれら地表に現われ出た果実の遥か下で、民族の魂の命根は、生き生きと脈打っている。この民族の本能や活力や直観は、ここに由来しているので、神道が何であるかを知りたい者は、よろしくその地下に隠れた魂の奥底へと踏み分け入らねばならない。

 『日本人の魂は、自然と人生を楽しく愛するという点で、誰の目にも明らかなほど古代ギリシャ人の精神に似通っている。この不思議な東洋の魂の一端を、私はいつしか理解できる日が、きっと来ると信じている。そしてその時こそ、古くは神の道と呼ばれたこの古代信仰の、今なお生きる巨大な力について、もう一度、語りたいと思う』

 ギリシャ、ケルト民族に地下に隠れた魂の奥底でつながるハーンの精神構造はそこに同質の日本の心があることを直感した。だから外国人で始めて出雲大社への昇殿を許されたのであろう。仏と神と精霊の国日本で生涯を終えた外国人ハーンはこの時点でまぎれも無い(小泉八雲として)日本人となっていたのだろう。

この後ハーンは島根、熊本、神戸、東京、焼津へとその精神が漂泊するがごとく人生の旅を続ける。

 松江では古歌からとられた自身を八雲と号し、妻小泉せつの籍に入り小泉八雲と名乗るようになった。

その後熊本、神戸、そして東京へと居を変えたハーンはふと立ち寄った駿河の焼津の荒々しい海岸線、明媚な富士山そしてそこに住む住民の素朴さ信仰生活に惹かれ死ぬまでのおよそ7年間、土地の山口宅に避暑と称して逃避行のような下宿生活を送った。

更に詳細の記事を御覧なりたい方は私のNote小泉八雲の生涯1から12小泉八雲の生涯浅原録郎 (note.com)を御覧ください。

4、焼津にて
 静岡県焼津は我が故郷である。明治時代東海道線が開通するまでは辺鄙な日本の典型的な漁村に過ぎなかった。
 私が少年時代、城の腰と呼ばれた海岸通りに小泉八雲が滞在した山口乙吉宅があり子孫ではない誰かが生活の場として使っていた。その家の前には小泉八雲滞在の家という案内板が掲げられていたのを覚えている。今は明治村に移築されて現地には跡形も無い。町も大きな変貌を遂げ、ことに第二次大戦後、内港、外港が整備され鰹、鮪の水揚げでは日本有数の水産都市に発展した。

 私の生まれた場所は焼津市と合併前には小川村と呼ばれた。八雲の書いた漂流の舞台となる小川地蔵尊のある村である。
 奈良時代日本最初の駅制が敷かれた官道東海古道の一駅である。
大井川の東岸、島田初倉駅から東へ一駅、ここから旧焼津市外を抜け日本坂の要衝を越え駿河の安部の市へ抜ける。
万葉集にも歌われた歌数編を残す日本武尊の伝説の地でもある。

 この章ではラフカディオ・ハーンこと八雲の長男一雄氏が書き残した「父八雲を憶う 海へ(焼津八雲顕彰会編)」を参考に話を進める。

 この中で八雲が日常生活の中で示したエピソードはどの様な意味を持つのだろうかといろいろと検証してみた。

 人間の思考もそれによってもたらされる生活も、文化も、科学技術も大自然のうちより生成されたものである。換言すれば、この世界の全てを現しめ、秩序づけている大自然が顕現したものの一部あるいは全体が人間の生活であるといえる。
 幸せでも、不幸でも、争乱でも、平和でもそこにある世界と一体となって生成流転していくものが人間生活の本質である。これを仏教では縁起という。

 縁起し新たな因縁生の繰り返す無常の現世で幸福を追求するということは正しい生活意味を把握実現しつつ生きるということに他ならない。
八雲が日常生活の中で示した幾つかのエピソードはそのことを意識して意味づけしているのではなかろうかと考える。

 明治30年の夏、八雲は家族を連れて始めて焼津を訪れた。水泳の得意な彼は波静かな海を好まず、海も深く波も荒いこの焼津の海が大層気に入り滞在することになった。
 恐らく幼くして離れたギリシャや多感な少年期父の国アイルランドの海の心証が彼をしてこの東海の荒磯の地に呼びよせたのだろう。

 焼津での下宿先は御休町(日本武尊が祭神の焼津神社夏の祭礼時神輿の市内巡行のさい人と神様がお休みする場所が数箇所あり私たちはこの場所を御休みと呼んだ。この章に出てくるのは「北の御休み」である)の魚屋山口乙吉宅2階であった。

 一雄は父が「土地の赤銅色の子供達を決して侮辱してはならぬ。もし焼津の子等と喧嘩する様うな事があれば、それは必ずお前の方が悪いのだ。お前の心に邪な点があるからだ。
 焼津の子供はあるいは粗野かも知れぬが皆正直だ。
決して嘘つきや意地悪は居ないのだから、彼等には常に温情をもって臨め」と厳しくいわれたことを述懐する。
 また寒村で暮らす他の日本人と同様に教育も満足に受けなかったであろう当時の魚屋の亭主山口音吉を次のように語っている。

 彼を「貞実な男、善良仁」と常に褒め貴賎貧富老若男女の別なく誰にでも正直と誠意を以って「ヘヘーイ!」と接してゆく一本調子の好々爺、乙吉をあの人間嫌いの父が東西において全ての友人達のあらや臭みが鼻に着いて我慢しきれずその悉を振り捨てるような場合が来様ともおそらく音吉さんは終生棄てられぬ唯一人物であったろうと信じます。

(当時の日本人の誰でも恐れるように尊敬する当代の東大英文講師、先生様を、誇るべき学歴や何もない魚屋の主人を生涯の友として尊敬したハーンの心情こそが、この土地で生涯の最高傑作と呼ばれる映像詩のような作品、数編を書き上げた原動であった)

 あんなに敏感なデリケートな神経の父が蝿と蚤と蚊の多い、魚の臓腑と干物の臭気が充満している中に漬け浸されているあの南北の風通を閉じた東西に烈日を受ける天井の低い2階の部屋を不平一つ云わずに月余をかりて愉快がっていたのは、ただ、気に入っていたからだけではなかったのです。

 勿論ここには自分一行の他、東京や横浜の人が居ないからでもあるし、煩わしい訪客が殆ど無いからでもありましょうがこれ等もその原因の主たるものでは決してないのです。
 山口乙吉さんの人物に甚だしく心を惹かれたからです。父は、乙吉さんを「乙吉様 オトキチ サーマ」と呼び、乙吉さんは父を「先生様」と呼んでいました。子供心にも余りに極端な賛辞だと思ったのは父が、「乙吉は様神様の様な仁です。」と云う一語でした。

 私の生家も時代は少しずれるが山口乙吉宅と同じ様な仕事を同じ焼津で生業としていた。家の間取りも酷似しており多少不衛生で魚の臭気が満ちていた環境もそっくりである。
 懐かしい気持ちで一杯である。
八雲は山口乙吉という表象の奥の奥で働く神性を直覚したのである。このような直感の人八雲もまた神の人と呼ばれなければならない。次のエピソードも興味深い。

 私(浅原)は以前自宅の天井で騒がしく動き回る音に悩まされたことがあった。そのうちにあちらの建具、こちらの木材とかじり始めたねずみに堪忍袋の緒が切れて彼のねずみを捕まえて殺すことばかり考えていた。ねずみ捕りを天井に仕掛けたが掴まらずついに毒入りの餌を天井の通り道へ置いてから一切の物音がしなくなつたが死骸も発見出来なかった。
 餌を食べた為異常に気づき外へ出て死んだのか危険を察知し遁走したのか判らぬが畳を横切る姿を一度目撃したのは子ねずみであった。

 一雄が父から英習字をさせられていた時、暗い廊下伝いに部屋の中までチョロチョロと一匹の子ねずみが出てきました。
パパねずみが出ました
と知らせますと父も眼鏡を急いで取り出し是をみて、
静かにゝ恐れるやるないょき。
と云いました。
 しかしこの時既に彼は逃げてし舞いました。ここ迄来る様では彼は空腹に違わない。それに東京から来たパンや菓子の香りが彼をこの部屋まで知らず知らずの内に惹き寄せたのであろう。と申して、包みの中からウエーファースを取り出しそれを部屋と廊下の境の敷居際へ置き、しばらくして出てくるだろうと待っていました。

 案の定、5分の後出てきました。そしてウエーファースくわえるやいなやチョロチョロと戸袋の陰へ運び去りました。彼は又出てきました。今度は私が敷居より中へ 畳の上へ 投げ置いたウエーファースをくわえて再び戸袋の陰へ持って行きました。

 是が始まりでこの子ねずみはだんだん私等に馴れてきました。そして毎日出てきました。
 しかもその時刻も一定していました。午後4時から5時へかけて必ず出てきました。父は泳ぎに行っていても、
さあ、もうそろヾあの小さいお友達が訪ねて来る頃だろう
 一先ず帰ってご馳走してやろう
と申しました。
後には部屋の中へ何の恐れも無く這入ってきて私等の肘近く投げ与える食べ物を、持ち去りもせずその場で小さな両手にカリヾと微かな歯音を立てつつ食べるようになりました。
 ある日父は子ねずみがトーストの破片を自分の膝から一尺とも離れぬところで食べている様をじっと独眼鏡を目に当ててみていましたが、しばらくして
オー、プーア、クリーチュア 一雄、ルックアップ アット ヒム。パパのような盲目 ブラインド でした。。。。」と叫びました。
 成る程、よく見ると、彼の片方の目は硯の海から今筆先を掬い上げた山椒の実の如く黒くつやヾと光っていましたが、他の一方は日陰にいじけて生った白難天の様に白く小さくどんより曇った眼の球でした。
 子ねずみが自分と同じ不具者であった事を計らずも発見した父は更に不憫さを増したらしく、その翌日は今までよりはもっと彼を喜ばしてやろうとしてか彼の好物と思いし食べ物を沢山に準備して待ち受けていました。

 しかし4時。。。5時。。。6時過ぎても7時。。。8時、灯火が点いても晩になっても出て来ませんでした。
 遂に彼はその翌日も又次の翌日も出て来ませんでした。何時も出てくる道に随分種ヾのご馳走を置いてやりましたのに一つも減りませんでした。可愛そうに、猫かいたちか梟か蛇に捕らえられたのだろう。
 多くの敵を持つ身の上だもの。。。それとも捕鼠器にかかって非業の最期を遂げたのだろう。
 あれは少しも悪いことをせぬねずみだったのに、と申し父は切に悲哀を感ずるものの如くでありました。

 この子ねずみ対する気持ちは私と大変な差がある。単純に良いとか悪いとかの問題ではないが八雲が惹かれた仏教思想の根本は「智慧と慈悲」である。いかに頭で理解してもその価値生活即ち慈悲の実践が伴もなわなければ八雲が自ら言うように
カルマをする、行為をすればそれが直ちに消えるのではなくて、その印象が残されていく、 それが業となって蓄積されていくわけです。
 他の命への慈しみが無ければ悪い業の積み重なりにより印象という霊魂が悪しき輪廻を繰り返すということなのであろうか。

見えるものは見えないものの表れとしたら、見える底の底を見据え神道の心、大乗仏教の空性といってもいい境涯に触れていたからこそ、彼ハーンこと八雲はアイルランド排出の偉大な詩人イエイツの持つ同質の才能をして霊の世界を描き切ったのではないか。

市井の一庶民の山口音吉の誠実さを神と思い、小動物や弱きものに対する慈愛の深さは、まるで求道者の趣である。

少しエキセントリックな精神と、人間関係の構築が苦手ではあったが、生きとし生きるものに優しき心を持った八雲は1904年9月26日 狭心症のため逝去した。 享年54歳

雑司が谷の墓地に葬られ法名は正覚院殿浄華八雲居士である。



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