見出し画像

明治の知識人漱石と西田

 伝統禅の修行で行われる禅問答で「無字」「父母未生以前」等の初関と言われ提起される問題がある(公案といわれる)。
 
 文字以前、不立文字の世界で言葉で説明できないパラドックス(矛盾的だが反語的に真理であること)の世界だ。
明治を代表する知識人夏目漱石は鎌倉円覚寺での参禅経験を持つ。当時から円覚寺は僧籍に入らないで参禅を目指す一般人を積極的に受け入れていた伝統がある。かくゆう私も何度かの参禅経験のある寺である。
当時円覚寺の禅指導僧(老師)は、釈宗演である。彼は英語で禅を世界に伝えた鈴木大拙の師でもあり、当時の東西の霊性交流に尽くした人である。
 漱石は秀才であり国費留学生としてイギリスに派遣された人であるが、西洋事情を知るにつけ東洋のそれも軽んじてはいけないとの思いも参禅に向かった一つの動機であったのだろう。

 寺で漱石が与えられたのが「父母未成以前の本来の面目」。
漱石は留学時代から英国生活からのストレスから強度の神経衰弱を患っていたことと、東大英文学教授の前任者が当時から学生に人気のあった帰化人で怪談で有名な文学者でもあったラフカディオ・ハーンであったことが、ハーンと比べた自身の立場に馴染み切れず東大の英文学教授の職を辞し小説家に転身した。その後も精神の不安感に襲われていたが、消息は彼の小説「門」に詳しい。

【老師といふのは五十格好に見みえた。赭黒い光澤のある顏をしてゐた。その皮膚も筋肉も悉くしまっていて、何所からも怠たりのない所が、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫付つけた。たゞ唇があまり厚過すぎるので、其所に幾分いくぶんの弛が見みえた。其代はり彼の眼には、普通の人間に到底見みるべからざる一種の精彩が閃めいた。
宗助が始めて其視線に接っした時は、暗中に卒然として白刄を見みる思いがあつた。

「まあ何なにから入っても同なじであるが」と老師は宗助に向むかつて云いつた。「父母未生以前本來の面目は何なんだか、それを一つ考がへて見みたら善かろう」

宗助には父母ふぼ未生みしやう以前といふ意味いがよく分わからなかつたが、何にしろ自分と云いふものは必竟、何物なにものだか、其の本體を捕まへて見みろと云いふ意味だろうと判斷した】

「自分が生まれる前の更に前の、父母が生まれる前において自分は一体何だったのか」あるいは「まだ自分が母の胎内を出る前の、つまりいまだ生まれ出づる前の汝の心境を言ってみよ」というような意味かと思いますが、「そんなこと考えたことない」「この世には影も形もなかった」と答えるぐらいが関の山でしょう。

 円覚寺訪問は漱石27歳の時、私も同年代でした。
父親の死が契機となり厭世気分に陥り、鎌倉の円覚寺で慶応大学主催の学生座禅会に参禅しました。
漱石自身その時、老師から出された「公案」が父母未生以前本来の面目は何か」です。
漱石も釈宗演老師が満足するような答えは出来なかった。

では、この考案の歴史的過ていや父母未生以前本来の面目は何か」という逸話について考えてみよう。

「一撃所知(しょち)を忘ず、更に修治に仮(か)らず」あるいは「香巌撃竹大悟(きょうげんげきちくたいご)の逸話」と言われるエピソードです。

中国・唐の「香巌知閑禅師(きょうげんちかんぜんじ)」は、一を聞いて十を知る聡明で博識の禅僧でしたが、当時禅界の第一人者であった百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師に師事していた。
百丈懐海が亡くなった後は、潙山霊祐の下で参禅を続けた。
その時出された公案が「父母未生以前本来の面目は何か」でした。
「まだ母の胎内を出ない先、未だ生まれいづるその前の汝の心境を言ってみよ」というわけです。

仏教でいうところの「輪廻転生や縁起説をいくらまくし立ててもそこには禅で言う答えはありません。言葉が、思考が出てくる一歩手前のところを問うからです。

秀才であるからこそ香巌は戸惑いました。
頭で考えたことをあれこれ言っても潙山は許しません。博識のゆえに学識理論にとらわれ過ぎていたのです。長い年月が過ぎ、失意の極に達した彼は、「どうか教示願いたい」と嘆願した。
しかし潙山は、「私がそれを教えたり言ったりすれば、それは私の言葉であり、お前の心境から出た一句ではない。今私がその一句を言ってしまえば、後で必ず私を恨むことになろう」と言って応じなかったそうです。

とうとう彼は自分の愚鈍さに失望して、潙山のもとを去り、かつて慕った国師の墓守りをして暮らすことにしました。

そんなある日のこと、かき集めた落葉を集めていたところ、そのごみの中に小石が混じっていたのか、その小石が鋭く竹に当たってカーンという音が付近の静寂を破りました。

その途端に彼はハッと悟りを得ることが出来たというのです。「恍然大悟」ということです。
悟りの原則は「事物の真理に到達する為に概念に頼らない」事である。「概念」というものは真理を定義する上で役には立つが、我々が身をもって真理を知る上では役に立たないという事であり、概念は生きた真理そのものではないという事である。

明治開花期は論理による西洋との対話が必要とされました。当時の知識人はそのことを必死に学びました。漱石のようにイギリス留学までして彼らがどのような言語を使いその言語でどのように文化を発展させてきたかを学ぼうとしたのです。

しかし、「西洋人の真理は秩序的、論理的である。私達東洋人は直観的に真理に至ろうとします。
禅の悟りとは、生きるという根底のすべての根本を知るということにある。伝統的には仏性と言われる。
香厳禅師の撃竹の考案のように意識未生以前人間の直感を瞬時に引き出すのが「カーン」なのだろう。
カーンという言語は言葉ではない、言葉以前の根源語であろう。
言葉が意味を成すのは、もともと直感として統一されていた意識が知識、感情、意思に分裂するからである。
言葉の根源には知情意という人間の根本がある。換言すれば意識が未だ分裂しない経験直下が生きとし生きるものの根源の場所ということだ。
後に述べる漱石と同年期を生きた哲学者西田幾多郎はその「場所の哲学」を発表し現代人にも今なお大きな関心を呼んでいる。
 
 直観的真理には個人の感覚という点で弱点もあるが、生活における最も根本的な事柄、すなわち宗教、芸術、形而上学に関する事柄を取り扱う際にはその力強さを最も発揮する。
「生」「死」という究極真理は一般的に、概念的にではなく直観的に把握されるべきだと言う考え方が哲学のみならず他のいっさいの文化活動の基礎だという考えが、中国で生まれ日本で大成した禅の経緯であり、日本人の芸術鑑賞の涵養に寄与してきたのには異論がないだろう。

西田幾多郎編へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?