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小泉八雲の生涯ー3

アメリカ時代

八雲(ハーン)については日本時代を調べるだけでは正体はつかめない。それは、プロローグ部分でも述べた。(この章は八雲を使わずハーンで統一)

それだけでは親日ハーン(小泉八雲)というありきたりの姿しか浮かばない、。ギリシャやアイルランドや北部イングランドやフランスで過ごした幼少年時代も、シンシナーティやニューオーリーンズで過ごした二十代や三十代も、またフランス領西インド諸島で過ごした二年間もきちんと見すえることが大切だがさすが現地主義を大事とする私でもお金と時間の制約があり研究者の資料に頼らざるを得ない。

来日以前のハーンを調べることは来日以後の小泉八雲がより鮮明になるのは当然だろう。そしてそれとともに、世界の中の当時の日本の姿も見えてくる。

そのようなハーンの欧・米・日と連綿と続く生涯の中で、ニューオーリーンズ時代はとくに大切な一つであると研究者は言う。その時期を解き明かす上で、根本的な文献の一つがエドワード・ラロク・ティンカーの『ラフかディオ・ハーンのアメリカ時代』であることはつとに知られている。

ラフカディオ・ハーンが日本に興味を抱いたのは,1884年にニューオリンズで開催された万国博覧会で日本の様々な文物に触れ,また農商務省の服部一三と出会ってそれらの文物の説明を受けことがきっかけであると一般に言われている。

しかし,ニューオリンズ時代のハーンは,それよりも1年も前に発表されたコラム「日本の詩瞥見(A Peep at Japanese poetry))において,「日本の詩」すなわち和歌についての並々ならぬ知見を披露している。

話を少し前に戻そう。アメリカ時代にも様々な経験をハーンはをするが、事態は徐々に好転していった。

アメリカでの最初の数年はヨーロッパ時代末期のように絶望的だったが、ギリシャ人移民、アイルランド人移民としてのDNA(粘り強さ、意思の強さ、不屈の精神等)が目覚めたのだろう。一日中肉体労働をした後、書物との接触を失わないために夜はニューヨーク市立図書館に通った。

経済的に余裕が出来た時、八雲はシンシナティへ向かった。親戚はあてにならず、いくつかの事業に挑戦したが失敗した。しかし、思いがけずH・ワトキンの助けで、印刷所で論文などの校正作業をする職を得た。八雲は隻眼だったため仕事は相当な疲労を伴なったが、独り立ちした後も恩を忘れず、手紙でワトキンを「ダディ」と呼び、絵心もあった八雲は自分のユーモア溢れるイラストを贈っていた。

ここからハーンの人生は上り坂が続き、シンシナティとエドワード・ラロク・ティンカーで記者として活躍し、ニューオリンズでは、南部のラテン的要素に惹きつけられて約10年間滞在した。アメリカでは翻訳業も開始した。事件報道から文学に対象を移し、中編小説『チータ』と『ユーマ』を発表した。これらはハーンが後に持つことになる社会学的課題への関心の兆候を示し、当時のアメリカ文学を「詩的散文」で復興させるというハーンの着想の一端を見せている作品である。

八雲の人生を決定づけたというニューオリンズ時代をさらに見てみよう。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、1869年ロンドンまたはフランスのル・アーブルから移民船「セラ号」に乗って大西洋をわたり、アメリカ大陸にやってきた。ハーン19歳の時である。

シンシナティで8年間をすごしたのち、ミシシッピー川を南下してニューオーリンズを目指した。片道切符の旅を続けた彼にとっては最も長い途中下車をした場所のひとつで、1877年(27歳)から1887年(37歳)までの10年間を過ごし、ハーンのその後の人生を決定づけるいくつかの局面をここで迎えている。

ニューオーリンズは、フランスやスペイン統治時代の影響を色濃く残す街で、ヨーロッパ系白人とアフリカ人奴隷との混血や異文化の接触・融合による独自の混淆文化を開花させた大変魅力的な町であった。ハーンはクレオールという混淆文化の魅力に引き込まれていき、街のすみずみを歩き回り、諺、音楽、料理、ヴードゥー教、墓、怪談など魅力あふれる独特のクレオール文化の探求にのめりこんでいった。

1884年から翌年にかけて開催されたニューオーリンズ万国博覧会の日本館の展示品を通して、日本文化に眼を開いたのも看過できない出来事だ。

彼は、『デイリー・シティ・アイテム』という新聞社で準編集者としての職を得(1878年~ 1881年)、ジャーナリストとして記事を書きまくった。論説や書評などを書き、また「挿絵記事」を連載してこの新聞の人気を高めた。挿絵と言ってもハーンが描いたのは、木版の挿絵を入れたアメリカで最初の新聞風刺漫画というべきものだった。これらの記事は、政治的風刺や日常生活を扱ったものが多く、その中に彼のユーモアや思いやりがうかがえ、またその時代の社会背景が読み取れて興味深い。

またその頃、フランス文学の翻訳を手掛けるようなり、ハーンの文筆活動はさらに定評をよび、やがて『タイムズ・デモクラット』紙の文芸部長として招かれ、評論と翻訳を中心とするより文学的な記者として活躍した。こうして若きハーンは、ニューオーリンズで6冊の本を出版して作家としてのキャリアを本格的にスタートさせ、次のステップへと移行する確実な足場を築いたといえる。それは、その後の訪問地、マルティニーク、そして日本へとつながるものであった。

ハーンが虜になったニューオーリンズの文化の特色や魅力に着目しながら、若きハーンが確立していったオープンマインドは、彼自身のスケッチや記事、おもに、『デイリー・シティ・アイテム The Daily City Item』紙に掲載されたものが、いわば彼の潜在的能力を引き出すチャンスを与えたことや「挿絵記事」がニューオーリンズあるいは19世紀末のアメリカ社会や文化的背景、そして彼の「思考」を読み取ることを理解させるのだ。

また、ニューオーリンズ時代に出版した著書を中心に、ハーンが友人にあてた手紙や直筆の取材ノートなども、当時のニューオリンズ(1970年代~ 80年代)の貴重な写真をちりばめたもので、その時代背景や風景を理解する上で関係者の関心を呼ぶ資料となっている。

日本で英語教師としての最初の赴任地は松江。ニューオーリンズとは、18世紀の街並みと川や湖という人文・自然双方の資源に恵まれた観光都市という大きな共通点がある。ニューオーリンズは一般的な北米の都市とは異なり、混淆的・非キリスト教的・呪術的な文化を特色とし、バイユーやスワンプという湿地に覆われた負の自然環境を逆に、最大限に観光に生かして輝いている町だ。「ゴーストツアー」という異界や怪談を資源として生かす試みを始めた松江とはその意味でも大きく響きあうのだろう。。

さらに、アメリカからは仏領西インド諸島にヨーロッパと比べて比較的簡単に旅行出来た。同諸島のマルティニークには約2年間滞在した。ハーンの愛情と関心は常にマイノリティへ向けられていたので、クレオール人(アフリカ、中南米、西洋の混交文化を基底にする現地人)をテーマにし、『仏領西インドの二年間』を執筆した。

ハーンは四十歳にして記者として文芸家として一応の成功を得たのに、なぜ成功していた職業を捨ててアメリカを離れたのか。人生を一から始め直すようなリスクの多い決断をし、東洋へ流浪の旅を続けた理由としては、第一に偶然の要素が考えられる。ハーンの東洋との最初の出会いは、ニューオリンズの万国博覧会で中国館や日本館を訪問した時だった。その約5年後、米大手月刊誌ハーパーズマンスリーマガジンにより日本へ派遣され、「日出ずる国」で臨時の仕事をしたことだ。

日本行きが派遣記者という偶然であったが、もっと肝心なことは、アメリカではハーンの生き方や理念に反することが多々あったためだ。

例えばハーンは、ロンドンでの世界に先駆けての産業革命を経験している。おまけにアメリカのそれは工業化・機械化されたものが生活様式にまで浸透してきており彼はそれに大変恐怖を覚えていた。

また、ハーンの美的感覚は西洋古典美術により育まれており、アメリカで有力になりつつあった現代西洋美術を嫌悪していた。さらに、ハーンは混血女性と関係を持った程、当時アメリカでまだ根強かった人種差別を嫌悪していた。

加えて、ハーンの民族的アイデンティティーの問題もある。ハーンは「世界市民」となってはいたが、自らの帰属先に疑問を抱いていた。渡米する前からアイルランド的側面以上にギリシャ的側面を保持し名もギリシャ名を保持していたが、自分自身がギリシャ人としてのこだわりを持っていても、ギリシャ的側面からも完全な満足を得られなかった。

要するに世界市民と称しながらその土台となるアイデンティティーの確立に揺らいだのだ。

ハーンは弟のダニエル・ジェームズの存在も知るが、アメリカ式の考え方や生活様式を持つ弟は、ハーンの内的不満解消の助けとなることは出来なかった。ハーンは自分自身の心の空洞を埋める努力を常に続けていく中で、最終的に日本へと歩んでいったのだと思う。

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