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生命とは その1

生命としての私とは何なのであろうか。運動体としての肉体とそれをコントロールしているかの如くの脳の作り出した意識の両側面を命と自覚して生きているが、この肉体は自分自身の所有物に見えて、決してこれを意識の制御下に置くことはできないのです。

私たちは、なぜ生まれ、成長し、病を得てやがて老いそしてどのように死ぬのか、予測も選択もできない。いわゆる、生病老死の理である。
そんな確かな事実を背負いながら普段、私たちはすっかりそのことを忘れているのだ。
生きていることが当たり前で計画した通りの人生を規則正しく、効率よく、成果を上げることがどこまでも自分の意志だと思い込んでいる。

ここに今いるという自分は自分の意志でそうなったのでなければ、自然のままというしかないのだ。
自分というものに拘ればここに本来の自然と、脳が作り出した自分との本質的な対立がある。

東洋には無為自然という言葉がある。自然のままであることの意味の「無為自然」は生き方の方針を語るときにも使われます。「ありのままに生きる、無為自然な生き方」などと表現されます。

ありのままに生きるとは、一般的には、人間も宇宙や大自然の中の一部であるということに目覚め、自然とともに天寿をまっとうするという生き方のことをいいます。

生命は自然の中にある。人間以外の生物はみな、自由に、気まぐれに、ただ一回ぽっきりの生を生き、ときが来れば去る。自然としての生命を意識で決定することはできない。人間だけが特別でないとすれば、人間の生命も本来は同じはずである。

西洋の伝統的な生命論では、その構造は端 的に 「学門的に究明不可能 であり、 「思 考も説明も不可能なもの」 とされる。また、原因と結果が一致するという目的を持った自己完結的な有機体としての存在とも言う。
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