見出し画像

夏目漱石 門

宗助は、かつての友人安井の妻であったお米を寝とり、お米は夫を裏切った。その上で今の暮らしがある。いわゆる不倫の末結ばれた夫婦である。

そのことが読み続けるうち徐々に姿を現していく様子は、暗いというのではなく、不安が下駄をはき、着物を着たように深刻に描かれている。

しかし普通の夫婦でも表面的には淡々とした日常を送っているようでも、不安で不気味なものが突然やってくることはある。男女間の快楽とか愛憎とかはそんなものである。

宗助の不安は、裏切った友との再会の予見である。宗助夫婦に家を貸す大家、坂井の家に坂井の弟と一緒に安井が来るという話が出たところで宗助の不安は頂点に達する。

しかし、宗助はそれをお米には言えない。
 宗助はいっそのこと、万事をお米に打ち明けて、共に苦しみを分って貰おうかと思った。
「お米、お米」と二声呼んだ。

お米はすぐ枕元へ来て、上から覗込むように宗助を見た。宗助は夜具の襟から顔を全く出した。次の間の灯が御米の頬を半分照らしていた。

「熱い湯を一杯貰おう」

宗助はとうとう言おうとした事を言い切る勇気を失って、嘘を吐いてごまかした。

このところに、例え同じ罪を共有する(だろう)妻であっても、肝心なところで他人としてしか向き合えない宗助の寂しさがある。

どの夫婦でも所詮は他人であり男と女の関係であるから肉親のような真に血を分けた感情の共有というものは無理なのだ。 

お米は、もと亭主を裏切った女でありながら小説の中では、意地の弱い女として描かれている。

ここに至って宗助はお米に自分の弱さをさらけ出し,すがりつくことはできないと気づくのだった。

宗助は禅にすがることを思いついたのだ。 座禅の結果は思わしくはないが、この禅寺でのシーンは、夏目漱石自身が英国留学中から悩んだノイローゼを解決するため通った座禅の経験から書かれているのだろう。

宗助は、自分の世話をする僧が若年に関わらず自己を厳しく律し、世間から超脱していることに強い印象を受ける。自分にはとてもそんな真似はできないと思う。

実際、宗助はこの若い僧になにからなにまで任せきりで、自分自身は何もできないばかりなのに、僧自身は宗助の面倒を見ながら、自分の修行も怠らないのである。

そんな僧に対する驚きの感情は、漱石が実体験から抱いた感情と同じものだった。

私も父親を亡くした時、今後の自分を見つめるため、同じ寺である円覚寺に何度も参禅した経験がある。小説、門に書かれた禅修行の詳細はすべて自身の経験として理解できるのです。

人の悩みや不安は自我の迷いや執着故であるとする禅への探求は夏目漱石の長年の夢でもあった。

自己本位、主義、イズムを声高に叫ぶインテリを弾劾し続けた漱石には、自身の文学作品もいいかげんなもので済ますことはできなかった。「人間」や「自己」の模索、そして、自ら理想とする文学を作ってみたいと心底思った。

その作品の主張も「くろうと」の不誠実な思想ではなく「真の救い」そのものが必要だった。

自分自身が救われる。それが禅の極意でもあり指導僧が突きつけた考案「父母未生以前己の面目」の真意であった。

この公案は、晩年に文学や人生の理想とした境地を表す言葉として「則天去私」として漱石の内面で実を結びます。

これは「自我の超克を自然の道理に従って生きることに求めようとしたもの」で、「我執を捨てて、諦観にも似た調和的な世界に身を任せること」です。

漱石の死去により未完となった「明暗」は、則天去私の境地を描こうとした作品そのものです。

漱石だからその作品は「人間」や「こころ」の真実に迫ったものとなったのであろう。だが実際の禅修行では,何一つ満足にできず、失意のうちに山門を出る宗助自身の姿は若き夏目漱石自身の姿であった。

この時の宗助のやるせない感情は、次のように書かれている。

自分は門を開けてもらいに来た。けれども門番は扉の向こう側にいて、たたいてもついに顔さえ出してくれなかった。ただ、『敲いても駄目だ。一人で開けて入れ』と云う声が聞えただけであった」

「門」という題名は、この場面に関係しているのだろう。つまり、この小説は、悟りを求める苦行者は自分を迎え入れてくれる全ての門を自力で開けなければならないことを示唆しているのだ。

門を他人に開けてもらっても何の解決にはならないのだ。自分で開けて入るからこそそこに解決があるのだ。

そして、宗助の精神的苦境は、ひょんなことで解消される。自分を苦しめてきた友人の安井が、宗助が参禅している間に、大陸へ戻ることになり、彼と接近する危険性が遠のいたのだ。

また、弟の小六の身の置き所も決まって、宗助はそっちの悩みからも解放されることになった。

つまり、今まで自分を苦しめてきた煩悩のタネが一挙に消えてなくなったのだ。

これは参禅とはなんの係わりもなく、偶然になったことであるが、しかし宗助にとっては重大ななりゆきであった。

計らいを捨て自然に身をゆだねることで、いまや煩悩から解放された宗助は、愛する妻のお米と共に、ひっそりとではあるが幸福な毎日を送ることができるような自信が戻ってきた。

が・・・また寒い冬が再びやってくると不安の予感を思わせて物語の終焉となる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?