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西遊記・三蔵法師のモデル玄奘三蔵

私は、子供の頃から歴史好きでしたから孫悟空が主役の西遊記も愛読書でした。西遊記は玄奘の書いた紀行文を明の時代、戯曲風に仕立て直したものですが、孫悟空が仕えた唐の高僧、玄奘三蔵求法の旅の幾つかを話してみよう。

 西遊記のモデルとなった玄奘三蔵法師は、当時の国禁を破りインドに渡った。彼の地にあった世界最古の大学ナーランダ大学で大乗仏教の唯識の論書、瑜伽師地論(ゆいがしじろん)を学ぶためであり、そのサンスクリド語の原典を入手するのが困難な旅の目的でした。

この大学は、インドのビハール州ナーランダ中部にある427年に建てられた世界最古の大学の一つです。

ここは、北部インド仏教の最重要拠点であるから、仏教を学ぶ重要な場所となり、インド仏教の興隆を支えたのです。

インド仏教は5世紀から11世紀にかけて弾圧され、ヒンズー教、バラモン教が勢力を増やしたことから徐々に衰退。ナーランダ大学は1193年にトルコイスラム人の侵入によって破壊されました。

これにより、インド仏教は衰退を決定づけられたのです。現在、ナーランダ大学には人は住んでおらず、遺跡が残るのみとなっています。玄奘が学んだ7世紀当時、インドでは最高権威の大学で、大乗仏教を中心に数千人が学ぶ場所であった。

大乗仏教のほかに全般的仏教教義の研究、バラモン経典ヴェーダ、ウパニシャッド、声明音楽、医学、冶金、数学、書画、呪術など講座が開かれ、仏典の深い意を論ずるのでなければ誰も相手にしないほど新進気鋭の学風がみなぎっていたのです。

玄奘がこの大学で学んだ唯識論とは、あらゆる存在はただ心の投影にすぎず、自己の心のありかたを分析し人間の変革を目指す仏教思想です。我々の意識の奥底に阿頼耶識という根本真理があると唯識は説きます。

帰国後玄奘は法相宗をおこした。法相宗は、わが国にも伝わり奈良の法相宗となったのです。奈良の薬師寺は日本の法相宗大本山であり玄奘三蔵の分骨が祀られている。写真は薬師寺玄奘三蔵院伽藍

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「般若心経」のサンスクリット語原書を天竺(インド)から持ち帰って漢訳したのも「玄奘三蔵」です。

般若心経は存在の根源をとした我が国で最も知れた経典ですが書かれている経典の主役は観音です。
 

実は般若心経には二人の訳者います。その内の一人、法華経の訳者でもある鳩摩羅什は観音を観世音菩薩と訳しましたが玄奘は「観自在菩薩」とした。玄奘三蔵の「自在」と羅什の「世音」とではどこが違うのでしょう。

 観音菩薩の原語はアヴァローキテーシュヴァラで観音経において、観音菩薩は衆生 (生命のあるすべてのもの)を救済 してくれる存在と言われ. 常に人々を 観ていて 、助けを求める衆生の声 (音) を聞いては、瞬く間に救ってくれるという意味から 「観音」 と呼ばれています。即ち「世間の衆生の音声を観じる」時救済すると説かれ、鳩摩羅什はアヴァローキテーシュヴァラを観世音と訳したのです。

玄奘は「シュヴァラ」が自在を意味するところからそこに重きを置きこの世界の在り方や迷える衆生の救済が自在である菩薩としたのでしょう。

いずれにしても般若心経では冒頭に登場する菩薩が、般若の智慧の象徴ともなっているがその解釈は微妙に違うのです。同じ経典の翻訳でも訳者の学識や経験によって違いがでるのです。

大乗仏教の根本学、唯識論のような高度な哲学ではなおさらです。その正しい理解は正確な翻訳があってのことだからです。しかしその思想が生まれた場所、言葉で直接経験するのがベストと卓越した経典翻訳僧玄奘三蔵は考えたのです。

玄奘三蔵の「三蔵」とは「経」「律」「論」の三部からなる仏典の総称である。転じて「仏典に精通したもの」の意で中国では、経典翻訳僧の敬称として用いられ、「三蔵法師」ともいわれた。「三蔵法師」とは、ひとり玄奘にのみの敬称ではないが、三蔵法師といえば玄奘を指すほど、彼は東アジアでは傑出した存在であったのです。

翻訳僧として卓越した才能の人、玄奘三蔵は、仏陀の国の言葉、サンスクリット語の経典を出来るだけ多く収集し中国に正法を伝え直したいという強い希望をもった。

玄奘は、今から約千四百年前、中国の洛陽で生まれ、十歳の時に父を亡くし、仏門に入っていた兄にひきとられた。十三歳で、正式に僧籍を得て、仏教の学問に没頭する。

仏門に入った玄奘は大きな疑問にぶつかるのです。
釈尊の教えは一つなのに、何故、これだけ対立する学説があるのかということです。高僧たちは、釈迦の悟りの内容を都合よく解釈しあうため夫々が矛盾対立を起こしどれが正しいのかさえもわからない有様でした。彼の懊悩は深まるばかりです。

そこで玄奘は、今こそ仏教生誕の天竺(インド)に赴いて疑問をただしたいと考えたのです。
彼は数人の同志とともに、インド留学の許可を政府に求めたが当時の中国唐は西域との交通を許していないという理由で却下されてしまいます。

二度、三度、繰り返し嘆願書を出したが、いずれも失敗に終わったのです。
同志はあきらめたが、玄奘だけは心中深く期するところがあり、彼は、許可を得ず、インドへ一人、旅立ったのです。26歳の決断であった。

玄奘は、13歳で僧侶になり、622年に20歳で具足戒を受けたあと漢訳の経典解釈に疑問を持ち続けていた。その頃からインドの原典研究をと心に決めていたのです。

626年24歳のときにサンスクリット語の勉強を長安の寺で始めました(トカラ語も学んだといわれています)。玄奘の唐の時代には、すでに何世紀も前にインド人僧侶が中国にきており、梵語と言われたサンスクリット経典も存在しただけでなく、当時の国際都市長安には、トカラ人やサカ人やソグド人などの僧侶もいたのです。

サンスクリット語に通じた僧侶から3年ほど勉強し、629年にインドに向けて出発します。

途中、さらにインド入国までの1年間勉強しています。経由したガンダーラ地方(今のアフガニスタン)は、当時、大乗仏教がもっとも興隆した土地ですから、サンスクリットの文献も多く語学力にさらに磨きがかかったのでしょう。

 サンスクリットは文語ですが、教養あるインド人は会話でも用いました(現在のインドでも、サンスクリットが「話せる」という人が1万人います)。

当時のインドの口語は、プラークリット語がさらにくだけたアパブランシャ語というもので、玄奘はインドでナーランダ寺院に着くまでの数年間に、口語のアパブランシャ語もかなり習得したはずです。

留学し学問を収めるということはある種言葉の習得です。玄奘も、インドへ行く前、かなり語学の勉強をしていたことがわかります。ちなみに日本の空海は密教の勉強のため唐に留学をしますが彼は語学の天才でサンスクリット語や中国語を短時間にマスターしたといわれていますが人には知れない努力があったからでしょう。

国禁を破り国を出た玄奘には追手がかかります。昼は潜伏し、夜はひたすら道を急ぎ、西へ進みました。
 

西遊記に面白おかしく書かれてはいるが、ゴビ砂漠の通過が、一番つらい旅でした。道案内人に命を狙われたり、砂漠の中で渇きで死にそうになるなど、さまざまな苦労を重ねて、やっと西域のある国に着いたのです。

中国の長安から俊才の青年僧がやってきたという噂は、たちまち広がり、高昌国の王は、直ちに駿馬数十頭からなる迎えの使者を送ってきた。

国王は、玄奘の学識、人格にほれこみ、彼を自国に引き留めようとした。つまりインド留学をあきらめ、高昌国の仏教の国師になってほしいというのである。しかし、玄奘は断食して求法の固い決意を示したので、ついに王は出国を許した。

国王は出発前一ヵ月間、仏教の講義をしてほしいと玄奘に請うた。そこで玄奘は喜んで国王や側近たちに仏法を説いたのだった。一ヵ月後の旅立ち、王は礼として四人の従者と莫大な旅費を玄奘に贈った。

苦難を重ねて、インドについた玄奘は、各地の大徳について研学に励み、彼の名声は次第に高くなった。

四十歳になった玄奘は学び終えた大乗仏教の教えを中国に広めたいと、ついに帰国を決意した。

収集した経典の輸送には馬二十二頭を要し、長安への帰路は更なる困難を極めた。

インダス川を渡る際には、一隻の川船が転覆し、五十巻の経典が失われた。
そこで玄奘は、五十日間滞在して失った経典を書写するハプニングもあったのだ。
 

645年1月、彼は、17年ぶりに中国の都・長安へ帰り着いた。
 

玄奘は直ちに、国王に面会し、持ち帰った経典を正しく漢訳し、中国仏教に正法を確立したいと、国家援助による経典翻訳の許可を求めた。

王は彼の、命をかけた求法の旅に感動し、長安に翻訳所を設置した。このように中国で花開いた大乗仏教文化は極東の島国日本にも到達し仏教を国是とする我が国の繁栄の礎となったのです。

瑜伽師地論
玄奘が十七年掛けて勉強しインドから中国に持ち帰った論書が『瑜伽師地論ゆいがしじろん』である。「唯、心のみ」とする唯識の源泉が『瑜伽師地論』なのです。
 

周知のように、玄奘三蔵が伝えた唯識に基づいて、弟子の慈恩大師によって法相宗が創立されました。それが奈良時代に日本に伝えられ、興福寺を中心に学修され、南都六宗の一つとして勢力をもつに至りました。

しかし、唯識は法相宗独自の教えではなく、仏教のいわば根本学として、奈良時代から現代にいたるまで、多くの人びとによって脈々と学び伝えられてきた教えです。

唯識は私たち日本の仏教徒が慣れ親しんできた大乗仏教の根本学でもあるが二十一世紀を迎えた現代で、にわかに脚光を浴びてきたのです。  
 

それは最高度に達した物質文明の中に生きる私たち現代人がこれまでなおざりにしてきた「心」の大切さに気づきはじめたからであり、また唯識はまさに科学と哲学と宗教との三面を兼ね備えた、時代と場所とを超えた普遍的な思想だからである。

本当に「心」ほど、自分にいちばん身近なものでありながら捉えどころのないものはありません。しかもそのありようによっては、これほどに自分と他者とを苦しめ迷わすものはありません。

この不可思議ともいえる心を深層から観察し分析して、見事にその秘密を解き明かしたのが唯識思想です。

現代社会は情報社会ともよばれる。情報という言葉からすぐ思い出される言葉が「 ヴアーチャル・リアリティ」である。

リアリティとは現実そのもの,科学的に言えば,実在する客観世界をさすが,情報によって与えられるのは客観世界そのものではなく,その映像や似せた像だということである。

その映像を事実と信じさせるところに情報の力がある。ヴアーチャル・リアリティそのものは、元来コンビュータ・グラフィックで作り上げたシミュレーションの空間であり、ある特定の装置を付けると,本当にそこにいるような現実感を伴う仕掛けである。

プラトンの洞窟の比喩でも、影で映し出される仮想現実を現実と錯誤するように、この世界は意識(イデア)がつくっているすぎないというのだ。現代の量子論でも波動は観測という意識が働くと粒子に変わるという。これは物の本質が現実と非現実の二重性であるとの証明となり、私たちの意識(観察)が現実をつくっているということになる。

唯識の「識」とは「識る」という動詞の使役法に由来する名詞で,報らせるはたらき,ないし,その内容としての表象を意味する。
我々が事実そこにあると思っている客観世界というのは,我々の心の描き出した表象にすぎないのだ。

しかし唯識を単なる知識としての思想ではなく、実生活の中で活かすようになれば、心を根底から変革して混迷の場の中にあっても、迷いのもとであるヴアーチャル・リアリティを抜けて進むことができる実践的な教えとなるのです。

今も生きる唯識思想を命がけでインドから持ち帰り翻訳した玄奘三蔵の働きがあったからこそ現代の私たちが身近に学習できるのです。
                         

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