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道徳と倫理

カントの倫理学
カントの倫理学は、いわゆる定言命法と言われるもので、普遍的な道徳法則に一致するようにとか、他人を手段として見るのではなく、目的として見よというようなものです。

定言命法に対するのが仮言命法と言われるもので、「・・・・・ならば、・・・・・をする」といういわば条件付きの道徳のことです。
例えばそれをすることが自己の利益になれば他人を助ける、というもの。

定言命法というのは文句なく、無条件にそれをするというものです。 人が困っているところを見たら、文句なく無条件にそれを助ける。それが道徳的な行為です。

カントの道徳律はまた、形式道徳と言われます。 形式的だということはただ自己の義務感にのみ基づいてそれをするもので、他のこと、他の状況を一切考慮に入れず、善いことは善い、悪いことは悪い、ということです。

であるが、ふつう道徳といったら、その場の状況によって、何が善いことで、何が悪いことかを判断してするものであって、状況を一切無視して、文句なく無条件に善いと言ったり、悪いと言ったりすることは出来ないはずです。
カントは結局自己の「良心」に「もとる」ことでないなら、周りの状況などは、問題とならなかったのでしょう。
カントはドイツ・プロテスタントの中でも内面の純粋性を重んじるドイツ敬虔派の母親に育てられたから、道徳というのは「内面の声」、つまり神の声に基づいて行為しなければならないと考えていたのです。 だから、自己の「良心」に恥じない行為をすればよかったので、周囲の状況は問題としなかった。 それがカントの哲学です。

カントの哲学は「人間とは何か」を追及する学問であると位置づけられています。難解なカント哲学をわかりやすく説明しながら、「人間とは何か」を考えていきましょう。

曲がりなりにも哲学を目指すものはまず次のことを自問しなければならないという。

「なぜ哲学を勉強するのか」

「なぜ哲学は存在するのか」

「なぜ哲学は必要なのか」

私を含めた普通の人でもこのような根源的な問いについて考えてみることはとても重要です。

何を手掛かりにしたらと問われればやはりカントであろう
イマニエル・カント、その名前を聞いたことがある人は多いだろうが実際彼の純粋理性哲学を手に取った人は少ないだろう。仮に読んだことがあるとしても、「何が書いてあるのかわからない」とか「何を言いたいのかわからない」である。

超越論的何々、直観形式、カテゴリー。難解な言葉だ。それが次々と登場して、なかなかページが進まない。実際、哲学の専門家を志す学生にとってさえも、今日『純粋理性批判』を読み通して、その考え方のアウトラインだけでもつかむということは、なかなか並大抵のことではないのだそうだ。その難解さがカントのイメージだ。

カントはその著『論理学』のなかで、哲学の意義について次のように述べています。

「世界市民的な意味における哲学の領域は、つぎのような問いに総括することができる

1、私は何を知りうるか

2、私は何をなすべきか

3、私は何を希望してよいか

4、人間とは何か

そしてはじめの3つの問いは、最後の人間とは何か収斂される

二律背反~アンチノミー
人間は理性をもっている。理性は肯定的意味合いの言葉ですが冷静、利口、公正ひいては真理・善・正義(正しいこと、良いこと)といったイメージを含んでいます。

ここで次の命題、「…してはいけないと判断する能力」についてです。
カントはこの能力を「アプリオリ」とした。
「アプリオリ」とは、=先天的に人間に備えられているもの、ことで
よって、カントはこの理性というべきことがらを「純粋理性」と呼んだ。

本来、真理・善・正義の「純粋理性」は、絶対唯一、究極、完全の法則であるべきである。しかし、そのような尊ぶべき人間の「純粋理性」は、実は、相反する二つの命題を抱えたまま自己矛盾に陥るのだとカントはいう。それが「二律背反~アンチノミー」:矛盾である。物事はその本質において絶対の矛盾を抱えている、。それは理性といえども例外ではない。

矛盾の語源となった故事であるが、どんな盾をも貫く矛で、どんな矛をも防ぐ盾を突き刺した場合どうなるのか。答えはどちらもバラバラになる。このようにどちらの結論も成り立たないのである。

カントが「二律背反」で伝えたかったことも、それは人間の理性といえども必ずしも完全無欠のものではなく、限界があるということである。理性に絶対の信頼をおいてはいけないという「批判」が『純粋理性批判』の意味である。

カントはそのような理性の欠陥からも、人間は悪の心に染まりやすい性格であることを指摘する。たとえ生まれながらは善であったとしても、悪意ある、もしくは拙劣なる指導者や実例の感化を受けて、悪の心に染まる危険があるというのだ。

その危険についてカントは例を挙げる。最も親密な友情の間においてすらも、嘘をつこうとする危険(親しい人に嘘をついたことが本当に無いのか?)

最良の友人とお互いに心を開いて付き合う際でも、信頼をほどほどにしておくことが、交際における賢明なやり方だと思う危険(特に外交ではそうである)

人間は、自分が恩義を負う人間を憎む危険。恩義を施す人間は、常にこのことを覚悟していなければならない(恩の施しすぎには注意が必要)

最良の友人の不幸のうちには、我々を必ずしも不快にしない何かがある危険(しめしめ、と思ったことが本当に無いのか・人の不幸は甘い蜜)

 したがって、人間は善に向かうように教育されなくてはならないとカントは続ける。
人間の意志が善くあるためには、人間は何をなすべきか。それは「法則に従うこと。法則に対して尊敬を持つこと。そして法則とは、道徳法則である」。つまり「道徳」こそが、カント哲学の真意に他ならない。

道徳の定義=定言命法 
カントの考える「道徳」は、ずいぶんと厳しい。カントが道徳のことを「道徳法則」という言い方をするのは、まさに私達が従う道徳が、科学法則のように「どこでも、誰でも、いつでも、当てはまるものでなければならない」と考えたからであり、その形式は「~すべき、~してはならない」という定言命法の形でなければならないとする。なぜなら、条件付だと法則にならないからである。

たとえば、先生は生徒に親切という「徳」を教える際に、「他人に親切にしましょう」というだけでなく、「自分が他人に親切にしてもらいたかったら」という動機づけをするかもしれない。

ある生徒に、なんらかの好結果や幸運がもたらされた場合、「それはあなたが良い子だからよ」とか、「あなたが他人に親切にしたおかげよ」と言う。生徒は親切を施したことが、自分に幸いをもたらすのだという味をしめる。結果、人は見返りをあてにして親切を施すようになる。もしくは、見返りがない場合は親切を施さないかもしれない。

「もし人から信用されたいのならば、嘘をついてはいけない」という道徳法則があった場合はどうか。しかしこれだと、「人に信用されなくても構わない」という人には通用しない。嘘がまかり通る社会になってしまう。よって、条件に関係なく「~ならば~すべき」の仮言命法ではなく、誰にでも当てはまる定言命法「~すべき」でなければならないのである。

逆に言えば、「嘘をついてはいけない」という道徳法則あったとすると、それがたとえ人を助けるためであったとしても、嘘をついてはいけないということになる。

道徳法則の必要条件=善意志
では、それほどまでに厳しい倫理観に基づいたカントの考える「道徳法則」を実行するには、何が必要になるのだろうか。(松下政経塾に掲載された記事)

勇敢という徳は一見、「善い」であるといえる。しかし悪人、たとえば犯罪者にとっては、ひとつの犯罪を首尾よく遂行するための不可欠な条件にもなりえる。また冷静で的確な判断力という徳が備わっている犯罪者は、そうでない犯罪者よりも有害になる。

幸福という徳についても同様である。人間が幸福であると感じるものには、名誉・健康・金銭がある。これらは善いものだと言われるが、それらが心に及ぼす影響を制御できなければ、人間を奔放に、傲慢にさせてしまう。

つまり徳には、意志を正しく使う善い意志、「善意志」が備わっていなければならないのである。この世において、またこの世の外でも、人間が無条件に善いとみなされるものは、ただ善い意志、「善意志」だけであるとカントは言うのだ。

道徳法則への尊敬の念
しかし厳密には、人間は何の動機もなしに道徳的行為に赴くことは難しい。では、人をして、真の道徳的行為へ赴かせる動機とはいったい何であろうか。

それが、「道徳法則への尊敬の念」である。
たとえば、殺人を犯して金儲けをした人間は、金銭的には贅沢できても心のうちは完全に安寧であろうか。
心のどこかに、「殺すべきではなかった」「いつか発覚するのではないか」という意識が残っているであろう。
この振り払いがたい意識こそ、「道徳法則への尊敬の念」に他ならない。

「人を殺してはいけない」という道徳法則は、人間が生まれながらに持っている「善意志」そのものである。人間のもつ「善意志」という素晴らしい能力が、人間を真の道徳的行為へ赴かせるのである。

エピローグ~コペルニクス的転回
「つねに新しい高揚した感覚と畏敬の念をもって、私の心を満たすものがある。それは頭上の星のきらめく空と、私のうちにある道徳法則である」

カントは崇高なる倫理観にあふれた上のような言葉をのこした。人間のうちのある「善意志」に従った「道徳法則」に、カントは期待したのである。

 なるほど、道徳の「徳」という文字は分解すると、「行う、行動する」という行ニンベン、「直、素直」という右上の部分、そして右下の「心」となる。つまり「素直な心で行動する」と読むことができる。ここでコペルニクス的転回をすれば、カントの哲学は、松下幸之助の哲学「素直」と同じものとなる。なぜなら「素直な心で行動する」は、「善意志に従った道徳法則」そのものだからである。


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