二元論と対立二元論
人体を含めてこの何処かの世界で酸化現象が起こったときには、他のところで還元が起きます。
そして、それによって中和されるといった現象が起きるのです。
このような在り方を二元論といいます。
そもそも「二元論」とは「両方があってはじめて成り立つ」という基本的な法則であり常にこの二つは同時に存在し、どちらかに偏った時にはもう一方の極が働き中和させている、バランスを取っているということです。
ですから、「二元論」の本質というのは「中和・調和」ということで、プラスマイナスゼロ(±0)をつくるということなのです。
他にこれと似た表現に「対立二元論」とう概念があります。そもそも人間存在というものは絶対的ではなく相対的な考えの生き物です。
「対立二元論」は「両方があってはじめて成り立つ」という法則に則っておらずこれらの二つの極を対立させ、それぞれの分裂した世界に結びつけるということです。
人間が勝手に考え出した「人間だけが使っている・都合のいい法則・ルールである」ということです。
ですから、このような私たちが生存する世界では「中和・調和」を感じたり想像したりすることはできません。
そこには「対立二元論」に縛られた「自我意識」が全てであり全てを二つの相反するものに分けていきます。
さらに、その意識の中では、それら反対のもの(片方の極)を、同時に両立させませんので片方を肯定し、もう一方を否定することになります。
つまり、「片方を除外する、消滅させる」ことを意味するということです。
この「概念」の代表的なものがが「生・死」「善・悪」である。
わたしたちは、この「概念」に翻弄されます
代表的な二項対立、[生と死」「善と悪」というふたつの極は共に存在し「生」だけの、「善」だけの世界はあり得ません。
「生」は「死」があってこそ「生」として成立し、「善」は「悪」があることによって善として成り立ちます。悪も善があって初めて悪として成り立つといえるからです。
善人しかいない世界ではその人が善人とは認識されませんし、出来ません。
なぜなら比較できる悪人がいないからです。
つまり「善人は悪人がいて、初めて善人として認識される」ということであり
どちらか一方に偏ったバランスを欠いた世界では「善人」は存在し得ないことになるということです。
此れに関し過ってNoteにこんな記事を書いたことがあります。
現代の量子論では波動は観測という意識が働くと粒子に変わるという。これは物の本質が現実と非現実の二重性、矛盾性であるとの証明となり、私たちの意識(観察)が現実をつくっているということになる。
さて表題の即非の論理であるがこれは「般若即非の論理」ともいわれている。もともとは金剛経で多用される「A非A、是名A」という表現形式を、鈴木大拙・1970-1966・が禅経験の論理、東洋思想の論理として提示したものである。この論理がどのような構造を有しているかは改めて間われなくてはならい。
世界の仏教史や教義観に多大な影響を及ぼした人、鈴木大拙の思想の根幹は彼自身の言説の文脈から金剛経の「心非心・即是名心」を一字の「非」にいい直した「心は非心で、それが即ち心だ」と云ふ意味で「般若経」の「心非心、即是名心」を「非」と云ふ「即非の論理」とも云ふべきを論理に見てとれる。非が即で、即が非であるというわけである。(即=二つのものが互いに表裏の関係にあって分離できない状態)
これはもともと「般若の論理と」いわれるもので、現代的に言い直せば否定即肯定の矛盾性がそのままで自己同一即ちこれを即というのだ。
般若の主張は、「AはAにあらず、故にAなり」と云ふ。
最初に一個の命題Aを立てる。次にこれに対立し否定的非Aが成立する。そしてその整合、Aなりが悟りと般若経経典は結論づけるのだ。
仏教の禅は釈迦の悟りを単なる知識ではなく実践的に体験するものといわれる。しかしただ単に実践や体験とというだけでは禅は成り立たない。そうであれば単なる感覚か感情に過ぎなくなるのだ。
そこで大拙は、知識としての禅を禅体験にとってとても重要であると認識し、禅の体得には思想(禅意識)がなければならないとする。相補的な体験を真に悟りの体験とするために知を客観視でき、知と体験の両者の重要性をそれぞれ認めるという仕方を展開したのだ。
「A は A ではない、ゆえに A である」という言い回しは一見すると、ある概念(A)とそれに矛盾する概念(non-A)を結びつけるという、同一律を無視した論理である。
私たちの言葉・觀念又は槪念といふものは、このような否定を媒介にして、始めて肯定に入るのが、本当の物の見方だといふのが、般若論理の性格である。
AはAであってかつ非Aであることはできない。だから、上で述べられた即非の論理は、形式論理に反した見方であると言わざるを得ない。
即非の論理では、Aは非AであってかつAであるというよりも、非AであるからこそAであるというようになっている。非Aと言う形で一旦否定されたうえでなければ、Aと言う形で肯定されることがないと言っているわけである。
これは一見、弁証法の論理と似ているように見える。弁証法も、措定、反措定、総合という形で、対象が一旦否定された上で肯定され、そのうえで総合的な真理が現れて来るというような論理構造をとっている。
しかし、弁証法と即非の論理には決定的な相違がある。それは、弁証法の真理が、否定と肯定の繰り返しの結果事後的に現れてくるという構成を取っているのに対して、即非の論理は、そもそもの初めから、否定と肯定とが併存したものとして、対象を構成するということである。
弁証法は知の働きの結果であるのに対して、即非の論理は知が働きだす以前の西田流の表現に従えば知出てくる手前にある主客未分の状態、そこに即非の論理によって捉えられた真理がある、ということになる。
知とは分別でその分別が働いた結果弁証法の真理が現れるのに対して、分別が働く以前の分別知より手前、主客未分の状態という場所の論理のような表現方が西田の純粋経験の考え方と似ているのだ。
西田の純粋経験も、主客未分の混沌とした状態であり、そこに分別が加わることで、分節化された知が出てくるというような構造になっている。西田幾多郎と鈴木大拙の相違は、西田が主客未分の直接経験から出発しながら、それを分別知で処理していこうとする姿勢を取ったのに対して、大拙の方は、分別知にこだわらなかった点である。
そこが、哲学者西田と思想家鈴木大拙の違いといわれる。
ところで大拙は、この即非の論理は、知性ではなく霊性の分野で働くものだという言い方もしている。知性が論理によって働くということは言うまでもない。ところが即非の論理は、論理と言う言葉を内包しているにかかわらず、知性によっては捉えられない。それを捉えるには、人間に備わった別の能力を働かせなければならない。それが霊性だと、大拙は言うのである。
我々の日常の論理からすれば「AはAである」ということは素朴に受け入れることができるが、「即非の論理」がAはAならず」と言明した点が疑問となる。
では、何故AはAでないのか。別な文脈で次のような論を展開してみよう。禅で言う悟りのようなものは私たちの意識が知として分離する以前の直感のようなものでその後無限に分裂、分化(知情意)するものを受け入れているからである。
AというものがどんなAであろうが言語化された概念のAであるならば、そのものは実在しない。「故にAなり」というのは本質を持たない言語上のAという存在は成立するので『空』を示唆するものなのであろう。
ようは知として抽象化されるものの根底には言葉では抽象化されない統一的なあるものがあるからである。それを直感として理解することが即非なのである。
一切のものは、必ず矛盾を含んでいる。Aは非Aに対立しなければAではないが非AはAなることが必要とされる。したがって非AがAの内にあることを意味している。
もしAが矛盾性を持たない純粋なAであればAが非Aであることはない。この矛盾ゆえにAである。そしてその矛盾は私たちが言語による論理化をする時に初めて出てくるものである。
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