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書評『料理人という仕事』稲田俊輔著

 それができれば苦労しないよ、と思っている格言があります。
 「彼を知り己を知らば百戦殆うからず」。
 中国の戦国時代の兵法書『孫子』の言葉です。戦いに際して、相手つまり敵の情勢とこちらの情勢を理解せよという意味です。
 いくら現代が情報化社会でも、敵の情報を知るのは困難です。そもそも自分の敵が何なのか理解するのも難しそうです。
 最近読んだ稲田俊輔著『料理人という仕事』(筑摩書房)は、敵と自分が少し見えた、と思わせてくれた本です。
 私は小説家で、著者の稲田俊輔さんは料理人であり飲食店プロデューサーです。同じ個人事業主かもしれませんが、業種がまったく違いますね。
 しかし、この本で書かれる料理人の修業や独立にまつわるお話は、小説家を続けていく上で参考になる点がいくつもありました。
 たとえば、お金は非常に重要だが根本に自分の理想がなければいけないという見識は、少なくとも私という書き手にとっては肝に銘じるべき命題です。
 次に、人を楽しませる仕事につけた喜びとありがたさを再確認できました。小説家が「面白い」に力をもらえるように、料理人も「美味しい」の一言に勇気づけられているのを知ると、親近感が湧いてきます。
 それから、着手と進行の早さが我が身を守ってくれること、独立後に仕事を続けていく上での多くの制約や忙しさも身につまされ、今後も怠けないようにと改めて意識しました。
 余談ですが、小説やドラマにあるような、料理をクリエイトすることで特定のお客の想いに寄り添うお店は実際には難しいという指摘は非常に頷けるものでした。私も自著『からくさ図書館来客簿』シリーズでコーヒー・紅茶付きの私設図書館を舞台にしていますが、あの世の役所の出張所という設定で、普通のお店ではありません。
 閑話休題。違う業種でも身につまされる、という話でしたね。
 逆に、違う業種だからこそ解像度が低かった問題も詳しく知ることができました。
 一例を挙げれば、カフェの経営はなぜ難しいかという問題です。カフェは客単価が低い上に滞在時間が長いので売り上げが出にくい点は想像がついていましたが、お客がゆったり過ごすために内装にもお金をかけねばならない点などは本書で初めて知りました。
 ところで、カフェの経営について著者が賛成できるのはどういう人なのでしょうか。それは、カフェ以外の業態でもしっかり経験を積んでいる人です。どのくらい「しっかり」なのか、ぜひ読んでみてください。驚きます。ご近所のカフェに畏敬の念が湧くかも知れません。
 解像度が上がったもう一例は、廃業の内訳です。飲食業の店舗は開業から十年後には一割しか残っていないというデータがあります。しかし、その中には巨大資本が試しに出店してすぐ損切りした場合や、他業種が新規参入して失敗という例もあり、地道に準備をして独立した個人事業主の生存率が一割というわけではないそうです。
 ここでいったんまとめると、違う業種でもよく実感できる事情と、違う業種だから分かっていなかった事情が、本書にはいくつも出てきました。
 格言に話を戻せば、自分についてはお金と理想のバランスが課題の一つだとよく分かりました。
 では、敵について何が分かったのかお話ししましょう。
 まず、敵を「特定の課題」「特定の個人」に分けます。
 前者は、前述したお金と理想のバランスなど、個人事業主ならではの悩みです。なお、商業小説家ならではの悩みは、この本に頼らずに明確にする必要があります。
 後者はひとまず「仕事上の競争相手」としてみます。ならば私と同じく、お金と理想のバランスに頭を痛めているという推測が成り立ちます。
 さらに、この本に書かれていたような、さまざまな制約の中で人を楽しませ続ける難しさを常に抱えているでしょう。
 ここまで小説家と料理人を中心に語ってきましたが、『料理人という仕事』は、他の仕事についていたり、目指していたりする人にもお勧めです。
 なぜなら、プロの料理に無縁でいられる人はほとんどいないからです。自炊を心がけている人も、忙しい時や会合や旅行ではお世話になるでしょう。
 戦うには敵と己を知ることも大切ですが、味方と糧食の存在も大事です。お金と引き換えに料理つまり糧食を提供してくれるプロは、ある意味で味方と言えるのではないでしょうか。加えて、膨大な数が存在するプロの料理人たちは、世の中を支えるプレイヤーでもあります。敵と己を知るだけでなく、味方と世の中を知るためにも、本書をお勧めします。

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