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呼吸をするように、ハグする習慣を

ハグには物語があると思う。そして、いろんな意味があることを私たちは無意識に知っているし、万能な表現方法だということに気がついた。

大好きを表現するときや久しぶりに会った感動を伝える時にする抱擁は一般的だ。

それだけでなく、行ってきます、おかえりなさい、と挨拶を形容するものから相手の気持ちに寄り添ってあげたいとき、肯定したいときにも使えるから表現のレパートリーとしてはシンプルな割に幅広い。

双方の同意が成り立たないとできないものと思われがちであるが、片方の気持ちだけでも成り立つハグがあることを最近は身に染みて感じている。

赤ちゃんはよく泣く。それは、お腹が空いた、おむつを変えてほしいという気持ちもあるが、その理由のひとつにはただ抱っこをしてあやしてほしいからと訴えてくることがある。

時にはこちらの事情を無視し、激しく泣いて訴えてくるため、困ったものだね〜と思いながらすぐさま抱っこをすると、ぴたりと泣き止む時には、なんて不躾なアピールなんだと思う。

その一方で、抱っこをしてほしいからという片方の気持ちだけでハグを獲得できる赤ちゃんはスキルが高いし、うらやましい。わたしだって、疲れたときやうれしいときにはすぐさま包まれるようなハグをされたいものだ。

だから、最近はわたしも赤ちゃんと同じように一方的にハグをすることにした。3歳になる息子には、なんの理由もなく「おいで〜」と手を広げて息子を誘き寄せる。

自分が満たされたいからだ。そして、あわよくば息子も癒されればいいとも思う。

子どもが生まれる前までは、ハグは苦手だった。

挨拶がわりに抱擁し合う文化はまだまだ日本には浸透していないし、物心が芽生えるようになってから親からぎゅっとされた記憶もどこか朧げだ。

わたしにとってはどこか、相手のパーソナルスペースを踏み込みすぎてしまうものという認識からか、無意識に怖いのだと思う。距離を一気に縮めてしまう行為が。

恋人になると普通にし合うのに不思議だ。恋人や夫だからといって、パーソナルに踏み込んで欲しくない時もあるのにね。

ただ、唯一、自分から踏み込んで抱きしめあったことがある。

3年前、大学で出会った大好きな友人の結婚式に参列したときのことだ。式の終わりには、新婦になったばかりの友人とわたしの2人で二次会をしてもらった。

結婚前と変わらない、何気ない話をするだけの贅沢な時間が終わったあとに、無性に今まで過ごした思い出や共有しあった想いをぶつけたくなって、ぎこちないながらお互いにハグをしあった。

とても恥ずかしくて、むず痒いものだったけど、今でもふとそのときの記憶がよみがえってくる。

あ〜もっとこんなふうにたくさんハグをし合っていれば良かったな。大学時代にも。

だから、今年は隙があれば大好きな人とたくさんのハグをしようと思う。だぶん、というか絶対、相手からは驚かれるはずだ(笑)。

でも、きっと慣れていないからすぐにはできない。そして、そんなに都合よく抱擁できる場面に出会えない時もありそうだ。

じゃあ練習がてら、自分自身にハグすることからはじめてみることにした。

湯船に浸かっているときに、ぎゅっと腕を絡ませて抱きしめてあげてもいいし、心の中でもよしよしと言ってあげて脳内でわたしを抱っこしてあげよう。

これを書こうと思ったのは、Vaundyの「呼吸のように」のYoutubeを見たからだ。たくさんの抱擁し合う人々のシーンを見て、なぜか感動してしまった。その理由はなんだろうかと突き止めたくて、書いたのがこのnoteだ。


抱擁する関係性は親しい人だけや家族、恋人と思っていたけれど、決してそんなことはないんだと思わせてくれた。

遠くにいる人には「言葉」を通してハグをしよう。今年はそんな1年にしよう。そう思わせてくれたこの動画に感謝したい。

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