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コロナ禍の岸和田祭と岸和田だんじり祭「全町での曳行自粛と各町の祭」

世界的に感染拡大を広げ未だ終息のめどが立たない新型コロナウィルス。
コロナ禍において、岸和田市では岸和田祭の日を迎えることとなった。
岸和田祭といえば「だんじり」「だんじり」と言えば高速で走るだんじりが曲がり角を勢いそのままに曲がり、駆け抜ける「やりまわし」が醍醐味である。
毎年国内外から数十万人の観光客が岸和田の地に見物に集まる。
だが今年の岸和田は様相が違った。

岸和田祭を取り仕切る「地車祭礼年番」による「だんじり曳行自粛」が発表されたのだ。「岸和田だんじり祭」中止という赴きである。終戦直後1945年以来75年ぶりの曳行中止である。
しかしここで勘違いをしてはいけない「だんじり曳行」が自粛であり「岸和田祭」の本質である神事「例大祭(1年で最も重要な神事)」は中止ではない。

筆者は「岸和田祭」「岸和田だんじり祭」と表記を使い分けている。「岸和田祭」とは当地の「岸城神社」「岸和田天神宮」の二社の例大祭を含めた祭礼行事を指すときに使っている。「岸和田だんじり祭」とはだんじり曳行を伴う祭礼行事を示す際に使っている。

本来は例祭日である9月15日にだんじり曳行が行われていたがハッピーマンデーの施行に伴い9月15日が敬老の日ではなくなり、本宮の日程は敬老の日(9月第3月曜日)前日の日曜日に変更され現在に至っている。祭礼参加者である学生や社会人にとって平日開催では参加が難しいという事が大きな要因である。

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そして迎えたコロナ禍令和二年岸和田だんじり祭
例年通りの全町揃ってのだんじり祭は自粛となった。では例大祭の9月15日、そしてだんじり曳行予定であった9月19日、20日は岸和田の町は閑散としていたのであろうか?
否、そんな分けは無いのである。

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例年通り粛々と執り行われた「例祭式」
そして密を避け、感染対策を徹底し、警察への曳行許可を取り自らに課した厳しいルールにのっとり3町のだんじりが曳行された。全町纏(まとい)のみでの「宮入」。宮入時刻にだけ地車小屋を開けていた町。地車小屋の前でだんじりを神社に向けた町。2日間曳行はせずに太鼓をたたき町内の親睦を図った町。例大祭の日に神社に訪れ、だんじり曳行日には静かにその日を迎えた町。

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コロナ禍において如何に「岸和田祭」をおこない、いかに「岸和田だんじり祭」の伝統を未来へ繋げていくかを各町それぞれが試行錯誤したのである。それぞれの地域、それぞれの町、それぞれの役割によって答えは一つではなかった。しかし地域の祭を伝統行事を10年20年先へと繋げていかなければいけないという思いは同じであった。

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本年の岸和田祭と岸和田だんじり祭の取材を通じて今まであまり聞こえてきにくかった言葉「神事」というキーワード。
近年だんじり曳行が先行して「神事」を忘れてしまっているかのように感じていた筆者だがコロナ禍において「なぜそれでもだんじりを曳くのか?」という問いを投げかけられたときに「神社の祭」の本質「カミへの感謝」例大祭であり、「カミとの交流」であるのが「神賑行事としてのだんじり曳行」という無意識の感覚を無理やり意識させられたことによって「神事」という言葉を浮き上がらせたのではないかと思う。

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「だんじりが曳きたいだけやろ?」と意地悪な意見も聞こえていた。何を隠そう筆者もそう思っていた、が取材を重ねていく過程でその考えは浅はかだったと反省しなくてはいけなくなった。

「例大祭」と日程のずれた「だんじり曳行」と「だんじり宮入」だが、だんじり曳行そのものを「神事」の一部であると町民は捉えている事に大きな関心を持った。「なぜそれでもだんじりを曳くのか?」「なぜ日程のずれた日にだんじりを宮入させるのか?」哲学的な問いかもしれないが本年の祭礼を見聞し、まだ誰も言葉にできないフワフワとだが未来に向かって漂っている大事な思いを感じることが出来たと思う。

コロナは脅威ではあるがコロナだけが特別危険な感染症ではない。
コロナは脅威ではあるが経済の悪化に伴い人々が困窮している事も脅威だ。
コロナは脅威であるが伝統の断絶は取り返しのつかない脅威でもある。
正しく恐れて正しく共生していかなければならない。
「岸和田祭」「岸和田だんじり祭」はコロナ禍での「祭礼」の在り方のひとつを示したのではないだろうか。

次回予告
「コロナ禍における岸和田祭と岸和田下野町だんじり祭」コロナ以前と以後

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