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行動力の正解とは

 すべて思うがままに、心のままに行動できるのであれば、誰だってそうするんじゃないだろうか。買いたいものを買い、行きたい場所へ行き、やりたいことをやる。そうできたら、何も思い悩むことなんてないのかもしれない。
 自分に行動力がないと思っている訳ではないけれど、やりたいことを全部できる状況にないことは確かではある。例えば、私が今いる土地を離れたいとずっと3年くらい言い続けていることを、行動できないと言われればそうだろうし、そこに対して反論はできない。「そうできるように計画的に動いてこなかったあなたが悪い。」と言われたら、そうだろうし、「そもそも、そこに住むことを選んだのはあなたじゃない?」と言われたら、その通りではある。だからといって、もう嫌だからと、無鉄砲に家出したら、「何考えてるの?」って言われるだろうし、「どうやって生きていくの?」とも言われるだろう。

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 過去に、やりたいことをやれるだけはやってはきた部分は少なからずある。それをずっと続けていけば、仕事としてやりたいことをできていたかもしれないし、今の状況とはまったく違ったかもしれないし、それこそ言い出したらキリがない。そして、やりたいことを続けていける状況が、どうがんばってもなかったこともある。打破したい部分を、どうやっても打破できないのは、力不足と言われるのだろう。結果がすべての世の中で、何も成し得ないことは結局やったこととしては見られず、その才能がなかったのだと言われるだろう。
 人の目を気にしてはいないけれど、判断されるのは経過ではなく結果だ。結果は確かに大事ではある。だけど、成功と言われるものにならなかった場合に、人はそれを蔑むし、あいつはダメなやつだと言われるし、結局何もできなかった人に見られたりもする。それは、私もまったく思わないと言えば嘘になる。

 しかし、やった結果、できなかったという結論が出ること。それは悪いことばかりを含んでいるのではないと私は思う。やってみたけれど、できなかったことというのはたくさんあって、それは自分に合わなかったということもあるだろうし、タイミングが揃わなかったことでもあるだろう。私が大事だと思うのは、その“やってみた”という事実だと思う。さらに、今すぐできなくても、やってみたいと思うこと。それが原動力でもあるし、その想いを持ち続けることは、いつかの行動力に繋がると思ってもいる。
 そうは言っても、やりたいと思っているが、動けないことだってある。それができたら、それができたならばって何百回も思っている人だっていると思う。私もそう思ったことがある。それに、実際行動に移して、それがどう見られるのかというのは、気になるところでもある。良くないことが続くとさすがに凹むし、やらんかった方がよかったのかもしれないなどと思うことだってある。

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 個人的な話ではあるが、私は去年通信でだけど、大学を卒業した。自分が20代の時できなかったことを、仕事をそれなりにしつつ家事と子育てをしつつ、卒業した。それは、胸を張って言えることだけど、「だからなんなの?」と言われたら、返答に困る。大学に行っている時によく言われて、どういう答えを求められているのだろうと思ったのが、「何のために大学に行ってるの?」という質問である。何のためにって、まぁ大卒を得る為ではあるけど、学び直したいと思ったことが根源にあって、卒業したからそこから繋がる、何かになるとか何かになれるとかは、考えてもいなかった。それは、もし自分が職に繋げるならば大学院に行かなければならないことと、自分が大学生と言える時分に、就職氷河期なのもあったから、周囲の友達が普通に短大や大学を卒業しても、“何かになる”という状況になかったのを見てきたのもある。そして、“何かになる”というのは、時の経過と共に変わることもあることを、20代後半で知る機会が多かったことも影響している。

 これも、1つの現状を変える行動ではあったけれど、それで何か変わったの?って言われたら、どんな状況でもやり遂げることができるということの証明を示せるくらいだろうか。その証明を持って、行動力がある、などとは言えないのかもしれないけれど。
 じゃぁ、何を持って、行動力というのかの話になってくる。常に行動をしていなければ行動力があるとは言わないのか、行動した数を示さなければ行動したことにならないのか、行動力を定義するのは難しいところではあるなと思う。

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 子を持つ人にとっては、ある意味当たり前というか、そうせざるを得ない話にはなってくるが、私は子がある一定の年齢になるまで、自分の行動を抑制していた。当たり前のことかもしれないけれど、そうでなくたって別に構わないとも思う。誰かや何かのサービスに頼ることができたなら、行動を抑制する必要もないのだろうとも思う。私は、そういうものに頼ることができなかった。だからこそ、もうそこを手放していいと思える年齢になってきたなと思って、動き出そうとし始めたのが去年だった。それでも去年はそれをすべて行動できなかった前半があって、そこからすぐ動けばよかったのだけど、そこに外部から抑制がかかった。そんなの気にせず動けばよかったというのは、結果論ではある。その動けなかったことがあったからこそ、もう動いていくんだと思って動きだしたところに、現在の情勢である。
 この情勢の中で、動こうにも動けないし、自分が思うタイミングが、情勢にドンピシャに影響されたりもして、自分ではどうすることもできないことに、どうしようと思ってもどうもできない。かと言って、「どうすることもできないなら、できる範囲でやれることをやればいいんじゃない?」と言われるかもしれない。なので、その範囲でやれることは、やっているのが今ではあるけれど、それだけで、全部が変わるのかと言えば、変えることは難しい。そこには、やっぱりさらなる行動が必要な訳で、今の状況のままやりたい仕事、会いたい人に会うということ、それは、この土地にいる限り限界がある。
 少しでも自分の気持ちを軽減する為にやってきた行動が、いつもうまい具合に動くことは、当たり前だけどない。そんなうまくいかないのが重なっているのが、なにも私だけではないことは言うまでもない。動きたくても動けない。本当は全部投げ出して、思うままに動きたい。だからこそ、苦しい。ずっとこのままが続くとは思っていないけれど、この苦しさを今までとは違うやり方で抜け出さなければならないのだろうことは、過去を振り返ったことで出た結論ではある。今までに感じた似たような流れではない、少し違う流れと風にのって行かなければならない。10年後に問題が来ようとも、もう乗り切っている私でいるために。

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