「正解」を知る意味

受験のシーズンも,もう終わりに近づきました。苦労をされたみなさん,おつかれさま。幸運を,祈ります。

僕自身も,もう40年以上前になりますが,大学受験というのを経験しました。ギリギリ「共通一次試験」とかいうのを,受験してません。国立大学の一期校と二期校があり,運も良かったんでしょう,一期校に合格してしまいました。

その受験勉強は,まぁ「結果的に良かったから」かも知れませんが,途中からは楽しくて。特に数学とかは,あれは受験勉強じゃなかったと思います。単純に,ただの勉強。「これが,こうなら。あれは,どうなの?」「そうなるってことは,こうなるんじゃないの?」というのを,ひたすら探求している毎日でした。
もっとも,受験勉強の最終盤になったら,いわゆる過去問とかもやった(確か12月くらいから過去問に取り組んだと思います)んですけど。これは,苦行だった。ほとんど「楽しさ」を,見いだせなかった。

試験ですから,正解があるのは当たり前というか,必然なんでしょう。でも,その正解を知っていることに,どれだけの価値があるんでしょうか。逆に知らないということが,不合格(=大学生になれない)という価値につながるんでしょうか。
問題を出した人は,もちろん正解を知っているわけです。もし,社会人が同じ問題に直面したら。「正解を知っている人」であることと,「正解を知る方法を知っている人」あるいは「正解を知っている人に教えてもらえる人」であることに,差はあるんでしょうか。

むしろ,正解を知らない人。正解を得ようと頑張ったら,世間一般が正解だと思っている内容とは違う結論にたどり着いた人の方が,成功する可能性があるんじゃないかと思います。

正解を「知っている」ということ(=知識)より,正解を得ようとする努力にこそ,価値がある。自然科学なら,まだしも。経済とか政治とか,いわゆる社会科学の分野だったら,たどり着いた「正解」を正解とするために努力する(=人々の幸福に結びつけるために努力する)ことが,価値があると思います。

60歳になって,もう面倒くさくなっちゃったこともあって,会社勤めを辞めましたけど。
そういう「正解を知る意味」に気付いたことが,きっかけのひとつです。それが,僕にとっての最近の学びです。

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