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仕事の話をしようじゃないか第3回

前回は、取り返しのつかないダメキャリアを転職の際にどう説明つけるかについて書きました。では、このダメキャリアはどのように形成されたのでしょうか?

今回は、私がダメキャリアを形成するに至る経緯を書いてみます。
なお、ここには、特に転職のノウハウはありません。わかっちゃいない人は、本当にわかっちゃいないんだなと思って読んでいただければ幸いです。

私が一年だけ所属していた証券会社

ときはバブル崩壊のあと。失われた何とか年などと後年になってから言われる時期でしたが、当時はバブル崩壊に気づいていた人など誰もおらず、そもそも、そこまで過ごしてきた良い時代がバブルであったと認識していた人もいませんでした。

だから、バブリーな格好をしながらバブリーなあたしという自己認識をしていた人が当時にいたとしたら、それは未来人です。

そんな時代をけん引していると考えられていた証券業界における第四位の企業に、私はなんとなく入ったのでした。まさになんとなくです。

就職活動では仕事を学べなかった

大学主導での就職セミナーに参加するなど、その時代の就職活動のメニューをこなしたものの、今思えば、仕事というものを全くわかってなかったなと思います。

仕事なんてものは、与えられるものであって、それをこなすとお金になるんだわさっていうような感覚でいたわけです。

いわゆる「受け身」の姿勢ですよね。
これは、企業の間接部門に勤めていた親の影響もあるのかもしれません。自分で仕事を切り開かなくても、依頼されたものをこなしていけば良い種類の仕事でしたので。

そんなわけで、仕事は受け身の姿勢ですべきものと思い込んでいる世間知らずな人が、満を持して就職します!

世間知らずが営業マンになる

なんとなく就職しまして、ここから、面白営業活動が始まります。

ひとまずのゴールは証券口座を開いてもらうことになります。

「何とかデータバンク」が発行した地方都市の企業のリストを100件が配布され、そこの社長を狙いなさいという指示でしたが、私はこれを真に受けて電話をかけ続け、「取れないな取れないな」とか言ってたんです。

今考えれば、これは単なる根性醸成を目的とした苦行にすぎません。
100リストなんて電話の作業なら3時間分です。
それに、ほとんどが東京の大企業の地方子会社で、そこの社長なんて、居るようで居ない人たちだったのです。

ということに、遅ればせながら気づくことになります。

街でも炸裂する世間知らず

ほどなくして、今度は外回り営業の地域割りをされるんですが、私は近くの歓楽街を選びました。賑やかそうだから。
しかし、外回りをする17時くらいまでの時間って、歓楽街はやってないんですよ。

歓楽街に野菜を卸している会社や不動産会社の口座が取れたのは成果ですが、それだけでした。
クラブやバーには挨拶回りすらしてません。

今考えると、若い新人が夜間にわけもわからずクラブやバーを訪問して叱られるくらいが丁度良かったんじゃないかと思います。やらなかったのが悔やまれますね。

何故こんなことになるのだろう

強いて他人のせいにするならば、当時の証券会社の支店レベルには、研修プログラムといえるようなものはありませんでした。時間つぶしのように研修は行われましたが中身はありませんでした。

トップの成績を取ってるような先輩も、転勤した先輩のお客さまを受け継いで育ててトップになったのでした。だから、新卒がイチから顧客を獲得するまでのノウハウなどなかったのです。

ではどうすればよかったのか?

先ほど触れたような夜の街に出るのもよし、地元企業に職域営業を仕掛けるもよし、住宅街を回るもよし。
証券会社の顧客になる層などどこにでもいるのですから、その見込み客の持つどのようなお金を口座に入れてもらうのかまできちんとストーリー立てて営業をすれば、新規獲得もできたはずです。

あるいは、ほかの諸先輩方と同じく、転勤する先輩が持っていた顧客を受け継ぐか。
転勤までの平均年数は3年ほどですから、3年待てば食えてたんですよね。

そんなこともつゆ知らず、1年で会社を辞めてしまいました。
ただ我慢するだけで、この会社には勤め続けることが出来たと思うと、少し残念ですが、それは仕方がないことです。

このように、私のダメキャリアが、無事に形成されたところで今回の話はおしまいです。

次回、もう少しだけダメキャリアと就職氷河期の話を書こうと思います。

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