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映画「悪は存在しない」山と森の意味は。ひとつの解釈。(ネタバレあり)

濱口竜介監督の映画「悪は存在しない」
山の中、森を見上げながら進む映像で始まる。
それも結構長い時間だ。
やがて、森の中で暮らす主人公の一人、父親が登場する。
薪を割り、水をくむ。近くに住む知人、友人なのかもしれないが関係性は知人と感じてしまうほどそっけない。山に住む人は寡黙なのか言葉数も少ない。
知人は、今度開発が予定されているグランピング場の説明会についての集まりが夜にあることを伝える。
父親は娘の迎えに遅れたことを思い出し水くみの途中で急いで学童へ向かう。
娘は父親がいつも迎えに来ることを忘れてしまうのを承知で一人で家へ向かう。
追いついた父親と娘は森の中を歩き家へと向かう。森の中のことを父親はよく知っていて娘に教える。娘は山鳥の羽を拾う。


夜、先生と呼ばれる地区長の家で開発業者の件で話し合いを持つ。
どうやら補助金目当てのようだと印象は芳しくない。
先生は娘が見つけた山鳥の羽を貴重なものだと喜ぶ。
けれどあまり深く山に入ってはいけないよ、と娘に伝える。


説明会当日、開発業者は担当の社員だけで責任者は来ず。開発計画に対する住民からの不安・不満に圧倒され答えることができず、どうしたものかと上司と住民との板挟みに窮してしまう。

都会、開発会社の会議室、コンサルタントとウェブ会議をするも住民に誠実な対応をする気のないコンサルタントと社長に対して担当社員の反論もなしくずしにされ、あげくにはすぐに山へ行って父親を懐柔して来いと命じられてしまう。
山への車中、担当社員も本意ではない仕事に対して愚痴てしまう。
父親からはGPSで示して場所へ来いと連絡が来ている。

再び山へ。父親は変わらず寡黙。
担当社員は及び腰で接しながらも、自分も本意ではないこと。
むしろ山で暮らしてみたいと饒舌になって話す。

話すうちに父親は娘の迎えに遅れたことを思い出し学童へ向かう。
その後事件が起きる。

山の森を通ると世界が変わるようだ。
こちらとあちら。
操れる世界と操れない世界。

もともと山の住民たちも開拓民として移り住んできたものたちだ。
けれども山と森と折り合いをつけながら、過ぎたことをしないように生活してきた。
その暮らしを守りたいだけだ。
担当社員も社命で命じらた仕事で本当にしたい仕事ではない。
出来ることならば住民の意思を守りたいと人生を変えるほどに考えを変えた。

そんな現の出来事を山と森は見ていたのか、
ラストシーンの出来事はだれの意思なのか。
真相は藪の中になっているが
山と森の中の出来事は人の世の理を超えている。

山の中、森を見上げながら進む映像で映画は終わる。




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