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決定打は、誰も打ってくれない。

わたしは長年「自分は何者か」が分からずにいた。「何か違う、みんなとは違う」それだけは確かで、話せば話すほど、考えれば考えるほど違和感だけが残る。なのにどこまで行っても私の中に「揺るぎないもの」は見当たらなかった。

それは争いようのない絶対的な確信。わたしのゲイやバイの知り合いみんなそういうものを自身の中に持っていた。自分のセクシャリティについて思春期の頃に気付き、疑いなくその答えに自信を持っていた。わたしにはそれが無かったので、自分は普通ではないけれどセクシャルマイノリティでもないのだと勝手に思っていた。

今思えば、普通でないと感覚で言い切れる時点でセクシャリティマイノリティである。

しかも調べてみて初めて知ったが、セクシャリティとは時を経て変わることもあるらしい。カチッとずっと同じ人ももちろんいるのだろうけど、生きている上で気付いたり新しい価値観に出会い自分の感じ方が変化していくことも、全然ある。

揺るがないものが答えだと思って彷徨い続けていたが、そもそも揺らぐものだった。

だとすれば、何が、誰が、わたしは何者かと定めてくれるのか。それは自分自身以外に存在し得なかった。決定打は、誰も打ってくれない。わたしがわたしを認めてあげる以外なかった。

一昨年の年末ごろ、突然それに気付いた。ハッとしたというよりは、あれ?もしかして?とじわじわ。と同時に、わたしがこうだ!と決めたことに対して「いや、違う!」と言える人のほうが居るわけがないという事にも思い当たった。何故ならこれはどこまでいってもわたし自身の話だからだ。他の誰でもないわたしについての話。

自分の感じていることに自信を持つ、それが第一歩だったように思う。そのままでいいよ、あなたは間違ってないよ、と自分に言い続けた。そうすることで徐々にじんわりと納得感のようなものが生まれて、楽になっていた。

すると次に、自分が愛している人たちにも知ってほしい、受け入れてほしいと考えるようになった。世界中の人に認めてもらえなくても、理解してもらえなくても、いつも心の支えになってくれている大好きな人たちには、わかってほしかった。分かってくれるという信頼もあった。
そうやって少しずつ自分をアウトプットすることで、わたしをさらに掘り下げることができたし、世の中に広まっている大多数の意見だけが全てではない、と伝わるだけでもわたしの心が軽くなっていった。

カムアウトといえば、そうなのかもしれない。でもわたしにとっては、それも自分自身への確認作業の一つだった。
自分の話を人にすると、自分をよりよく知れることになる。だから、もっと話していこうと思う。放っておくと黙って止まってしまうのが、今までのわたしなので。それよりもうちょっと広い世界で生きてみようと、最近は思うのでした。

自分は何者なのか。
わたしは、わたしである。

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