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【エッセイ】旬

一瞬だけを切り抜きたいと思う瞬間がある。
心動いたその瞬間、その景色をじぶんの細胞の中に、取り込んでしまっている瞬間がある。

先日、パソコンの中の写真フォルダを整理していたら、数年ぶりの写真と対面した。
久しぶり、数年前の私!という感じだ。

何も変わってない。やだ、ちょっと前の私、ずいぶん若かったわね?
と写真を眺める。
フォルダの中は、あの時、楽しかったな〜という思い出がコロコロと転がって、よみがえる記憶と共に感傷にふけっていたら、写真整理がちっとも進まなかった。

中には、なんでこんな写真とったんだろう?と思うような、得たいの知れないものもあった。

でも、ふと思う。全てが、その時の私の旬だったんだよな〜と。

数年前の私が感じた「旬」が、パラパラ漫画のように過去の中で息づいているのを発見した。

旬は五感をふるわすようにやってくる。

今日、職場にいると(私は保育園の栄養士をしている)八百屋のお兄さんがダンボールを2つ抱えてやってきた。
一つは野菜が入ったもので、上に重ねられたもう一つのダンボールには、今年に入って初めてとなるイチゴのパックが4つ入っていた。

受け取った瞬間、ダンボールの中からふわっといちごの甘い香りが広がって、私はたちまち幸福な気持ちになった。

1年で果物をおいしく味わえる期間は長くはない。
いちごを楽しみにする子どもたちの様子が目に浮かんだ。

「このいちご、甘いですよ!」と誇らしげな表情で伝えくれる八百屋のお兄さんの顔もまた「旬」だった。

今を生きて、自分の職業に誇りを持って、愛している人の顔だった。

私は、「旬」を感じると、たちまちそれは私にとっての被写体となり、その瞬間全てを細胞の中に納めたくなってしまう。

ある時の忘れられない「旬」の記憶がある。

数年前に、友人数人と彼女らの子どもたちを連れて、大きな公園に出かけたときのことだった。

1日中たくさん遊んで、遊び疲れた友人の子どもたち。
帰り道は小さな足取りで、まぶたをこすりながら駅まで頑張って歩いていた。

小さな子ども2人と、手を繋いだ友人が前を歩いているときのことだった。友人の後ろ姿と小さなリュックを背負った子ども2人の後ろ姿を、なぜか私は無性に撮りたくなった。

夕暮れが3人の背中をさして、遊んだ幸福と疲れが混じったまどろみのような一瞬を自分の中におさめたくなった。

その時、私は写真を撮ることはなかったのだけれど、じっと心のシャッターを押した。

この景気は2度ともうやってこないのだと、なぜかふいにそう思ったのだ。

だから今を切りとっておきたかった。

なんてことのない一コマだったのに、数年経った今までもあの時のことを覚えている。

実際に、その後友人は地方に引っ越し、長らく会えなくなった。

けれども私の中には、写真には納めなくても、形には残さなくても、「旬」はずっと心の中にある。

いつの時も、「旬」を味わう人でいたい。
どの瞬間のきらめきも、とりこぼさない人でいたいと思う。

それが、果物を五感で味わうように、その時、その瞬間を感じていたいと思う。

眺めだした写真は結局、整理が終わらなかった。

旬を味わってたら、どれも捨てがたくなってしまったからだった。

でもまあいいか、と思う。

たくさんの「旬」を味わいながら、過去のフォルダにそっとしまいながら、その時その時を味わって生きていくことが、きっと人生なのだと思う。








友人の子どもたちを連れて。








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